「おはようアリサ。今から部活?」
「あらエリオット、おはよう。そんなところよ。あなたも……似たようなものみたいね」
「あはは、楽器持ってたらバレバレだね。今日はいい天気だから、気持ち良く弾けそうな気がするんだ」
「ふふ、そうね。一日この天気だそうだから、私も思う存分体を動かせそうだわ」

とある自由行動日の朝。寮の一階でばったり出会ったアリサとエリオットが和やかに朝の挨拶を交わす。朝の日常的な光景だった。この寮の出入り口は一階の玄関しか無いので、必然的にここで顔を合わせる確率も高くなる。顔を合わせれば挨拶だけでなく軽く言葉もやり取りするし、場合によっては喧嘩と書いてじゃれ合いも起こったりする。そんな賑やかで平和な空間だった。
寮の行き来が激しい朝は自由行動日と言えども特に誰かと遭遇する率は高く、アリサとエリオットがそうして一言二言交わしている間にももう一人、階段を下りてくる人物がいた。どこかけだるそうに背を丸めながら、大あくびをしつつ脇を通り過ぎる一つ年上のクラスメイトに、二人はすぐに気が付いた。

「あら、クロウも。おはよう」
「おー、はよーっす」
「おはよう。クロウも今から出かける所なんだ」
「まあなー」

ひらひらと手を振って、そのままぶらぶらと外への扉へ向かうクロウを、アリサもエリオットも特に咎める事無く見送る。が、二人ではない別の声がその背中を止めた。声は何故か慌てたようにばたばたと、彼にしては珍しく音を立てて階段を下りてきて真っ直ぐクロウへと向かった。

「クロウ!待ってくれっ」
「お?」

足を止め、身体ごと振り返ったクロウの目の前に立ったのはリィンだった。リィンはアリサにもエリオットにも気が付いていないようで、何事だろうと二人で顔を見合わせる。少しだけ息が乱れたリィンの肩を、落ち着かせるようにクロウが軽く叩いた。

「おはよーさん。朝っぱらからそんなに慌ててどうした?」
「お、おはよう……えっと、その、クロウに伝えなきゃならない事があって」
「ほほう?何だ?」

クロウと、ついでに脇からアリサとエリオットも見守る中、リィンは息を整えてから、キッと表情を引き締めて目の前の顔を見上げる。何かを思いつめたような必死の表情に、広間が一瞬だけ緊張で満たされる。ごくり、と音を立てて唾を飲み込み、リィンは思い切って口を開いた。

「実は……今日、午後からトリスタに大雪が降るらしいんだっ!」

えっ?とエリオットが思わず小声で驚く。だって確か今日は一日雨が一滴も降るはずのない良い天気だったはずで、しかも今は雪が降るような季節でもない。突拍子もないその言葉に、アリサが何か言おうとして何も出てこなく、ぱくぱくと口を開け閉めする。
正面から謎の天気予報を受け取ったクロウは、やや大げさな仕草で驚いてみせた。

「マジかよ?!俺はてっきり今日一日快晴だとばっかり思ってたぜ!」
「だから、その、か、傘でも持っていった方がいいんじゃないか?」
「そうだよなあ!雪は雪でも大雪だもんな!いきなりそんなのに降られちゃさすがにまいるぜ!助かったぞ、リィン!」
「そ、そんな事は……」

満面の笑みでばしばしとリィンの肩を叩いたクロウは次の瞬間、笑顔を意地悪そうなものに変化させて、どこか困ったように視線を逸らしていた額をピンと弾いた。

「なーんてな。はい、それ嘘ー」
「えっ?!……ば、バレたか……」
「ええっ?!」

脇から再びエリオットが思わず声を上げる。リィンが下手くそな嘘をくそ真面目についた事実と、それをバレないと思っていたらしい事、二つに驚いたのだった。訳の分からない展開に、アリサは呆れて声も出ない。一人にやにやと笑うクロウは、再びリィンにデコピンした。

「お前なー、せめてもうちょっとマシな嘘つけよ。それでバレないって本気で思ってたのか?」
「だ、だって、もし雨が降るって言っておいて、本当に降ったら嘘じゃなくなるだろ?」
「あーそれで一番有り得なさそうな大雪、な。だがそれじゃ嘘がバレバレで本末転倒だろ」
「うっ……た、確かに……」

ちまちまとしたクロウの攻撃から身を守る事すら忘れて、ショックを受けているらしいリィンはされるがまま額を弾かれ続けている。思う存分ピンピンつんつんしたクロウは、なおもおかしそうに肩を震わせながら踵を返した。

「ま、その調子で頑張れよ。俺は今日一日トリスタのどっかにいる予定だからなー」

今度こそ寮から出て行ったクロウの背中を、立ち尽くしたリィンが見送る。一人物思いに沈むその姿に、アリサとエリオットは恐る恐る近づいた。

「えーっと……リィン?」
「……ん?うわ、アリサにエリオット?!い、いつからそこに?!」
「最初からここにいたわよ。あなたが気付かずにクロウと話をしていたんじゃない」
「そ、そうだったのか……すまない、クロウにばっかり注目していて、気づかなかった」

頭に手を置いてしゅんと申し訳なさそうにするリィンの姿に、怒る気にもなれないしそもそも怒ってはいない。二人はただひたすら困惑していた。たった今目の前で繰り広げられた、不可思議なやり取りについてだ。

「別にそれはいいけど、説明してくれないかしら。さっきのあなたとクロウの会話について」
「えっ?」
「リィンはどうしてあんな嘘をクロウについていたの?そもそもリィンがわざわざ嘘をつくって、珍しいと思うんだけど」

首を傾げるエリオットに、リィンはバツが悪そうにそっと視線を逸らした。

「……やっぱり、そう見えるのか」
「え、何が?」
「俺が、嘘をつけない人物だって。そう見えるんだな」

どこか肩を落としたその姿は何故か落ち込んでいるようだった。そんなリィンを不思議に思いながらも、アリサもエリオットも揃って頷く。

「それは……まあ、そうね。あなたが私たちに今までについた嘘って言ったら、貴族である事を隠していた事ぐらいじゃないかしら?」
「そうだね、それも嘘というより、誤魔化してたって感じだし」
「でもそれがどうしたっていうのよ。良い事じゃない」

心底不思議そうなアリサにそう尋ねかけられても、リィンは力なく首を横に振るばかりだった。

「……昨日の夜、クロウにも似たようなことを言われてさ」
「えっ」

そうしてリィンは、ぽつぽつと今までの経緯を語り出した。




話は昨晩、リィンの部屋から始まる。来週提出のレポートを写させてくれーと押しかけてきたクロウが開口一番に断られてもだらだらと居座り、そんなやる気のない先輩に横から小言で突いてやりながら何とか自分で書かせていた、その合間の会話からだった。
どこからどう話題が始まったのかは最早定かではないが、確か、ふとエイプリルフールの話になったのだった。

「あー、そういや次のエイプリルフールには俺も卒業してんのかあ、寂しい限りだぜ」
「卒業……出来てるといいんだけどな……」
「やめろ、リアルなトーンで危機感を煽るなマジで」
「……でも、何が寂しい限りなんだ?」

そう尋ねると、クロウはにやりと笑ってリィンを見てきた。その視線に良い予感はしなくて、自然と警戒するように背筋を伸ばす。

「な、何だ」
「いやー、エイプリルフールっていやあ、堂々と嘘をついていい愉快な日だろ?」
「それは、まあ……。午前中しか嘘をついてはいけないとか、細かいルールもあるみたいだけど」
「そういう細かい事はいいんだよ。重要なのは、嘘をつきまくれるっつー事!こういう真面目一辺倒な優等生を嘘で弄り倒しても咎められないなんて、素晴らしい日じゃねえか。なあ」
「……え、俺?」

指でちょんと頭を突かれてリィンが驚けば、他に誰がいるんだよと言う目で見られる。

「去年は楽しかったぜえ?トワの奴も真面目だからさ、俺の嘘にいちいち反応して騙されてやんの。ククッ」
「ああ、なるほど……その後アンゼリカ先輩にコテンパンにやり返されてジョルジュ先輩に慰められる姿まで想像出来たよ」
「ぐふっ。おま、エスパーかよ……。まあそういう訳でだ、そんな面白おかしい日だっつーのにお前さんで遊べないのは寂しいもんだなーって事よ」
「……。そんなの、」

そんなの気にしないで、例え卒業していてもふらっと遊びにきてくれれば良いじゃないか。そんな事をとっさに思ったが、それが何だかとんでもないワガママなように思えてきて、リィンは口を噤んだ。こうして一緒にいると、来年を待たずにクロウがZ組から去ってしまう事実さえ遠い未来の事のように思える。どうしてそんな気持ちになるのかは、今のリィンにはまだ分からない。
思い浮かんだ言葉は飲み込み、代わりにリィンはその次に気になった事を口に出していた。

「……一方的に俺で遊ぶ気満々じゃないか。エイプリルフールは誰でも嘘をついていい日なんだから、俺がクロウに嘘ついたっていいだろ?」
「はあ?お前が、俺に?」

一瞬ポカンとしたクロウはすぐ、心底おかしそうに声を上げて笑い始めた。

「マジで?!お前が?!悪い事なんて一切しませーんって顔に書いてあるような優等生のお前が、オレ様に嘘つくってそりゃ何つーギャグだよ!」

バシバシと自らの膝を叩いて大うけするクロウの姿に、さすがのリィンも不機嫌そうな目つきになる。ここまで露骨に負の感情を顔に表すことは、自分にとってとても珍しい事なのだという自覚ぐらいはある。自覚していても、クロウなら大丈夫だろうと思える自分がリィンは内心不思議で仕方が無かった。

「それ、俺の事馬鹿にしてるよな?」
「いやいや、してねえって。無謀な事は止めろっつってんの。どうせお前、ろくに嘘なんてついた事ねえだろ?」
「それは……。お、俺だって別に聖人君子じゃない、嘘ぐらいついた事あるさ」
「ほーう?」

まるでこちらを値踏みするようにクロウの目が細められる。ギラリと輝く赤の瞳に一瞬不覚にも見惚れた。こういうあえての悪そうな顔がムカつくほどよく似合うのがクロウという男だ。幸いすぐにハッと我に返る事が出来たリィンは今の己の心の動きを悟られないようキッと見返す。目の前の顔が笑った。

「よっし。お前がそこまで言うなら、勝負しようぜ」
「勝負?」
「明日の自由行動日、一足早いエイプリルフールって事にするんだ。そこで、お前が俺にバレないように嘘をついたらお前の勝ち。明日中にその嘘を見破ったら俺の勝ち。な、簡単な勝負だろ?」

思ってもいなかった提案にリィンは目を丸くする。驚いたが、しかし異論はなかった。エイプリルフールという日の存在はもちろん知っていたが、実際に行動に起こしてその日を楽しんだ事はまだ一度も無い。自然と迎えることになる来年のエイプリルフールには一緒に過ごせないかもしれない先輩と迎える二人だけの嘘の日に、興味があったのだ。
それに単純に、悔しかった。あからさまに「こいつは嘘をつけないだろう」と決めつけている、クロウの余裕の表情が。確かに決して得意ではないが……この扱い、先輩後輩というよりもっと歳の離れた弟を微笑ましく見守るような対応ではないか。

「……別に、それが嫌って訳じゃないんだが……」
「は?何が?」
「何でもない。……その勝負、受けて立とう」
「えっマジ?うし、そうと決まれば何を賭けるっかなー」
「って、何で賭ける事前提なんだよ!」
「だって、勝負だろ?勝った方に何か出ないとやる気でねえってもんよ!」

目に見えてうきうきと楽しそうなクロウに、やっぱり止めておけばよかったと思うがもう遅い。リィンが何かを言う前に、目の前に指が付きつけられた。

「それじゃあ、負けた方は勝った方の言う事を必ず一つ聞くっつーのはどうよ」
「え……必ず、一つ?」
「そう。定番の賭けだろ?本当はミラでも賭けたい所だが、そうするとお前絶対乗ってこないだろうしなー」
「当たり前だろ。……どっちが勝っても負けても、必ず一つ言う事を聞く。間違いないな?」
「おう。何だよ、俺を疑ってんのか?こっちが持ちかけた勝負なんだから、必ず守るって」

そもそも負ける気はしないけどなーと笑うクロウの顔を、リィンは挑むように睨み付けた。それは、決意した瞬間だった。明日の勝負、何が何でも勝ってみせるという固い決意だった。何故なら、クロウに言う事を聞かせたい事が一つ、リィンの胸の内に浮かんでいたからだ。

「クロウ……覚悟しておけよ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」

薄紫と緋色が正面から火花を散らす。ここに今、火蓋は切って落とされた。




「……と、いう訳で俺は今日中にクロウに嘘をつかなければならないんだ」
「リィン……あなた、またクロウに遊ばれているわよ」
「ええっ?!」

話を聞き終わって開口一番、アリサに呆れられたような言葉をかけられてリィンは驚く。今回のこれは純粋な勝負で、リィン自身には決して遊ばれているような感覚は無いのだが。
アリサの横ではエリオットまでうんうんと頷いている。

「いくらなんでも、リィンに不利すぎる勝負だよねえ」
「そ、そうか?」
「そうよ。だってクロウは今日一日あなたから掛けられる言葉を、全部疑っていれば済む話じゃない」
「……あっ」

目を見開くリィン。まったく考えていなかった事実だった。クロウにどうやってどんな嘘をつこうか、そればかりを考えていて、クロウ側に立った場合の事情に頭が働かなかったのだ。

「そもそもエイプリルフールだって、騙される人は大体今日がそういう日だって忘れている人がほとんどよ。疑ってかかっている人に嘘を信じ込ませるなんて、並の人間には出来ない事だわ」
「そうだね。僕だってちょっとどんな嘘をついていいか分からないよ。ましてや嘘をつく側がリィンならなおさら……」
「い、いやいや!俺だって嘘ぐらいつけるから!何で俺が嘘つけないって、そういうイメージが横行しているんだ……!」
「えっと、だって……」
「さっきの嘘は、ちょっとさすがに……」

言葉を濁すアリサとエリオットに、リィンの心にぐさりと衝撃が走る。さっきの慌てた嘘は傍から聞いていてもひどいものだったらしい。猛烈に恥ずかしくなると同時に、とてつもない焦りも生まれてくる。リミットは今日中なのだ。今日が終わる前にクロウに嘘をついてしまわなければ、リィンが望むことをクロウに聞かせることが出来ない。じりっと後ずさった後、リィンは踵を返して走り出した。

「っ二人とも、ごめん!俺、もっと頑張ってくる!」
「リィン?!」
「ちょ、ちょっと待って……!」

二人の制止を振り切って、勢いよく寮を飛び出していく。その背中を、アリサもエリオットもあっけにとられて見送るしかなかった。

「……今のあなたの条件じゃ不利だって言ったの、忘れたのかしら」
「何だかリィン、焦ってるみたいだったからね。クロウにあんまり遊ばれないといいけど……」

とりあえず、無理のない範囲の言う事を聞かせられればいいけど、と、最早リィンが負けた時の事ばかり心配する二人だった。


そんな心配をされているとは思いもしないリィンはもちろん負ける気などなく、勝利するための嘘を懸命に考え抜いてはトリスタ中をウロウロしているクロウへ勝負を挑みに行った。
結果は……推して知るべし。




「クロウ大変だ!寮がさっき爆発したらしい!」
「へーえそりゃ大変だ。だが、んな爆発あったらトリスタ中に聞こえるだろうしもっと大騒ぎになっているだろうし、そもそもシャロンさんがいる時点で寮が爆発するような事態になる訳がねえから、それは嘘だ!」
「ぐっ……!確かにシャロンさんがいるとそんな事にならない謎の安心感がある……!」


「一大事だクロウ!学院の中庭にある池が突然地獄に繋がって血の池地獄になってるみたいなんだ!」
「お前さあ、そういう、実際に見に行ったら一発で分かっちまうような嘘はやめといたほうがいいぜ。今日一日騙し通すのがルールなんだからな」
「あ……そ、そうか」
「それ以前に、んな嘘見に行かなくったって丸わかりだけどな」
「そんな?!」


「クロウ、そこにいる2年U組の先輩がお前の事かっこいいって言ってた」
「ははあ、今度はなかなか考えたな。だが残念!あの子は去年ゼリカにぶんどられた子の中の一人だ!そんな奴がわざわざそんな風に俺を褒める訳がねえ!よってそれは嘘だ!ハーッハッハッハ!」
「……えっと、何かごめん……」


「さっきサラ教官に聞いたんだけど、お前留年決定だって」
「そういう有り得そうで恐ろしい嘘は止めろ!」
「自分で有り得そうとか思ってるなら居眠りするなよ!」


「クロウ、あの……」
「はい嘘!」
「ま、まだ何も嘘ついてないだろ!」


「じ、実は……俺、女だったんだ!」
「マジかよ?!」
「………」
「………」
「は、早く嘘だって言えよ!」
「いや、万が一の事もあるかなと思って」
「そんな事あるかーっ!」




「ほらほらどうした?もっと俺に嘘ついてみろよ後輩。お前の嘘つき能力はそんなもんか?」
「うるさい……」

そうして現在、時刻はもうすぐ一日限りのエイプリルフールが終わりかけている頃。我が部屋のベッドにごろりとふて寝するリィンと、そのベッドの脇に腰掛けてにまにまと楽しそうに笑うクロウがいた。いつもなら寝ていてもおかしくない時間帯だったが、ギリギリまで付き合ってやると有難い事を言う先輩に部屋まで押しかけられて、二人で日付が変わるのを待っている所だった。
結局リィンは今日一日、トリスタのあちこちに移動するクロウを追いかけてはいくつもの嘘をついていったが、悉くついた瞬間目の前で嘘を見破られてしまっていた。途中まではいくつついたか数えていたが、途中からはもう数えるのを諦めた、それぐらいの量の嘘を叩きつけてやったというのに、クロウは涼しい顔ですべて一刀両断してみせたのだった。
リィンがくじけてふて寝するのも仕方がない事だった。

「質より量って言葉があるがなあ、限度ってもんがあるだろ。予想はしていたけどお前ってほんっと嘘つくのが下手なのな」
「……自分じゃ、それほどじゃないって思ってたんだが……」
「それほどあるっての。最初のなんてひどかったろー、たまたま居合わせたアリサ達の顔見たか?お前」
「う、ううっ」
「後からはまあ、それなりに考えた嘘をついてきやがったが……」

ちらっと横目で見下ろされて、リィンはギクリと固まった。普段は眠そうなダルそうな気の抜けた目をしているその赤が、ふとした時に心臓を鋭く貫くような色に輝く瞬間がある事を知ったのは、いつだっただろうか。その視線に晒されると自分の内側がザワザワと騒いで落ち着かなくなるのだが、不思議と嫌だと思ったことは無かった。
今日も内心どぎまぎしていると、クロウはこちらを見下ろしながらにやりと瞳を細めた。

「ぶっちゃけ、誰に入れ知恵されたんだ?」
「!!……き、気づいていたのか」
「まーな。今まで見当外れな嘘とも言えない嘘ばっかり吐いてきていた奴がいきなりまともな嘘つき始めたらそりゃ、誰かに教わったとしか思えねえし?」
「そんなに……俺の嘘はひどいのか……?」

落ち込みながらもリィンはクロウの指摘に頷いた。お昼頃からだったか、リィンがクロウと嘘つき勝負をしているという噂を聞きつけたZ組メンバーが、こちらを見かける度に何かと助言をしてくれたのだった。一向に嘘に騙される様子のないクロウに頭を抱えていたリィンにとっては非常に有難い事だったが、何故こんな個人的な勝負が噂になっているのか、そこだけが気になって仕方がない。
とにかくリィンの今日の嘘の半分は他人の助言を得てのものだった事実は変わらない。上半身をベッドから起こしたリィンはバツが悪そうに顔をそむけた。

「悪かったよ……皆いろいろアドバイスをしてくれたから、つい甘えてしまって……」
「いや、別に悪いって言ってる訳じゃねえぞ?むしろこっちが手貸してやりたくなったぐらいだし。しかしまあ愛されてんなあお前さん。いや、遊ばれてるって言った方が正しいか?」

自分の事は棚に上げてクロウがそう言うが、一切自覚のないリィンは首をかしげるだけであった。

「みんな本当に親切に色んな助言をくれたんだ。ミリアムやフィーなんかは何度も来てくれて」
「だからそれが遊ばれてるんだっての。あー、今ので確信した、ゼリカからも何か吹き込まれただろ」
「ああ、どこで噂を聞いたのか、わざわざ俺を探してまで色々助言してくれたんだ。でも、よく分かったな」
「そりゃーもう、あいつ様は人の心をえぐる嘘が大得意でいらっしゃるからなあ!」

かなりの恨みが篭った言葉、積もり積もった何かがあるらしい。アンゼリカと会った時一緒にトワとジョルジュもいたが、揃って仕方がないなあという顔をして微笑ましく見守っていた。多分日常茶飯事の光景だったのだろう。そういう関係が、リィンには少し眩しく見えた。
あの女だの何だのぶつぶつ呟いているクロウとて本気で疎んでいる訳では無い。その顔を見ればよく分かる。そうやって気兼ねなくふざけ合える友人関係を、羨ましくさえ思った。何せ己は、ちょっとした嘘でさえ丸一日使っても一つもつく事が出来ない面白みのない人間だからだ。勝負を持ちかけてくれたクロウもこれにはさすがに呆れただろうと、リィンは重い溜息を吐いた。
自分に向けられる好意に極端に鈍いリィンは、何故今日一日色んな人がアドバイスをくれるために自分の元へやってきたのか、気付きもしない。リィンの表情からその内情を正確に察したクロウが、俯くその頭をわしわしと撫でた。

「うわっ?!な、何だよ、いきなり」
「いや、また意味の無い事で思い悩んでるんだろうなーと思ってよ」
「はあ?」
「ま、それはともかく。もういいのか?一応日付はまだ回ってないぜ」

話を戻すようにクロウが指差した時計は、確かに一日限定のエイプリルフールがまだ僅かに終わっていない事を示していた。勝負の内容は、今日一日嘘に気付かせない事なのだから、今が最大のチャンスと言っても過言ではない。
少しだけ気を持ち直してリィンが顔を上げると、クロウは何故かおかしそうに笑いだした。

「そうそう、その顔だ。ックク」
「え?何のことだ?」
「言い忘れてたんだが、そんな風に何かを決意した真剣な顔でいちいち勇んで来られちゃ、今から嘘つきまーすって言ってるようなもんだぜ?」
「……!」
「嘘をつくときは、そういう空気を悟られねえようにしなきゃな。ベテラン嘘つきお兄さんからの助言だ」

そう言えば今日の朝、アリサ達にも言われていたのだった。嘘をつかなければいけない日に何を言われても相手は疑ってかかるだろうと。確かに今日リィンがクロウの元を訪れたのは全て、嘘をつくためであった。何としても嘘をつくんだという、並々ならぬ決意のもとに。
いくらリィンでも、そんな状態では誰も騙されないだろうという事はよく分かった。思わず恨みがましい瞳でじとりとクロウを見つめてしまうのも無理はない。

「最初から俺が不利な勝負だったんだな……」
「そりゃそうだろ。目に見えてお前のが圧倒的に不利な勝負、だったっつーのに受けてしまった自分を恨むんだな」
「く、くそー……!」

ボスンと枕に拳を振り下ろすリィンの目の前で、クロウがご機嫌な様子でどんな言う事を聞かせようか吟味し始めている。完全に舐められているが、それも仕方のない事だった。
時計はもうすぐ、全ての針が真上を指し示そうとしていた。

「空気を悟らせず、何でもない顔で、相手が嘘とも思わないような嘘を吐く。これが出来るようになればお前も嘘つきマスターだ。頑張れよー少年」
「そんなマスター、偉くもなんともない……」
「ククッそりゃ言えてる」

カチカチと、秒針が時を告げる音がいやに耳につく。余裕綽々で口笛まで吹き始めた先輩の横顔を眺めてふと、何かを思いついたようにリィンが一瞬だけ目を見開いた。ふっと僅かに漏れた吐息に振り返ったクロウを、薄紫の瞳が睨み付ける。

「……ベテラン嘘つきお兄さん、覚えてろよ」
「お、よく聞く負け惜しみ」
「クロウなんて……大嫌いだ」
「はっはー、悪かったな後輩。ま、お前はもう少し人を疑う事を覚えろって事だ。こーんな怪しい先輩の勝負にほいほい乗ったりしちゃ痛い目見るって身に染みてわかったろ」

リィンの言葉を、クロウは何も疑うことなく受け止めた。しばらく二人はそのまま見つめ合った後、何も言わずに揃って時計を見る。
今二人の目の前でカチリと。音を立てて三本の針が12の上で重なり合った。リィンとクロウだけのエイプリルフールが終わった瞬間だった。
途端にクロウが諸手を上げて喜んでみせた。

「っしゃー、オレ様の勝ちー!それじゃあ何を聞いてもらうかなーっと。一日子分とか?あー、帝都で女の子一人ナンパしてこいってのも面白そうだなー」
「……いいや、俺の勝ちだ」
「へっ?」

静かに己の勝利を宣言するリィンに目を丸めるクロウ。今のは多分、素で驚いている。

「いや……何言ってんのお前、今のは確実にこっちの勝ちだろ」
「俺の勝ちだ。ルールは今日、いや昨日一日、クロウに嘘を見破られない事、そうだろ?俺には一つだけまだ、クロウに気付かれていない嘘がある」
「は?マジで?ちょ、ちょっと待て、さっぱり見当がつかねえんだが……それこそ嘘なんて言う訳ないよな?」
「それはない。もうエイプリルフールは終わったんだ。本当だ」

真剣なリィンの表情に、クロウはしばし今日一日を思い出すように黙り込んだ。しかしすぐに両手を軽く上げて降参する。

「わりぃ、本当に思いつかねえ。正直まだ信じられねえが、答えを教えてくれ」
「ついたのは、ついさっきなんだけどな……」
「ついさっき?あ、さっきの会話の中でか?嘘だろ、どれの事だよ……」

困り顔のクロウに、リィンは限定エイプリルフールが始まってから初めての笑顔で、口を開いた。

「クロウなんて、大嫌いだ」

そうして、落ちる沈黙。眉をしかめたクロウがまるで先を促すようにリィンを見つめるが、先のないリィンは涼しい顔で視線を受け続ける。やがて根負けしたクロウが、恐る恐る確認した。

「……まさか、今のが?」
「まさかも何もなく、そうだ」
「……嘘だろ?」
「そう。大嫌いだっていう嘘」
「そういう意味じゃねえ!じゃあ何だよ、大嫌いじゃないってんなら何なんだよ!」

言ってから墓穴を掘ったことを自覚して、しまったという顔をするクロウ。しかし時すでに遅し。リィンが事も無げに答えてしまった。

「まあ、好きだな。今回みたいにからかわれる事は多いけど、それぐらいじゃ嫌いにならないって」
「………」
「むしろ、有難いのかもな……。こういうふざけ合いみたいな事、今までしたことが無かったし。こういう時どうやって振舞えばいいかも分からない俺に、クロウが呆れもせずここまで付き合ってくれた事が単純に嬉しいんだ。そんな先輩を、嫌う訳ないだろ?」
「……お前、どれだけポジティブなの……さっき人を疑う事を覚えろって、言ったはずなんだがな……」

何故か打ちのめされたような表情でがっくり項垂れるクロウに、リィンは腰に手を当てて見下ろしてみせた。今こそ言ってやろうと思ったのだ。

「さっきクロウが教えてくれただろ。嘘つきマスターとやらの格言みたいなもの」
「ええ?」
「空気を悟らせず、何でもない顔で、相手が嘘とも思わないような嘘を吐く、って。クロウって、自分の事過小評価してるんじゃないか?日頃から感じてた事だけど、俺はクロウが思っているよりクロウが好きだぞ。俺だけじゃなく、みんなに当てはまる事だけどさ」

何てことを言い出すんだと言わんばかりに驚愕の顔で振り向いてきた顔を、リィンは負けじと見つめ返す。

「そんな簡単に嫌いになれるような関係を築いてきたつもりはない。クロウはどうかは知らないけど、俺にとってクロウは頼りになる先輩だし、大切な仲間だし……こんな風にふざけ合えるのは、クロウだけなんだ。俺みたいにクロウが特別な存在になっている人は、きっと他にもいる。その事を自覚していなかったのが、今回のクロウの敗因だ」

クロウはその言葉全てをじっと黙って聞いていた。聞き終わると、顔を背けてしまう。リィンからは今、クロウがどんな表情をしているのか、見る事が出来なかった。

「……色々と、言いたいことはあるんだが、一つだけ」

やがて顔を戻したクロウの表情は……呆れていた。

「今の言葉、そっくりそのままお前に返してやりてえ」
「え、何で?!」
「自分の事過小評価してるだの、お前が思っているよりみんなお前が好きだの、ほんっと、何倍にもして投げ返してやりてえんだけど」
「だから何で?!」
「あーあ、まさか己は一切自覚のないどうしようもない後輩に説教されるとはなあ」

やれやれ、と肩をすくめるクロウは何だか元気がない。リィンの言葉の何かがよほど効いたらしい。

「……特別な、存在か……」

ぽつりと微かに呟かれた独り言は何故か、絶望に染まったような声色で。首を傾げたリィンにしかしクロウは何でもないと首を振る。

「はあ、俺の負けだ。完敗だ。んで?お前は俺にどんな言う事を聞かせるつもりだ?」
「あ、うん。それは昨日から決めていたんだ」
「へえ。何だ、一日先輩後輩逆転とか?宿題代わりにやってくれとか、テストを代わりに受けてくれとか?言っておくがオレ様は、留年間際の男だぜ?」
「威張るな。逆転っていうのもちょっと面白そうだけど……今回は違う」

リィンは一度緊張するように咳ばらいをした。一体今度はどんな言葉が飛び出してくるか、大げさに身構えるクロウに、どこか期待するように輝いた瞳が向けられた。

「来年、もう一勝負しよう」
「……は?」
「エイプリルフールだよ。今度は本当のエイプリルフールの日に、もう一回嘘つき勝負するんだ。クロウが留年してようが卒業してようが、な」
「………」

来年の4月1日。その再戦の申し出は、言わば再会の約束でもあった。来年、互いにどんな立場でいようとも、今日みたいにからかい合いふざけ合いの出来る先輩後輩の間柄で、また嘘をつき合おうと。そんな約束があればリィンも、何の不安もなく来年のエイプリルフールを待ち望むことができる。考え付いた自分を珍しく褒めてやりたいぐらいだった。
そんな、希望に満ち溢れたリィンの顔を、無言の赤い瞳が見つめる。その指先は誰にも気づかれない一瞬の内に、かすかに震えた。

「なあクロウ、良いだろう?負けた方は必ず一つ言う事を聞くんだもんな。約束、しろよ」

キラキラと輝く絶望を、目前に突きつけられた嘘つき男は、

「……ああ、分かった。約束だ」

今日もまた一つ、嘘をついた。





嘘つき男が嘘ついた





14/04/26


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