学生寮というのはすべからく賑やかなものである。トールズ士官学院第三学生寮も例に漏れず、むしろ普通の寮よりも問題レベルで騒がしい時があるほどだった(この間の早朝の騒ぎなんて特にひどかった)。元気有り余る年頃の若い男女が共に暮らしているのだから仕方がない事だが、しかしそんな空間でも真夜中となればさすがに皆大人しく寝静まる。昼間にハードなスケジュールで体も頭も全力で動かさざるを得ない学生たちが寝床に入る時間は早く、学院に合わせて朝がわりと早めのトリスタの町も夜は大概しんとした静寂に包まれるのが常だった。そんな静かな時間が、存外クロウは嫌いではない。
別にクロウだって普段から無意味に夜更かししている訳ではない。個人的な事情や用事で、誰もが夢の中にいる時間に活動する機会があるだけだ。己の気配をこの世から消して冷え冷えとした闇に紛れ、孤独に身を投じるにはとても都合の良い時間。そうでなくても、例えば今、寮の自室でベッドに入り眠りを待って微睡んでいる瞬間、時が止まったような静けさに身体も意識も溶け込んでいくような感覚が心地よいと感じる。……たまにはこうして、何も考えない休息を得るのも大事なのだ。必ずやり遂げなければならないものがあるからこそ。
そうして幾人もの夢を内包した夜の時間が何事も無くゆっくりと過ぎていく……はずだった。

(……ん?)

クロウはすぐにそれに気が付いた。この寮の中に存在する、起きた人間の気配だ。今までは全ての住人が寝ていたはずだから、誰かがこんな真夜中に目を覚ましたのだろう。普段のクロウならそこまで確認して、すぐに気にも留めずに再び眠りについていた所だった。どうせ悪い夢を見ただの、少々催しただの、クロウには直接関係ない事が大半だ。しかしクロウは再び微睡む事は無く、片目を開けて自室のドアへ視線を向けていた。視線はそこで止まるが、意識はドアの向こう、正面にある一つの部屋へ。この気配は、放っておけるような類の人物のものではない。色々な意味で。
気配はしばらく起きたそのままの位置で動きを止めた後、ゆっくりと移動を開始する。音も無くドアを開き、極力気配を殺して向かった先は……そのまま、まっすぐ前へ。つまりは、クロウが横たわるこの部屋へ。

(……は?)

前にも言った通り、寝ている状態でも大体は自室の鍵を掛けないのがこの寮での暗黙の了解だ。とっさに目を瞑ったその耳に、微かなドアの開く音が届く。寝ている振りはお手の物だったが、クロウの内心は疑問符で荒れ狂っていた。おいおいおい、一体どういうつもりだ、と。こんな誰もが寝ている夜中に、年上のクラスメイトの部屋に無言で訪れる事なんてあるか?しかも相手は、昼間でさえきちんとノックをして入ってくる優等生な後輩のはずなのだ。いや、確かにこの間は問答無用で部屋に飛び込まれたこともあったけど。あれは例外だし、今のこの行動はさすがに異常すぎるし。
と、そんな事をつらつらと高速で考えつつ表面上は実に穏やかに眠ったままでいると、気配はベッドのすぐ横でぴたりと止まる。じっと視線を注がれている心地がして落ち着かない。ぱたり、と何かはたくような音が聞こえた。あっこれは多分尻尾が振られた音だな、とその音を最近よく聞いているクロウはすぐに思い当たる。
……尻尾が振られてる?何故?嬉しいのか?一体何が?
迷宮に入りかけた思考は、すぐにカチコチに固まる事となる。傍らにふいに現れた、自分以外の温もりのせいで。

「……っは?!おい、ちょっと待てっ?!」

とうとう思わず声が出た。布団をめくり、勢いよく体を起こしかけ、しかし瞬時にしがみついてきた両手に阻まれて上半身を起こすだけに留まる。おもむろにごそごそとクロウの寝床に侵入してきたとんでもない気配は、クロウの声に初めて気が付いたかのように顔を上げ、どこか眠そうな目を向けてきた。

「……あれ、クロウ?」
「あれ、じゃねえ!人の部屋に無断で入ってきといてかつ無断でベッドの中に潜り込んできといて、あれ、だけで済ますな!」

他の誰も起こすことが無いように極力音を絞って叫ぶという器用な事をしてしまったクロウ。やっぱり部屋に入ってきた時点で声を掛けておくべきだったと後悔する。断りも無く部屋に忍び込んできた時点で相手の様子がおかしい事は分かりきっていたはずだ。俺はどんだけこいつに油断してるんだ、と思わず頭を抱えたくなった。
いくら後悔してみせても、目の前にあるくせっ毛黒髪も、その頭にちょんと生えている犬の耳も、ぱたぱたと揺れる犬の尻尾も、消える事無くクロウの目の前に突き付けられている。赤色の輝く薄紫の瞳が、ぱちと瞬いてクロウを写した。

「何か、クロウの匂いがしたから追いかけてたらここに来た」
「……リィン、お前寝ぼけてるな?向かいの部屋なんだから今日だけ匂いましたって訳じゃねえだろ。そもそも匂ったから追いかけたの意味も分からねえし」

話しながらさりげなくしがみつかれた手を解こうとするが、服をぎゅっと掴まれてなかなか叶わない。犬の耳と犬の尻尾をある日突然生やしてしまったリィンはどこかぼんやりとクロウを見つめたまま、いささかムッとしたようだった。

「寝ぼけて、ない。クロウの匂いがしたんだから、追いかけるのは当たり前だろ」
「だから何が当たり前なのか分かんねえって。あーもうやだこのド天然わんこ後輩、無自覚で夜這い仕掛けるって何なんだよ」
「夜這い?何のことだ?」
「今のこの状況が夜這い以外の何だっつーんだ!」

頭と耳を不思議そうに傾けるリィンは恐ろしい事にこれが素だ。多分今は寝ぼけている状態なのだろうがこれが完全に覚醒していても何の躊躇もなく首をかしげていただろう。クロウは戦慄した。こいつを早く自分の部屋へ返さないと、大変なことが起こると思った。色々と。
最終的には力づくで引っぺがして向かいの部屋に放り込む事になるが、とりあえずは説得を試みる事にする。クロウは潜り込んでしがみついたままこちらに頬を押し付けるリィンの肩に手を置いて、その顔を覗き込んだ。気のせいか、瞳の緋色が普段より増しているような印象を受ける。

「分かった、お前が夜這いじゃないっつーならそういう事にしてやる。で、お前の目的は俺の匂いを追って俺を見つけて、それで達成って事で良いよな?な?なら帰れ、今すぐ帰れ。早く寝ないと明日にも響くだろ?」

どこか必死な思いで言い聞かせる。リィンは一度考え込むようにぴたりと尻尾の動きを止めるが、すぐに再びふさりと揺らした。眼は真っ直ぐクロウを見つめたままだ。

「駄目だ」
「は?」
「まだ戻りたくない。このままでいたい。そういう気持ちが消えない。だから、駄目だ。まだここにいる」
「………」

あっこいつ本格的に寝ぼけてやがる。クロウは確信した。素面のリィンが今の駄々っ子のようなワガママを言う訳がない。いや例え寝ぼけていてもここまで言う人間では無かったはずだが。

(やっぱ、こいつのせいなのかねえ)

視界の端でぴこぴこ動く黒いふさふさの耳の端っこを軽く摘まむ。この犬の耳と尻尾が生えてからのリィンは、本人も戸惑うぐらい素直な感情が姿や行動に現れる事があった。その様はまさに犬そのもので、周りはみんな微笑ましく見守っていたのだが。ここまで素直になられるのもちょっと困る、とクロウがため息を吐けば、摘まんだままだった耳がぴくりと反応している。何にせよリィンが寝ぼけているせいで、いつもより数倍真っ直ぐなわんこの性質が出てしまっているらしいのは確かだ。

「しっかし、素直になった結果が俺の所に夜這いたあねえ。ほんと、何でこんな好かれちまってんだか」
「?」

気になって構いまくった自分に大体原因がある事を半ば自覚しつつ、見ないふりをする。さてこのでっかい犬をどうしようかと考えていると、今まで大人しくくっついていただけだったリィンの様子に変化が訪れた。急に俯いたかと思うと、まるで痛みを耐えるようにぎゅっとしがみつく力を込めてきたのだ。予兆のない変化に慌てて、無意識に震える頭に手を伸ばす。

「お、おい?いきなりどうし……」
「……さわ、ルナッ」
「へ?」

パシッと伸ばした手を弾かれて一瞬呆ける。自分でしがみついておきながら触られるのは拒否するとか傲慢にもほどがあるだろ、と思っていれば、すぐにリィンに起こった目に見える変化を見て、納得する。何てことは無い、今クロウの手を弾いたリィンは「リィン」では無かった、それだけの事だ。
カーテンの隙間から漏れる微かな月明かりに照らされて輝く白銀の髪。自分のものではない、まるで神秘的な魔法の様に根元から滑らかに黒から白へ、目の前のくせっ毛頭が色を変えていく。つられて何の混じりけもない白へ姿を変える犬の耳と尻尾を見て、やっぱ連動してるんだなと妙に感心した。尾の先まで真っ白に染まったリィンがゆっくりと顔をあげれば、こちらの姿を映した瞳は完全な真紅で射抜いてくる。さっきまでのぼんやりとした寝ぼけた顔はどこにもなく、いっそ憎悪とでも呼べそうな険しい表情が向けられた。

「っ離セ!」
「……いや、お前からくっついてきたんだけどな?」

あれだけ頑丈に握りしめていた手をぱっと離し、ベッドの上で飛び起きこちらを睨む、白く紅く覚醒したリィンに、クロウは驚きを通り越して呆れてさえいた。どうしていきなりこの力が表に出てきたのか定かではないが、どうやら今すぐに暴れる気配はない、その事にほっと心の中で息をつく。こんな時間に大立ち回りをすれば確実に誰かを起こしてしまうだろうからで、決して力が敵わないからではない。
リィンはきつくこちらを睨み付けたまま、毛を逆立てている。食いしばった歯の隙間からは低いうなり声も聞こえてくる。例の力に乗っ取られたリィンは全身でクロウを拒絶していた。
……いやこれは、拒絶というより。

(威嚇されている……)

しかも姿がリィンのせいで全然怖くない。現在色が白いせいか、触るとすごくふわふわしてそうで逆に疲弊した心が和んできた。可愛らしい小動物が小さな体を怒らせて精一杯威嚇してきても、ただただ可愛いだけなのだ。気の毒なことに、「彼」は多分自分の外見の事をよく分かっていないのだろう。クロウがひるむ事無くむしろ余裕な笑みを浮かべた事に、ひどく憤慨したようだった。

「……っ!」
「まあまあ、そう怒るなよ。つか何でお前そんなに怒ってんだ?俺は何もしてねえし、むしろ何かされてた方なんだが」

じっと問い詰めるように見つめれば、燃えるような緋の目がわずかに揺らいだ。戸惑うようにぱたりと揺らされた白銀の尻尾が、「彼」の内心をよく表している。しかし未だ硬質な気配から口を割らせるのは難しいと判断すると、クロウは思い出してみた。「彼」が目覚めた直前まで何をしていたか。
……しかし考えても複雑な事柄は何もない。リィンが寝ぼけて犬の本能のままベッドに潜り込んできて帰れ嫌だの押し問答を繰り広げていただけである。しかも部屋に侵入してきたのも帰らないとしがみついてきたのもリィンの方。そんな流れで、まるで責められるように威嚇されるのはやはりかなりの理不尽ではないかと改めて思った。取り上げられる事柄はただ、それだけ。この中から「彼」がわざわざ暴れることなく表面化してきた原因を拾うとなると。
真っ白なケモノと負けず劣らず赤に輝くクロウの目が、何か思いついたようににいと細まる。

「ははーん、なるほど。何となく見当ついたぜ」
「……?」
「つまりお前は、番犬なわけだ。こいつがおいたしたりされたりしないように見張ってる、忠実でお利口さんなわんこ」
「なっ?!」

からかうように笑えば、相手からの怒気が面白いように膨れ上がった。今にも飛び掛かってきそうな気配の白いリィンをにやにや眺めて、クロウの心にゆとりが戻ってくる。こうして何を考えているのか非常に分かりやすい表情と空気を持っている奴の方が扱いやすいものだ。さっきまでのお寝ぼけリィンは言動が読めなさすぎたし、心臓に悪すぎた。まさか目の前で怒り狂う「彼」も、自分が出てきたことによって一番救われたのがクロウだとは思うまい。
つまり「彼」は、リィンがよりによって素行のよろしくない先輩の所へ夜這いを仕掛けてしかも帰りたがらなかったために、その身に危険が迫る前にこうして出てきた、という事なのか。思っていたより随分と忠誠心があるケモノだ。それともこれも、犬化のせいなのか。

「あーそうだ、良い機会だからついでに聞いておくか。その耳と尻尾はお前の力によるものなのか?何かすげえ似合ってるけど」
「っ答える義理はナイ!」
「おっとぉ?!」

突然襲い掛かってきた右手をとっさに掴む。と、すぐさま燃える赤い目が鼻先まで迫ってきたのでギョッとした。辛うじて身を引いて正面から頭をわし掴んで一瞬だけ止まったリィンの隙を突き、力任せにベッドへと引き摺り倒す。猛烈な力で抵抗されるが、上から抑え込んでしまえば負けはしない。暴れる白い頭を見下ろしながら、クロウは息をついた。

「ひゅーっ危ねえ危ねえ、いきなり暴れ出すなよな。お前今俺の事思いっきり噛みつこうとしやがっただろ。どこまで犬になってんだよったく」
「黙れ、離セッ!」
「この状態からオレ様に勝とうなんて10年早えよ後輩。それで?さっきの質問の答えは?」
「答える義理ハ、ナイと言った……!」
「ふーん、そう。素直じゃない事で。そんならこっちは答えさせるまでだ」

こいつら素直さを足して二で割ればいいのにとか思いながら、クロウは身をかがめて性質のよろしくない笑みを浮かべた顔を下におろした。何をするつもりなのか、怒り心頭の白犬が暴れながらも見つめる中、あーんと口を開けたクロウが辿り着いたのは……そのまま一番、口に含みやすいぴょんと尖ったふさふさで。
ぱくっ。

「っぅあっ?!」

恐らく初めて味わう未知の感触にとっさに上がる声。おっ今のはリィン的反応だったなどと呑気に思う。唇で挟んだ意外とあったかいふさふさが、逃れようとしてか懸命にじたじた動こうとしている感覚がいじらしい。自由な片耳が限界まで伏せられているのが目の端に見える。その動きも、舌でぺろりと一撫ですればぎくりと固まった。

「な、ナッ何っ?!」

驚愕した声が下から響く。真っ白な耳の先を口に含みながらクロウは器用に答えた。

「白くて美味そうだったもんだから、つい」
「つい?!」
「それと、あれだ、毛づくろい?犬ってこーやって舐めたりして毛づくろいしてるだろ?それだよ、それ」
「ふ、フザケ、っ……!」

そのままぺろぺろと舐めてみれば、抑え込んだままの体が震えあがる。足元でぺしぺしと尻尾が必死にクロウを叩いてきているが、一切の抵抗になっていない。こうなると猛獣の前でただぷるぷる震える可哀想な子犬のようなものである。まるでこれじゃ俺が残虐非道の悪役みたいだなと罪悪めいた感情が胸をよぎるが、元々実質隠れた悪役みたいなものだった事をすぐに思い出す。ならまあ、いっか。

「さあ、どうする?だんまり決め込むならこのまま全身毛づくろいコースに入っちまうぞ?」
「………!」

低く囁いてやれば、怯えるようにびくりと身をすくませるリィン。あの凶暴な力の主をここまで萎縮させることが出来るとは、クロウは内心ほくそ笑んだ。まあ今の「彼」はリィンが寝ぼけていたせいか犬の耳と尻尾のせいなのか本調子じゃないっぽいが、そんなのクロウには関係ない。屈服させる事が出来るならそうするだけである。

(これだけ脅しつけりゃ、しばらく出てこないだろ……)

脳裏に過ぎるのは、得体の知れない己の力に怯えながらもなんとか受け入れようとしている、痛々しい黒髪の後輩の姿。別に、あいつのためだけじゃない、障害になりえる芽はなるべく摘んでおくだけだ、と誰に対してかもわからない言い訳を内心呟く。半分は、今の状況がただ単に面白いだけだし。それだけだし。

「何も言わねえって事は、してくれ、してほしいって事で良いんだな……?」

口を一度離し、目を合わせ、これでもかと悪そうな笑みを浮かべてやる。紅の目が見開かれてから、ひどく悔しそうに歪み、そして。

「……いつか絶対、コロス……!」
「お?」

クロウが瞬きをしている間にぎゅっと目を瞑ったリィンの姿が、再び変わっていく。闇の中に光る白銀の色も美しかったが、やっぱりこっちの漆黒色の方が見慣れている分落ち着くな、と人知れず肩の力を抜く。髪も耳も尻尾もゆっくりと色を変えたリィンは、クロウが見守る中白犬から黒犬へと変化して無事に元の姿に戻った。……この犬耳と犬尻尾のある姿を「元の姿」と称するのは本人的には不服だろうが。

「っつーか、逃げたなあいつ……不穏な捨て台詞残していきやがって」

今日の所は覚えてろよ、という事だったのだろう。少々情けない最後だったが、背に腹は代えられなかったのかもしれない。今度会ったらまた弄り倒してやろうと決意するクロウの目の前、閉じられていた瞼がゆっくり開くと、あの緋色を宿す薄紫が優しい色で見上げてきた。

「……。あれ……?クロウ?」
「おうよ」

長い夢を見ていたような顔でパチパチと瞬きをしてから、リィンは少しだけ首を動かして周りの景色を確認する。すぐにここが自室ではない事を把握して、困惑した様子でクロウへ視線を戻してきた。

「え、えっと、ここは、クロウの部屋、か?確か俺、普通に自分の部屋のベッドに入って眠ったはずなんだが……どうしてここにいるんだ?しかも、この体勢は……?」
「えっそこから?そこからオレ様説明しなきゃなんないの?」

どうやら「彼」が表面化していた時の事はもちろん、寝ぼけていた時の事さえ覚えていないらしい。マジかよーと一気に脱力して、リィンの肩に頭をぶつけた。面倒くさい、非常に面倒くさい。でもここはきちんと説明しておかないとあらぬ誤解を生んでしまう。特にこの体勢。
慌ててクロウの名を呼ぶリィンに、顔を埋めたまま口を開く。

「……最初に言っておくが、今から俺は一切嘘を付かない、実際にあった真実だけを話すからな。覚えてない、身に覚えがないって言っても聞かねえからそのつもりでいろ」
「え、えっ?」
「それと、覚悟決めとけ。何聞いても取り乱さない程度にはな」
「いっ一体何があったんだよ……?!」

散々脅しつけてから、クロウは簡潔に話してやった。リィンが寝ぼけて夜這いしかけてきやがってから、「彼」が半泣き(誇張)で逃げ帰った事まで、全部。押し倒された体勢だというのに一切抵抗も何もしないまま、リィンは大人しく全てを聞いた。話し終えた後で改めて顔を覗き込んでみれば、瞳が見開かれたその表情は混乱しきっていた。あと顔も赤かった。

「……は?え?お、俺が勝手にベッドに潜り込んで?覚醒して?え?ほ、本当に……?!」
「言ったろ、嘘は言わねえって」

そっと押さえつけていた体を解放すれば、しばらくそのままの格好で呆けた後、リィンはゆっくりと自らの顔を両手で覆った。指の隙間から見える肌の色は、覚醒時の瞳の色を連想するほどのゆでだこ状態だった。

「……嘘だ……」

絶望に満ちた一言。しかし疑っているのは自らの行動で、クロウが話して聞かせた内容は信じてくれたらしい。嘘はつかないと前置きはしたが一切身に覚えのない事をこんなにあっさり信じるとは、といささか理不尽に心配したりもする。
耳をへちょりと垂れさせて後悔と羞恥に沈む後輩に何と声を掛けるべきか考えていると、未だ屈めたままのクロウの身体の下でごそごそと身動きするリィン。恐る恐るこちらを見上げてくる瞳には僅かな怯えの色が見て取れた。覚えのない内に発現された凶暴な力に怯えているのか。躊躇いがちに零れた声も細く震えていた。

「く、クロウ、俺は、」
「ん?」
「俺は……クロウを傷つけたりしていないよな……?」

ああ、そっちを恐れていたのか。納得すると同時に、こういう時でさえまず他人の心配事かよ、と思わずため息が出る。びくっと震える肩を、落ち着かせるように叩いた。

「違うっつーの。よく見ろ、オレ様のこの傷一つない偉丈夫な姿を!……まあ白犬に威嚇されたりしただけだ、気にすんな」
「い、威嚇……?!」
「ああ。こう毛を逆立ててグルグルグルっと。あれは今思い出しても、犬そのものだったなあ」

あのぶわっと逆立っていた白い姿は、黒犬のままではなかなか見られなかっただろうな、としみじみ考えていれば、リィンは再び顔を覆ってしくしくと落ち込んでしまった。自分じゃ覚えていない分相当情けない姿を思い浮かべているらしい。

「ううっもう嫌だ、自分が日に日に本物の犬に近づいていくような心地さえする……。そもそも俺は何で無意識にクロウの部屋に来てしまったんだ……」
「そりゃあ俺が一番聞きたいことなんだがな」
「確かにクロウと一緒にいるときは心が落ち着くけど……夜の真っ暗闇の中これから俺はどうなっていくんだろうとか考えて不安になった時なんか、クロウがいればなあと思った事はあるけど……それでも無意識に部屋まで行くなんて……」
「……意識がはっきりしといてこれだもんな、こいつは……」

クロウの口元が引きつるのも仕方が無い事だろう。こいつどうしてやろうかと手をわきわきさせながら、未だクロウのベッドの上に転がって恥ずかしそうに尻尾をぱたぱたさせているわんこへ迫る。とりあえず、お前はこんなことをされても文句言えないぐらいの事を言っているんだぞと体に分からせてやるためにさっきの毛づくろいの続きでも……。
と、その時。

コン、コン。

「こら、あんたたち今何時だと思ってるのよ。学生はさっさと寝なさい」

薄暗い夜の室内に突如響いたドアのノック音と、凛とした声。本来ノックとはドアを開ける前に行うはずだが、何故かその声はドア越しではなく直接届けられた。えっと思わず素で呟いたクロウが首を巡らせると、開け放たれた自室のドアと、そのドアに拳をつける担任教官の姿が。ああこいつまたドア開けっ放しで部屋の中に入ってきやがったのか、と今更気づいても遅すぎた。おかげで全てを突然の訪問者の目に晒す羽目となる。
仁王立ちで部屋の入口に現れたサラは、少しだけ眠そうだった目を軽く見張る。さすが幾多の修羅場を潜り抜けているだけあって取り乱しはしなかったが、数秒何も言葉を発する事無く立ち尽くす程度には驚いたようだ。クロウは固まったままの頭をギギギと動かし、正面に戻してリィンを見下ろした。そう、見下ろした。リィンはクロウのベッドに仰向けに転がったままで、その上に圧し掛かるように自分が覆いかぶさっているのだから、見下ろすのは当たり前だ。
……何故この体勢で話し込んでしまったのか。今日は色々と後悔する日だ。

「……そう」

重い沈黙を保ったままだったサラはやがて、己の中で結論を出したように頷いた。リィンを見て、クロウを見て、厳しい視線でクロウを力強く指さし、一言。

「クロウ。あんた学生だからって逃げないで、きちんと責任取りなさいよ?」
「っおぉい?!今一体どんな結論出しやがったんだよ?!」

しかも、仮にも教職の人間がこの場面を見て放つ言葉としては不適切な気がする。いやそもそも激しい勘違いだ。勢いでがばりと身を起こすクロウに、突然の事態についていけずに固まっていたリィンがぱちぱちと瞬きをしながら尋ねる。

「責任、ってどういう意味だ?」
「……天然わんこはちょっと黙っとけ、な」
「まあ私も色んな世界を見てきた訳だから、否定はしないわよ?でもさすがに学生の身でしかも学生寮でっていうのはねえ……教官や文芸部部長なんかに見つからないように慎ましく清らかなお付き合いを、としか、今の私にはアドバイス出来そうにないわ」
「サラも一回黙れ!そして俺に弁解する時間を与えろっ!」

数日前にも似たような疑いを掛けられたことを思い出しながら、クロウは再び器用に小声で絶叫した。あの時は確かに自分も悪かった所もあったが、今回のこれは完全にこちらが被害者だ。しかし肝心の加害者はきょとんとクロウを純真な瞳で見つめてくるだけで、本当にこっちがイケナイ事をしていたような気分にさせられるのだから性質が悪い、悪すぎる。サラはサラでにやにやと心底楽しそうに笑っているし、完全に分かっている上でおちょくっている。空の女神は俺を見放したか、とクロウは頭を抱えるしかなかった。いや、確かに見放されるようなことを密かにしようとしているけれども!

「クロウ?何だか分からないが、今の状況を作り出したのは俺のせいだから……俺が責任を持つよ。クロウの分まで俺が全部責任を持つ。だから任せてくれ」
「尻尾振りながらそういう事言うのほんとやめてリィン君、お兄さん絆されちゃうから」
「あら男らしい。クロウあんた本当愛されてるわねえ、いやこの場合、懐かれてるのかしら。一体どうやった訳?」
「俺が一番聞きたいわ!」

耳を立て、尻尾を振り、決意の灯った瞳で真っ直ぐクロウを見つめるリィン。決して悪い気はしない。しないけど。心からの信頼のこもった視線を受けながら、クロウは割と本気で思った。
やっぱり黒犬リィンと白犬リィン、足して二で割ってくれ、と。





白犬リィン君!





14/03/16


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