放課後は、大抵の学生が一日待ち望んだ自由時間である。朝から緊張に張りつめていた空気から脱却して教室を飛び出す生徒の姿はどのクラスでも大概同じで、貴族生徒の方が若干余裕がある程度の違いだ。特科クラスとして個性的な生徒が集められているZ組とて例外ではなく、特に集まる用事が無ければホームルームが終わった瞬間、ぞろぞろと皆教室から出てそれぞれ目的の場所へと足を向ける事となる。そのまま教室に残る者はといえば、特に部活動に参加していない者、教官室などに呼び出しを食らっており腰が重い者、それに、授業中からずっと居眠りを継続していて突っ伏したままの者など、それぐらいだ。
「……はあ、まったく……」
自分の席に座ったまま、リィンはため息をついて斜め後ろを振り返った。部活等に何も属していないリィンは放課後特に急ぐ用事もない事が多いため、教室を去る皆を見送ってからのんびり席を立つのが毎日の事だった。最近はそれにプラスして、余計な仕事まで増えている。それがこの、机に突っ伏したまま起きようともしない銀の頭であった。
この頭が、今日最後の授業の時間からホームルーム、そして放課後となった今まで一度も持ち上がらなかったことを、リィンは気配で知っていた。とても留年間際の者の態度とは思えない。教官たちも最早諦めているのか、小言を軽く言ったり何も言わなかったりとほぼ放任されていた。それでいいのか士官学院。クラスメイトたちもこちらに任せっきりで、こうやって手ずから起こしてやるのはリィンだけとなっているのである。今日も今日とて教室に最後まで残ったのはリィンと、このもう一人だけ。甘やかしているのだろうか、とたまに悩んだりもするが、不思議とこの仕事を呆れはしても嫌だと思った事は無い。
自分の席から立ち上がって、リィンは身動きしない年上のクラスメイトの前に移動する。まずは、声を掛けた。
「おいクロウ、授業は終わったぞ、起きろよ」
しかし返事は元よりピクリとも動きやがらない。この時点で素直に起きた事は経験上ほぼ無いので、予想の範囲内だ。今度はクロウの肩に触れ、軽く揺さぶる。
「こら、クロウ」
むーとか何とかぐずるような声が聞こえた、が、まだ起きない。ほぼ寝ぼけたようなその声に、今日は本当に寝入っていたのかと思う。たまにこの性質の悪い先輩は、リィンを困らせるがためにわざと寝たふりしている事がある。ここまで顔を上げようともしない時は大体がそのパターンだ。だから今日は珍しく思った。だらしなく見えて結構首を突っ込みたがる面倒見の良い奴だと知っているので、何かよほど疲れるような事に巻き込まれているのではとちょっと心配になった。他の誰かが聞いていれば、「自分の事は棚に上げて」と呆れられていただろう思考だった。
とにかく今は起こさなければならない。寝るなら自室か保健室のベッドが、疲れをとるためには結局は良いのだ。
「クロウ」
それは、少しいつもと違う行動だった。普段なら寝たふり決め込んでいるのを確信して水のアーツを放とうとしてみたり(残念ながらいつも寸での所で飛び起きられるので放ったことは無い)、耳元でクラフト「激励」を使って驚かせたりしているのだが、今日は何となく……そう、クロウが疲れているような気がしたから、もう少し穏便に起こす方向に自然と向かったのだろう。
リィンはほぼ無意識に、ぽんぽんと右の手の平で軽い衝撃を、銀色の頭に与えていた。
「あ……」
……意外と、柔らかい。あと昼寝をしていたせいか窓際の席のせいか、ぽかぽかと暖かい。クロウの頭に手を乗せたまま、リィンは思わず感慨深いものを感じていた。恐らくクロウの頭に触れるのはこれが初めてになるだろうが、なかなか触り心地の良い髪だった。色はいつも、その一点の曇りのない銀色を眩しく感じてはいたが、感触まではさすがに想像すらしたことがなかった。普段は自分の頭より上の方にある色だから、意識したことが無いのも仕方のない事だろう。
何故だか感動めいた気分まで沸き起こってきた。リィンは胸の内から溢れ出る衝動のまま、己の手を動かしていた。ゆっくりと、髪を乱さないように丁寧に、手の平の下にある頭を撫でる。小さな頃から妹を寝かしつける度に撫でてきた熟練の腕が、寝入る者の邪魔にならないような優しい力でクロウの頭を撫でる。起こすために触れたのに、今は完全に眠りを誘う動きをしている己の手が何だかおかしくて、リィンの口元に笑みが浮かぶ。しかし止めようとは思わなかった。
相手が身動き一つもしない事を良い事に、リィンはそのまましばらくクロウの頭を撫でていた。慰めるように、労わるように、柔らかく撫でるその手を見た者がもしいれば、父性、いや母性さえも感じたかもしれない。それほどまでの感情が傍から見ても込められているような光景だったが、本人に自覚は一切無い。ただ、疲れているように見えたクロウが、少しでも癒されればいいなとか考えているだけだった。
そうしてどれほどの間そうしていただろうか。時間的にはそれほど長くない、せいぜい一分程度の時間だったはずだ。しかし初めての触感に飲まれていたリィンにとっては、一瞬ほどの短さにも、永遠に近いほどの長さにも感じていた。何故か安らいだ時間だった。その時間を止めたのは、下の方から響いてきた地を這うような低い声だった。
「……で?君はいつまでオレ様の頭をおもちゃにしているのかなリィン君?」
「あ、クロウ。起きてたのか」
「起こしたのはお前だろうが。その後今度は逆に寝かすような行動取るもんだからさすがに戸惑ったがな」
リィンが頭から手を放せば、クロウはようやくむくりと起き上がった。そのまま向けられる表情は、何故だかとても文句を言いたげな顔。そこでリィンはようやくハッと、クロウに掛けられた言葉について考える。おもちゃ、と言っていた。クロウはきっとリィンがふざけてからかうために撫でていたと思ったのだろう。誤解されないようにと、慌てて弁解する。
「すまない、別に遊んでいたわけじゃないんだ。ただ何となく、クロウが疲れているように思えてさ」
「へえ?」
「それで気が付いたら撫でていたんだ。労わっているつもりだったんだけど、クロウの頭の感触が想像以上に気持ち良くって、逆に俺の方が癒されたような心地だったな」
「………」
せっかく起きたクロウの頭が、ゴツンと音を立てて机の上に落ちる。まさか眠気の限界が来たのか、とリィンは焦ったが、クロウは顔を伏せたまま何かブツブツ言っている。二度寝した訳ではないらしい。
「あー……こいつたまに、マジで怖い……」
「は?え、何が?」
「……まあ、疲れてるっつーのはそれなりに合ってるかね。近頃ちょっと寝不足気味でな」
「そ、そうなのか?」
「これでも悩み多き年頃の青少年ですからー。今度は誰を賭けブレードのカモにしてやろうとか、学院一の美少女は誰だとか、深刻な悩みを抱えているが故に眠れない夜もあったりした訳よ……よよよ」
「ああ、そう……」
顔を伏せたままわざとらしい泣き真似をしてみせる先輩に、途端に冷めた視線を送るリィン。しかしすぐに困ったような顔になり、目の前に曝け出された銀の頭をまた何となく撫でる。今度はクロウがバッと顔を上げて反応したので、長引きはしなかった。
「今の流れでどーして頭を撫でてくれるのかな君は!」
「えっ?ああ、いや……」
「何だその反応は、まるで「完全に無意識でした」みたいな顔!所構わず撫でまくる撫で魔かお前は!撫で魔神!撫で大魔王!」
特殊な単語で罵ってくるクロウに、さすがのリィンも心外だとばかりに反論する。
「べっ別に、どこでも誰でも撫でる訳じゃない!人聞きの悪い事を言わないでくれ!」
「いいや、時と場合を選んでいたら今のは絶対撫でるべき場合じゃねえな!違うか!」
「違わない!今のだって俺が撫でたいって思ったから撫でたんだ!」
「それがおかしいっつってんだよ!何が悲しくてお前は年上の男の頭を撫でたいだなんて思ったんだよ!」
「それは……」
そこでリィンは言葉を途切れさせた。自分でも気が付いたのだ。クロウを撫でたいと思った気持ちは本物であるが、確かに今までそういう衝動が沸き起こってきたのは、年下だったり女の子だったりと守るべき対象であった場合が多い。そう考えるとクロウは例外中の例外となるだろう。
「……確かに、クロウみたいな奴を撫でたいと思ったのは初めてだな。何でだろう」
「それはこっちが聞きたいんすけど」
いくらクロウにじっと見つめられても己の中から理由は出てこない。単純な力の差で言えばクロウの方がリィンより強い事は明白で、おまけに歳の差、経験の差を考慮すれば追い付けるのかどうかも不安になるぐらい、クロウはリィンの前にいる。見習うべき素行では決してないが、それでもリィンはこの先輩に一種の憧れも抱いているほどだった。そんな相手をこんなにも撫でたくなるなんて、考えれば考えるほど自分でも不思議で仕方がない。
けれども今、クロウを撫でたいと思った理由の一つはほんの少しだけ分かる。こちらが冷めてどうでも良くなるようなふざけた言葉を、わざと発したからだ。深刻にならないように、踏み込まれないように誤魔化されたのだと分かってしまったからだ。たまにクロウはそうやって相手を煙に巻いて、それ以上自分に近づいてこないように牽制する。自分はさりげなくかつずかずかと相手の心に入り込んでくるくせにずるいと、憤りさえ感じる事がある。そういう負けん気な心のためにクロウへ触れたくなったのだろうかと考えた。
では何故、そういう気持ちになるのか。どうしてそういう気持ちになると撫でたくなるのか。そこがどうしてもよく分からなかった。説明できない衝動に何だかどんどん申し訳なくなって、リィンはいつの間にか俯いていた。
「……ごめん。理由もなくいきなり撫でられたりしたら、困るよな」
自分でも分からない事なのに、他人ならばなおさらだろう。ぶしつけに触れてしまった事を後悔し始めた目線の先、溜息と共に机の上にあった両手が無くなり、席を立つ音が聞こえる。顔をあげられないままそれを見て聞いていたリィンの頭に、いささか乱暴にぽんと、大きな手が乗せられた。びっくりしている間に手はぐしゃぐしゃと黒い髪をかき混ぜて、顔をあげればにんまりと細まった赤い目と出会う。
「バーカ。オレ様を撫でるなんて十年早いって事よ。後輩はこうやって先輩に大人しく撫でられとけばいいんだよ」
「な……?!」
「そうだなあ、たまーになら許してやらん事もねえよ、不意打ちとかでなければ。そのかわり何倍にもしてお返ししてやるけどな、こーやって!」
「う、うわあっ?!ちょ、クロウやめろ……!」
両手で勢いよくぐしゃぐしゃと撫でられまくって、リィンは慌てる。しばらく逃げようにも逃げられない状態が続き、解放された頃には頭がボサボサのふらふらになっていた。肩を落として落ち着かせるリィンのそのぴょんと跳ねた髪を、詫びの様に優しい力で指が梳く。
「あーしかし、不覚にももう一回されてもいいかと思うぐらいにはお前の撫で方もなかなか良かったな。さすが撫でマスター、そのテクニックで数多の女を落としてきたんだろ?ん?ちょっくらお兄さんにコツを伝授してみ?」
「……そんなテクニック持ってないし、持ってたとしてもクロウに教える必要はないだろ」
「えー、ケチ」
「ケチなもんか。……今、あれだけ乱暴にされたのに別に痛くもなかったし、クロウの方が上手いんじゃないか?」
「いやいや。リィン先生に比べたらまだまだっすよ」
「先生言うな」
笑いながら離れていく指先を、何だか名残惜しげに見つめてしまっている事に気付いて、慌ててリィンは目を逸らした。逸らした先の己の手を見つめ、先ほどこの手で味わった感触を思い出す。
たまになら許すと許可をくれた頭は今、鼻歌を歌いながら帰り支度をしている。気付けば室内は窓から入る夕日に照らされて夕焼け色一色で、その光を映す銀髪もまるで燃えるように赤々と輝いている。火傷しそうだな、とごく普通に思った。その思考が、あの髪に触れる事前提のものである事には遅れて気付いた。
待ち望んでいる、というのだろうか。またあの、無防備な頭を撫でる日を。あの繊細な銀の髪が指に絡む心地を。微かな体温を感じる時を。
(次の「たまに」は、いつ来るだろう)
その日からしばらくリィンは、あの時の感触がなかなか忘れられずにこっそりと困る日々を過ごす事となった。
遠くから喧騒が聞こえる。断続的に小さな地響きも。戦いはまだまだ大規模に行われているのだろう、この場所から距離のある場所で。ルーレの町中にまで戦況が伸びていなければいいが、と、暗闇を見つめたままリィンは案じていた。
帝国軍と領邦軍の衝突はザクセン鉄鉱山で勃発した。このような正面からの真っ向な争いは久方ぶりで、慌てて駆け付けたリィン達一行も否応なく巻き込まれる事となる。主な戦場は坑道内ではなく外であったが、坑道の中でも小競り合いが発生しており、中に取り残された鉱員たちの救出のため、リィンと仲間たちは狭い鉱山内を駆け回っていた。大規模な崩落があったのは、その真っ只中の事だった。
あるいは戦っていたのがその辺の魔物や兵士であれば、リィンも逃げる事が出来たのかもしれない。しかしその時リィンが対峙していたのは、その辺の適当な者とは一線を画する敵であった。そのため保護した鉱員と仲間たちを辛うじて逃がす事が精一杯で、リィンは敵と刃を打ち合いながら崩落の中に消えるしかなかったのである。
リィンの名を呼ぶ仲間たちの悲痛な叫び声がまだ耳に残る。また心配をかけてしまったな、とリィンは今更ながら反省していた。
「……まだ、生きてるよな?」
どれほどの間じっと座り込んでいただろうか。おもむろにリィンは何も見えない視界の中話しかけていた。
幸運なことに、巨大な瓦礫たちはリィンの頭の上に直接落ちてくることは無かった。ただ四方八方を岩で塞がれ、立つ事も出来ないほどの僅かに残った岩と岩の間にこうして縮こまっているしかない。光の一切入らない漆黒の空間で、そうやってかろうじて生きていたのはリィンだけではなかった。
「……ぼちぼち、な」
返事は無いだろうと半ば覚悟していただけに、そうして言葉が返ってきた事にリィンは驚いた。何せ今まで対峙してきて、何を話しかけても何を叫んでもろくに返事もくれなかったのだ、この元先輩は。言葉は無くても何も見えなくても、こんな狭い中何とか肩を触れ合わせることなく腰を下ろしている至近距離な状態なので、相手が生きているかどうかなんて気配で分かる。会話をするつもりがないなら無視してくれても良い状況だったのだ。さっきまで、この崩落に巻き込まれる直前まで戦っていた相手なのだから。それなのに返事を返したという事は、少なくとも今は少しでも会話する意思があるという事だ。
聞きたい事は山ほどある。言いたい事はその倍あった。しかし今は何も出てこなくて、結局当てつけのような言葉を零れ落とす事しか出来ない。
「そうか、俺もぼちぼちだ。どこかの誰かさんに切り付けられた所が痛むが、傷はそれほどでもない」
「へえ、奇遇だな。俺もどこかの元後輩が掠めてった傷がひりひり痛んでいる所だ」
「それは気の毒に。恨みでも買ってるんじゃないか?」
「買ってるだろうなあ、山ほどに」
いっそしみじみとしたその声に、リィンの眉がしかめられる。どの口がそれを言うのか。
それにしても、さっきまで本気で切り合ってきた相手との会話とは思えないほどの穏やかな会話だった。状況は非常に狭い暗闇に揃って閉じ込められているという大変よろしくない所であるが、声だけ聞けばまるで、この帝国全土を巻き込んだ戦乱が起こる前の、あの平和な日々に交わしていた言葉のようにも思えた。……そんなに経っていないはずの過去が、遠い昔の事のようだ。
リィンは体勢はそのまま、懐を漁って何かを取り出した。いつ何が起こるか分からないからと、念のために忍ばせていた予備の薬だった。一つだけあったそれを手に持ち、暗闇に呼びかける。
「クロウ」
「誰だそいつは?ここには敵同士の俺とお前しかいないぜ」
「じゃあ誰かさん、薬を何も持っていないんだろう?これを使ってくれ」
近くにいるはずの相手の輪郭さえ見えない闇の中へ、薬を放り投げる。行方は目で確認する事が出来なかったが、パシッと無事キャッチする音を拾った。一切見えなくてもきちんと受け取ってみせた腕前に内心感心する。リィンが放ったものを綺麗に受け取ったはずの相手は、しばらく無言だった。その後まるで気の抜けたような笑いがククッと漏れ聞こえる。
「敵だっつってんのに、お優しい事で。自分の分はどうした」
「もう一つあるから、お構いなく」
「へえ、少しは嘘をつくのも上手くなったもんだな」
「何の事だ?俺とあんたは敵同士だと言うならば、そんな情報知らないはずだろ」
「……ああ、そうだったそうだった」
それに、と。リィンは自分の膝を抱えて、見えない銀髪を睨み付けながら小声を零す。
「俺よりあんたの方が今は消耗してるだろう。あれだけの崩落の中、俺は何故か戦いでついたもの以外の傷は一切つかなかったんだ。何故か、な」
「………」
今度こそ、沈黙が返された。いくら混乱した状況の中でも、あの瞬間何が起こったかぐらいリィンにだって分かっていた。自分が瓦礫に押しつぶされなかった理由と、戦いの中でリィンを圧倒していたはずの相手の方が今は傷ついているらしい理由は、同じものであるという事。それを察したのか、ごそごそと薬を使う音がする。バツが悪かったのだろう。
リィンはぎゅっと拳を握りしめた。自分の内から、怒りに似た感情が沸き起こってくる事を自覚した。矛先はもちろん、隣に座る自称敵同士の男にだ。
相手の行動は矛盾している。敵同士だと公言しておきながら、あれだけの殺気を込めて本気で斬りかかっておきながら、リィンが崩落に巻き込まれる寸前の所を身を挺して助け、その命を救った。クロウ・アームブラストはフェイクだった、元々存在していなかったと残酷な言葉を叩きつけておきながら、ふとした時、まさに今なんかに、士官学院で共に過ごしたあの時感じた温もりと同じ片鱗をちらつかせる。諦めろと言いながら諦めさせない。ひどいものだと思った。
「……なあ、クロウ」
返事は無い。クロウはここにいない、と言い張るのだろう。リィンはそのまま続けた。
「お前は本当に、ひどい奴だな」
そうやって元々切り捨てるつもりだったのなら、どうしてこんなにも俺の心の中に入ってきやがったんだ。
そんな泣き言はかろうじて飲み込んだ。しかしニュアンスは伝わったのだろう、クッという笑い声にも似た声が届く。その笑いがリィンに向けたものだったのか、己に向けたものだったのかは分からない。ほらまた、とリィンはふてくされる。ここでそんな風に笑う奴を、クロウ・アームブラスト以外にリィンは知らない。悪逆非道の<<帝国解放戦線>>リーダー<C>はきっと笑う事は無かった。だって、リィンがひどい奴だとなじるクロウ・アームブラストを、<C>が知っている訳がないのだ。
そうしてリィンは気づく。この男もまた、クロウを捨て切れていないのではないかと。当たり前だと思った。人一人の、たとえばリィンの心の奥底に消えない跡をつけてしまうほどの、あんなに存在感のある人間を、跡形も無く簡単に消してみせられる訳がないのだ。リィンが諦めずにしつこく追い縋るのもまた、それに拍車をかけているのかもしれない。ざまあみろ、と思った。同時に、気の毒にも思った。正体を隠すための仮初の存在を消し切れずに、彼はここまで来るしかなかった。それはおそらく、とても面倒で、しんどくて、苦しい事だろう。断ち切れない過去のしがらみを殺すつもりで挑んだ戦いの中で、とっさにこちらを庇ってしまう程度には。
気付いた瞬間、リィンの内に怒りの代わりに溢れてきたものがあった。かつてこれほどの衝動に駆られた事は無かった。いいや、限りなく似た感情を持ったことはあったか。まだ二人がトールズ士官学院の生徒をしていた頃、二人きりの放課後の教室で、あの時抱いた気持ちを何倍にも凝縮したような熱いものが、次々と喉元にこみ上げる。身を焦がすような熱情のまま、リィンは口を開いていた。
「クロウ、頭を撫でさせてくれ」
「……はあ?」
心の底から呆れたような声が届く。そんな事はお構いなく、リィンは狭く暗い空間の中でわずかに腰を上げた。リィンが今の言葉を本気で発言して、そして行動に移そうとしている事に気付いた声が焦る。
「おい、待て、いきなり何なんだ」
「前に言ってただろ、たまになら撫でさせてやるって。あれからもう結構経ったんだから、そろそろいいじゃないか」
「知らない、そんな約束知らない。そもそもお前とそんな言葉を交わした男はもうここにはいないって、何度も言ってるだろうが」
「あんたが知らなくても俺は知ってる。知らないならちょっと黙っててくれ、俺はクロウを撫でるんだ」
「いや、そう言ってお前が手を伸ばす方向にはクロウじゃなくて俺しかいないんだっつーの」
「関係ないな。俺からすれば最初からクロウはここにいる。今から俺が撫でた頭がクロウなんだ」
「何つー理屈だそりゃ……」
困ったような弱ったような声は、しかしその場から逃げようとはしない。逃げ場などこの閉じ込められた空間に存在しないのだから当たり前だ。リィンは聞こえてきた声と感じる気配と後は勘で、躊躇なく暗闇に手を伸ばす。自分の頭より上の方、そんなに離れていない隣へと迷いなくかざされた手の平は、すぐに柔らかな何かに触れた。かつて触れた事のあるその感触に成功を確信する。触れた髪が逃げを打つ、前に腰を上げ、その頭を思い切り両手で抱え込んだ。
「ぐえっ?!」
胸のあたりに押し付けられた顔からくぐもった悲鳴が聞こえる。これでひとまずふらふらと逃げられる事は無い。安堵したリィンは、左手で抱えたまま右手で遠慮なくその頭を撫でた。覚えのありすぎる触感に、何故か得意げな気分になる。ほらやっぱり、こいつはクロウ以外の何者でもないじゃないか。
念願の感触にいっそ恍惚としながら、抱えた頭を撫でるリィン。悲鳴を上げた頭は少しだけもがいたが、すぐに全てを諦めたように大人しくなった。都合が良い。そのまま好きなだけ銀色のはずの髪を掻き混ぜる。あの色が見えないのは少しもったいないと思った。
「……何、この状況」
文句を言いたげなくぐもった呟きが押し付けた胸の所からこぼれてくる。無視しようかと思ったが、さすがに理由ぐらいは伝えてもいいかもしれない。
「馬鹿な子ほど可愛い、という言葉を知っているか、クロウ」
「俺はクロウじゃないが、その言葉は知っているな。昔とある奴に嫌というほど味あわせられた事がある……え、まさか、それで?」
「その言葉、今ならより良く分かるような気がするんだ。どうしようもない馬鹿で、甘くて、ひどくて、可哀想な奴だなって思えば思うほど……」
今なら分かる気がする。何故あの時、この頭を撫でたいと思ったのか。するりと人の心に入り込んでおきながら、自分は踏み込ませない卑怯者のくせに、完全にはリィンを退けなかった甘さ。矛盾する態度。人を翻弄させながら、自らも翻弄されていたのだろうあの時のクロウの心中を考えると。
リィンは微笑む。馬鹿な頭を抱える腕に、僅かに柔らかく力を入れる。
「愛しいと、感じるんだ」
撫でる手は止まらない。何も見えない闇の中、クロウではないと言い張るクロウの頭を撫で続ける。
やがて一度だけ、リィンの頭を何かが掠めた。
「……馬鹿は、お前だろうが……」
その、ぽつりと零れた呟きは聞こえなかった振りをして。
二人はそのまましばらく、撫でるまま撫でられるままで、二人だけの時間を過ごした。
せめて助けが来るまで。戦乱が遠のき、騎神を呼び寄せられるまで。ここを去らねばならない時が来るまでは。
声に出さなくとも、考えている事はきっと同じだった。
リィンは目を閉じ、抱える頭に頬を寄せる。
やっと分かった、この離しがたい温もりを。
それでも離さなければならない、二人の分かたれた未来を想って。
撫でること。
――風が気持ちいい。少し前までは身を切るような冷たさを纏っていたはずの空気が、いつの間にかこんなにも和らいでいる。激しい運動をした後の体には今の柔らかな涼しさを伴った風が心地よく、リィンはしばし目を細めて空を見上げた。ゆっくりと流れていく雲は冬のような薄いそれではなく、辺りに広がる瑞々しい草木の緑も相まって、春が来たんだと強く感じる事が出来る。あの激動の日々から数えて何度目の春だろうかと考えかけて、ふと手元が留守になっている事を思い出した。
のどかな街道脇の木陰の下、リィンは今しがた倒したばかりの手配魔獣について手帳に記録しているところだった。事前に準備をしていたから二人だけで割とあっさりと倒せたものの、何の対策もしていない一般人が襲われていれば危険だっただろう。被害が出る前に駆けつけて良かったと、改めて安堵する。この手帳に記入する時間は、戦闘後の休憩もかねてこうしてじっくり考えを巡らせることができる、それなりにお気に入りの時間だった。リィンは止まっていた手を再び動かして、撃破した魔獣についてメモを取る。
その手が再び止まったのは、木の幹に凭れて座り込むリィンの傍らにぬっと現れた人影が、おもむろにダイブしてきた時だった。
「とうっ」
「ぐっ?!げほっ……!こ、こら、いきなり何するんだっ」
「だってつまんねえんだもん。いつまでんな真面目に書いてんだよ」
人の腹に抱き着き子供のような事を言う大の大人を、リィンは呆れた目で見下ろした。今しがた、軽く魔獣を倒してみせた者の威厳か何かはまったく見受けられない。突然腹の上に現れて記帳を妨害してくる銀の頭をぺちんと叩く。
「つまんない、じゃなくてお前も書けよクロウ。報酬貰えなくなってもしらないぞ」
「あー?そんときゃリィン先輩に養ってもらうから別にいいんだよ。いざとなったら写させてもらえばいいし?」
「そんなサボり男は養いませんし写させません。馬鹿な事言ってないで、さっさとやる」
「ちっ、仕方ねえな」
面倒くさそうにごろりと転がって懐から自分の手帳を取り出したクロウは、頭をリィンの膝の上に乗せたままよどみない動きでさらさらと記入していく。やればリィンよりも簡潔に分かりやすくさらっと書いてしまえるのに、書きたくない面倒くさいなどと駄々をこねて手を焼かせるのがこのクロウという男だ。学生時代、身を隠すためにあえて手を抜いていた時の名残なのか、それともこのノリが彼の元々の本分なのか。どちらにしてもうっとおしい。うっとおしいが、こういうスキンシップがまるで甘えられているようにも感じて、それがちょっと可愛い所にも思えるのだから、つくづく自分は終わってるなとリィンはしみじみ思い知るのだった。
そうやってリィンが物思いにふけっている内に、クロウはあっという間に記録を書き終えてしまった。
「どうよ、オレ様の本気」
「はいはい、偉い偉い」
得意げに笑ってみせるその頭を、褒めるようによしよしと撫でてやる。膝の上に乗せられているので非常に撫でやすい。しばらくそのまま撫でていると、何故かクロウがくつくつと笑い出した。
「ん?」
「いや、お前って本当撫でんの好きだよなあ。さすが撫で魔」
「……今のは、成り行きで……ちょうどいい位置にクロウの頭があったからだな……」
「そうかあ?極上の幸せーって顔しやがって、見苦しい言い訳はいいっての」
「お、俺今そんな顔してたか?」
「してたしてた」
クロウの笑いは止まらない。今のでさらに何かを思い出したようだ。見上げてくる赤い瞳を、憮然とした顔のリィンも見つめ返す。
「つーか今更じゃねえの?事あるごとに俺の頭狙ってただろお前。トールズでの放課後とかよ」
「あ、あの時はあれが初めてだっただろ」
「おお、俺もよっく覚えてる。当時は何してくれてんだこいつって思ったもんだわ。その後も名残惜しそうに見てきたりよ、どういうつもりなんだって恐怖を覚えるレベルだったぜ」
「そんなに?!」
自分の行動はそれほど恐ろしいものだったのだろうかと、リィンは申し訳なくなる。自分でも訳が分からないままとにかく必死だったので、クロウに恐怖を植え付けるほどの勢いだったというのも間違いだと思えない。特に、あの時なんか。
「まあ、俺が本気でこいつ怖ぇって思ったのは、鉄鉱山で一度閉じ込められた時の、あの時だな。かつてないほどの勢いで襲い掛かってくるし、身動き取れない真っ暗闇で口説いてくるし。人生で一番絶望した瞬間だったかもしれねえ」
ちょうど同じ事を考えていたらしい。最早クロウの全てを知ったリィンにとって、あれが人生で一番の絶望な訳ないだろとつっこみたくてたまらなかったが、代わりに別な聞き捨てならない部分を拾う事にする。リィンが何をどう思ったって、クロウが感じたものはクロウにしか分からない。逆もまたしかり、だ。
「……その言い方はやめてくれ、まるで俺がケダモノみたいじゃないか」
「いや、あの時の勢いはそう言われても仕方なくね?!」
「そもそも、あいつは俺が何言ってもクロウじゃないって言い張ってたんだが。何でクロウじゃなかったのに、あの時の事をクロウが知ってるんだろうな」
「あー、はいはい、そんときゃ俺が悪かったって」
だからそんな顔をするな、と下から伸びてきた手が、リィンの頭を撫でる。今自分はどんな顔をしていたのだろうかとぼんやり考えながら、大きくて安心する手に全てを委ねた。膝の上から覗き込むクロウの瞳が、柔らかく細められる。
「あともう一つ。お前、撫でるのと同じぐらい撫でられるのも好きな」
「え?……ああ、そうかも」
言われて納得する。ただし、撫でられる相手にもよるのだが、そこは言わない事にする。代わりに、いつの間にか止まっていた手を再び動かしてクロウの頭を撫で返す。
するともう一本伸びてきた腕がリィンの頭をしっかり掴み、わしわしと両手で力強く撫でてきた。まるで大型犬にするようなその扱いに、さすがに抗議する。
「うっわ……!クロウ!」
「んー?俺約束してたはずだけどなー?たまに撫でさせてやる代わりに、何倍にもして返してやるってな。ほれほれほれー」
「くっ……!それなら俺は、もっと倍にして返す!」
「おっ抵抗する事を覚えたか。負けねえからなおい!」
リィンも負けじと両手でクロウの髪を混ぜ始めれば、頭を撫でる手がより一層激しくなる。最早何が何だか分からない状態だった。こんな勢いで今の体勢が保てるはずも無く、互いに互いの頭を抱えたまま、ごろりと草原に転がる。
そうしてさかさまに出会った薄紫と赤の瞳が、同時に笑った。
「っはは、馬鹿みたいな争いだな」
「いーんじゃねえの?馬鹿なんだろ、俺ら」
「ああ……本当に。馬鹿な子ほど、だ」
こんなくだらない争いならば、いくらでもしてやろう。命を削る刃と刃で打ち合うよりは、ずっと良い。
「……クロウ、明日もまた撫でさせろよ」
「いいけど、何百倍にしてお返しするぜ」
「ああ、もちろん」
毎日、手を伸ばせば触れたい頭に触れる。誰よりも大切な温もりが隣にいる。
かつてあの時諦めた未来が、この手の中にある。
(きっと、これを……幸せと言うんだ)
世界一愛しい銀色に口づけて、リィンは笑った。
クロウをあれほどまでに撫でたかった理由は、ここにあった。
14/06/05
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