「……おいおい、一体何がどうしてそうなってんだよ」

クロウは呆れていた。目の前に現れた光景が予想だにしていなかったものだったせいだ。
場所はトールズ士官学院技術棟。普段ここを管理しているジョルジュは何故か不在で、代わりに我が物顔で脇の椅子に腰掛けているのはアンゼリカだった。ここまでは良い。ジョルジュがいないのは珍しいが、アンゼリカがいるのはそう珍しい事ではない。たまにはこんな日もあるだろうと思えるレベルだ、ここまでは。
クロウをあっけにとらせたのはアンゼリカの隣の人物だった。わざわざ二つの椅子を横にくっつけて至近距離でアンゼリカが肩を抱き、これ以上ないほどカチコチに固まったまま汗を流して座っているのは、たまに技術棟に訪れるぐらいの頻度でしか見かけないはずのリィンだった。リィンも珍しければその態勢も珍しい。膝に両手を添え今の状況を必死に耐えている様子のリィンとは対照的に涼しげな余裕の表情を浮かべているアンゼリカを見ていると、ある言葉が浮かんでくる。これは、そう、はべらせている、みたいな。

「やあクロウ、遅かったじゃないか」

リィンの肩に回した手はそのままに、もう片方の腕を上げてアンゼリカが挨拶してくる。それには返さず、クロウは重い溜息を吐いた。

「俺の質問に答えろって。おいリィン、んな所で何してんだ?」
「そ、それはこっちが聞きたい……さっきアンゼリカ先輩に呼び出されてここに来たら、訳も分からない内にこんな事になって……」

リィンが助けを求めるようにクロウとアンゼリカを交互に見る。アンゼリカは取り合うつもりが無いらしく、リィンが困っているのもどこ吹く風で離そうとしない。
無いとは思ったが、一応クロウは聞いてみた。

「何だゼリカ、お前もようやく一般的な女子と同じように男に胸ときめくようになったのか?」
「いや、それだけは無いな」

すぐにきっぱりと否定される。じゃあ今のこれは何なんだよと半眼になれば、ようやくアンゼリカは口を開いた。

「いや何、先日ちょっと面白い噂を聞いたものでね。クロウ、君の事で」
「ほーう」

その言葉通り、どこか面白おかしそうに微笑むアンゼリカ。

「誰に聞いたか忘れたが、君は周囲にこう触れ回っているそうだね。君が狙った女の子は悉く私が掠め取っていってしまう、と」
「げっ。そ、それは……」
「うーん私にそういう自覚は全く無いんだが、全ての女の子は等しく愛でる主義でね。そのせいでクロウの邪魔をしてしまった事はあるかもしれないなと思ったんだ。という訳で、その節はすまなかった」
「こっこの女……!」

「君よりモテてごめんね」と暗に言われてクロウの拳がわなわなと震える。表面上は謝っているがその実喧嘩を売っているようなものだ。今すぐにでもその喧嘩を買ってしまいたい所だが、ぐっと抑える。まだ、今のこの不可思議な状況の理由を聞いていない。

「……で?そのモテ自慢のためにオレ様をここに呼びつけたってのか?」
「いや、それもあるけどもちろんそれだけじゃないさ」
「それもあるのかよ!何だよ、早く言えよ!」

地団太を踏むクロウを愉快そうに眺めながら、アンゼリカは胸を反らした。

「今までは無意識に君のお気に入りを奪ってしまっていたのだろう?ならたまには、自主的に奪ってみるのも一興かと思ってね」
「はあ?何つー悪女だよ!」
「ふふ、クロウの悔しがる顔が面白いのがいけないんだろう。そういう訳で、」

ぽん、とリィンの肩を叩いて、華麗にウインク。

「リィン君を呼びつけたという訳だ」
「えっ?!」

何で今の会話の流れで俺が?!と、リィンが困惑している。クロウも同じ気持ちだった。以前から、というか出会った当初から何かと考えが読めないことがあるアンゼリカの、今回の思惑がさっぱり分からない。

「いやいや、どうしてそこでリィンだよ」
「だって彼は、君のお気に入りだろう?」

アンゼリカは事も無げに首をかしげる。どうしてそういう発想が浮かんできたのだろうか。何かと顔が広いクロウが目にかけているのは別にリィンだけでなく、それこそ今所属しているZ組全体に及ぶだろう。リィンとつるむのが多い事は確かに否めないが、アンゼリカも自分の嗜好も考慮して無難にZ組の女の子の誰かを選べば良かったものを。
そうやって考え、とっさに「んな訳ねーだろ」とか「そいつだけじゃねえだろ」とか否定するべきだった場面で。
何故だかクロウは一瞬言葉を詰まらせていた。

「……確かにまあ可愛い後輩だけどよ。後輩ってんなら他にもいるし、そもそも今の話でどうして男を選んだんだよお前は」
「いや、私も出来る事ならアリサ君やフィー君を呼び出したかったさ。でも今回はクロウの悔し顔を見るのが目的だったから、君の一番を選ぶしか無かったんだよ」
「はあ?誰の一番だって?」
「おや、自覚無しかい?それとも、とぼけている?」
「あのなゼリカ、お前が何を言っているのか、俺にはさっぱりわかんねえよ」

お手上げだ、というように両手を上げるクロウを、アンゼリカがじっと見つめる。そのまっすぐで強い視線は何という驚異だと、内心舌を巻いた。この鋭い視線に自分の全てを見透かされているのではないかと、たまにそういう心境に陥ったりもする。己の正体はさすがに感づかれていないはずだと、信じるしかない。
クロウが隠し通さなければならない秘密、さえも深く通り過ぎ奥まった所にある心を見つめるような瞳を、アンゼリカはゆっくり瞬いた。

「……まあいい。そっちがその気なら私も勝手にさせてもらおう」

ふいっと興味を無くしたかのようにクロウから顔を逸らしたアンゼリカは、隣を見た。今日の晩御飯はシャロンさん何を作ってくれるのかなとか関係ない事を考えて現実逃避していたリィンが、アンゼリカの視線に気づく。恐る恐る視線を合わせれば、にっこりと微笑まれた。今のリィンにとっては、死刑宣告も同義である。リィンは声にならない悲鳴を上げた。

「さあ後輩君!今から私が先輩だよ、どんと甘えたまえ!」
「い、いやいやいや!それは元からですから!」
「ああそうだったね。ではクロウはどういう風に君と接してきたのかな?確か寮の部屋がお向かいだと聞いたが、どちらかの部屋で夜通し男同士の語り合いでもしてたのかね。何なら先輩らしく君の安眠を守るため添い寝でもしてあげようか。あ、今すぐご希望ならば止むを得ない、私の膝を貸そう」
「アンゼリカ先輩は、先輩後輩を何だと思ってるんですか!」
「駄目かな?これを女子にやると誰もが喜ぶんだが、男子は難しいな。君ももっと遠慮なく甘えてきてくれてもいいのだよ、ほーら」
「うわっ、や、やめてください……!」

アンゼリカが豪快にわしゃわしゃとリィンの頭を撫で回せば、口や態度は戸惑いながらも、完全に拒否した顔ではない。クロウは何故だか知らないが、自分の機嫌が下がったのを感じた。

「そういえばクロウは旧校舎の調査なんかにも一緒に行くらしいじゃないか。さすがにZ組に編入とはいかないが、今度からクロウの代わりに私を呼べばいい」
「え、ええっ?」
「遠慮はいらないよ、君が困ったらいつでも私を呼んでくれ、クロウなんかよりもね。可愛い後輩のためなら一肌脱ぐさ」
「いや、でも……」
「うーん、本当ならこっちの腕にもエリゼ君をはべらせて、シュバルツァー家は私のものだーとでもやりたかった所なんだが」
「アンゼリカ先輩がやるとシャレにならないんで止めてください……あと、エリゼはいくら先輩でも駄目ですから……」

リィンがあれこれと手や口を出してくるアンゼリカの応対に四苦八苦している間に、さっきまでその場に突っ立ったままだったクロウは行動を起こしていた。ちょうどそこにあった椅子を一脚ガッシと掴むと、アンゼリカとは反対側のリィンの隣に音を立ててガシャンと下ろす。突然の音にリィンの肩がびくりと跳ねた。

「く、クロウ?」

戸惑った薄紫がぱちぱちと瞬きをしながら見上げてくる。一度だけその眼を見返して、クロウは何も発することなくどかりと椅子に腰を下ろした。そうして再度目を合わせ、にやりと笑いかける。リィンの顔が引きつった。多分客観的に見て、大変よろしくない笑みだったのだろう。もちろん、意図的に作った笑顔だった。
とっさに逃げようと身動きした体はしかし、すでに向かいの先輩に抑え込まれたままだったので意味を成さない。あちこち視線を彷徨わせることでしか最早抵抗できない可哀想な後輩に、もう一人の先輩の無慈悲な手が襲い掛かった。

「よっし、我が愛しの後輩よ、待たせたな!最強のお前の先輩クロウ様が来たからにはもう大丈夫だぜ!」
「……ええっ、対抗?!」
「おおカワイソーに、こんな暴力女にいいように弄ばれて!俺様が慰めてやろう、よーしよしよし!」
「うぐっ!や、やめろっそれは明らかに犬猫を撫でるような手つきじゃないか……!」
「こーんないたいけな後輩を無理矢理構いまくっていじめるなんざ、ゼリカは先輩の風上にもおけねえよなあ?ん?」
「どの口がそれを言うんだっ」

両手でわしゃわしゃとくせっ毛を掻き混ぜつつ、さりげない動きでリィンの肩に乗ったままだったアンゼリカの腕をどける。代わりに空いた肩へ自分の腕を回すと肩を引き寄せて、これ以上好き勝手させねえぞふふんと一笑い。一瞬だけきょとんと眼を瞬かせたアンゼリカは、顔を逸らして少しだけ肩を震わせた。予想以上の反応がかえってきたためだ。

「ッフフ、クロウ、果たして君はそんなに分かりやすい男だったかな」
「あ?何のことだ?俺は今こいつ構うのに忙しいんだよ」
「そうかそうか。忙しいのなら仕方ない、君は君で存分にやるといい。私も私で勝手に続けさせてもらうから」

納得したように頷いたアンゼリカ。クロウ側に傾いたリィンを元に戻すように、若干力を込めてぐいっと引き寄せ返した。

「さあリィン君、そこの後輩から金をだまし取るようなろくでもない男なんて放っておいて、私と可愛い子談義でもしようじゃないか」
「は、はあっ?!」
「んだよ、ただの先輩後輩のスキンシップだっての、なあリィン?それより今度の実技で何が来るか予想しようぜ、そこの同じクラスでも何でもない遠い先輩は置いといてよ」
「ええっ?!」

左右から引っ張られ喋りかけられ、リィンはただただ二人を交互に見る事しか出来ない。クロウもアンゼリカも互いやリィンの様子など気にもしていない態度で次々と話しかけてくる。

「それで、君の好みはどんな子だい?私はそうだなあ、まずはもちろん女の子である事が第一条件だ。たまに私に、同性なのにどうのこうのと訳の分からない事を言ってくる輩がいるけどね、愛の前に性別なんて関係ない、そうは思わないかい?そもそも私は体はどうあれ心は完全なる帝国紳士なんだがね」
「いや、その、」
「ぶっちゃけよお、そろそろブレードを実技に取り入れてもいいと思わねえか?こいつで学べる駆け引きとか結構バカにできないもんだと思うんだよなー。あっあと、学生の内から賭けとはどういうものかをこいつで学んでおくってのも社会に出てから失敗するよりずっといいと思うんだよ、うん」
「授業で賭けを?!」
「こらクロウ、健全な青少年を君のような薄暗い道に引き込もうとするんじゃない」
「薄暗いっておま……まあ否定は出来ねえけどお前こそ何だよ、愛には性別は関係ねえって思いっ切り全うな道から逸れまくってるじゃねえか」
「何を言うんだ、真実だろう。この胸を突き動かす愛という感情は年齢も性別も種族も全てを突き抜けた所から溢れてくるものだ。今のクロウになら、分かってもらえるものだと私は思うんだがね……?」
「ほほーう?さっきからそうやって思わせぶりで意味不明な事を言いやがって、俺に喧嘩売ってんだな?売ってるんだよな?」
「まだしらばっくれるか、往生際の悪い。君がその気なら、私はリィン君をこうやってこんな風にすることもいとわないんだぞ」
「わっ、ちょっ?!」
「はあ?んなの何てことねーだろ、俺なんかこいつにこうやってこうしてこうやってやんのは最早日常茶飯事レベルだぜ」
「や、待っ……!」
「ほう、なるほど?それなら私はここをこうしてやってもいいのだね、先輩なのだから」
「ひいっ」
「甘ぇなあゼリカ、俺ぐらいの先輩度だったらここからこうやってだな」
「っ!!」
「いや、ならば私はこうして……」
「いやいや、じゃあ俺はこうやって……」

「……った、助けて……」


奇妙な対決が繰り広げられる中、悲痛なか細い声が木霊する技術棟。そこに、ほのぼのとした空気を纏った二人分の足音が近づいてくる。この技術棟の本当の主ジョルジュと、彼にちょっとした依頼をして連れ出していたトワだった。依頼の作業はすぐに終わり、少しだけ留守を頼んでいたアンゼリカが待っているはずの技術棟のドアを、二人は何の躊躇いも無く開く。

「……えへへ、ジョルジュ君、いつも本当にありがとう!私はコンピューターは入力ぐらいしか出来ないからなあ」
「どういたしまして。でもトワも他の人に比べたら理解している方だと思うよ?キーボードの入力が出来る人って、案外少ないんだよね」
「うーん確かに、覚えるまでが大変かもねえ。……さて、アンちゃん、ただいまー」
「ただいまアン、留守番ありがとう……って、」
「……へっ?!」

部屋に踏み込んだトワとジョルジュは、一度そこで目を丸くして立ち止まった。視界には、何かを張り合っているらしいクロウとアンゼリカ、そしてその二人に挟まれてぐったりしているリィンの姿が。すぐにはちょっと理解しがたい光景だった。

「……えーっと。とりあえずリィン君を救出するのが先決かな、これは」

やや呆然としながらのジョルジュの声にハッと我に返ったトワは、慌てて三人に駆け寄っていった。

「う、うわわっ!二人とも、とりあえずリィン君を離しなさーい!」



……それから、数分後。粗方の事情を聞いたトワは、椅子に座らせたままのクロウとアンゼリカの目の前に立ち、ぷんぷんと怒っていた。二人の間から救出されたリィンはちょっと離れた所でジョルジュに甘いものを貰って休息中である。

「ほら、僕の隠しおやつのドーナッツだよ、これでも食べて元気を出すんだ」
「……あ、ありがとうございます……本当に助かりました……」
「もう、先輩対決だなんて……一体何をどうやってたのか分からないけど、リィン君をあんなに疲れさせちゃ二人とも、先輩失格だよっ!」

ごもっともな説教を、クロウはあさっての方向を見ながらへいへいと、アンゼリカは微笑ましそうにトワを眺めながらうんうんと、若干反省していなさそうな態度で受け止めている。真剣味が足りない二人にトワが頬を膨らませると、アンゼリカが笑顔のまま立ち上がり、その頭を撫でた。

「ごめんごめん、私もクロウに対抗してつい熱くなってしまってね。いやあそれにしても、トワの怒った顔は本当に可愛いなあ」
「もうっアンちゃん真面目に聞いて!そもそも、どうしてリィン君をわざわざ呼びつけてそんな対決を始めたの?」
「クロウの慌てふためいて悔しがる顔を見るため、かな」
「ほらな、全ての元凶はあの女だろ?俺悪くねえしー」

あっけらかんと笑うアンゼリカとは対照的に、クロウはやや憮然とした顔をしている。やりすぎた自覚があって、バツの悪い思いを抱えているからかもしれない。そこをズバリ、ジョルジュに指摘された。

「でもそんなアンに乗っちゃうクロウもクロウじゃないかい?まあ、その態度を見ると自分でもわかっているみたいだけど」
「う、うるせえな」
「仕方ないさ、クロウも自分のお気に入りの後輩が取られると思って焦ったんだろう。リィン君にとっての一番の先輩という地位が脅かされれば、そりゃあ必死にもなるさ。なあクロウ?」
「こ、んのアマ……!」
「……どうして、俺を取る取られるの話になっているのか、理解出来ないんですけど」

もぐもぐとドーナッツを食べて多少元気が出てきたのか、リィンが口を挟んでくる。どこか呆れたような目で見つめられて、クロウはそっと顔を逸らした。反論が出来るはずも無かった。まさにアンゼリカの言った通りの心境に何故か軽く陥って、つい対抗意識みたいなものが芽生えてしまっての暴走だったのだ。言い訳のしようも無い。まったく今日はどうかしていると、地味に一人で反省していたのだった。

いつか必ず切り捨てる事になる者に対してこんな執着、愚かでしかないというのに。

だんまりのクロウに代わって、先輩方にいじられまくった頭を軽く振るリィンに答えたのはアンゼリカだった。

「簡単な事さ、人には多かれ少なかれ執着心というものがある。自分の一番のお気に入りが他の誰かのお気に入りにもなってしまえば、独り占め出来なくなってしまうだろう?それが嫌で対抗してしまうのさ」
「は、はあ……」
「それに自分だって、誰かの一番でありたいものさ。トワ、君の中の私はもちろん、世界で一番の貴公子となっているかな?」
「ふええっ?!い、いきなり私に振らないでよー!もちろんアンちゃんは私の一番の友達だけど……」
「おっ相思相愛か、嬉しいじゃないか。さあトワ、想い合える喜びのまま私の胸に飛び込んでおいで!」
「ええーっ?!」

アンゼリカが今度は嬉々として慌てふためくトワに向かう中、先ほど貰った言葉を考え込んでいるらしかったリィンが、ふと顔を上げてクロウの方を見つめてきた。じっくりと注がれる純粋な視線に、思わずこの場から逃げ出したくなる。居た堪れない気持ちを何とか己の奥底に押し込めて、クロウは何でも無い表情を作ってリィンを見返した。

「何かな、リィン少年」
「いや……アンゼリカ先輩の言ってた事、本当なのか?」
「ああ、一番のお気に入りがーって奴か?」

そんな真剣な瞳で質問されると、居心地が悪くてムズムズしてくる。そんな心境などおくびにも出さずに、クロウは努めていつもの軽いお調子者の声を上げた。

「ま、俺とお前は何かと腐れ縁だし、お気に入りってのは確かに間違いではねえな。それよりさっきのゼリカだよ、女の子方面じゃ今の所、情けねえことに全戦全敗だっつーのに別な分野でまでこれ以上負け越してたまるかってんだ。そういう意味でつい熱くなっちまったな、ははっ悪かったよ」

立ち上がってリィンに近づき、今度はやりすぎないように、軽い手つきで黒髪に触れる。さっきとことん弄り倒した分嫌がられるかと思ったが、リィンはくすぐったそうにそれを黙って受け入れた。まったくこの後輩はどこまでも素直な事だ。
クロウの手が離れると、再びリィンは薄紫の瞳を向けてきた。今度はその口元を緩く笑みにしならせながら。

「さっきのはもう別にいいんだ。ただ、今のアンゼリカ先輩が言っていた、先輩の地位が脅かされるとか何とかを気にしているなら、言っておこうと思って」
「は?」

リィンが何を言い出すのか、予想できなくて思わず無防備に呆ける。リィンは真っ直ぐ正面からクロウをその瞳に映したまま、ごく自然体で言った。

「俺にとっての一番の先輩っていうのは、やっぱりクロウで間違いないと思う。付き合いはどの先輩よりも一番長いし、性格とかわりと正反対だなと良く思うけど、何でか一緒にいて居心地も良いしな。面倒事を押し付けられる事もあるけど、それ以上に多分、俺はクロウに助けられている部分が多いし……すごく感謝している。だから、クロウが一番だ」
「へ……」
「それで今、もしクロウの位置に他の誰かがいたらって考えてみたんだけど、やっぱりこうして誰よりも近い位置にいれるのはクロウがクロウだったからだろうなって、改めて思ったんだ。あ、もちろんどの先輩が優れてるとか劣ってるとか、そういう事じゃないぞ。アンゼリカ先輩もトワ会長もジョルジュ先輩も尊敬出来る先輩だし、他にも見習うべき先輩はこの学院に沢山いる。けど、ここまで気を許せる先輩は、クロウ以外にはいなかったろうなって妙な確信があるんだ」

だから、と一言区切って。リィンは綻ぶような笑顔でクロウを見る。

「俺にとっての一番は、クロウ以外にいないから。そこは安心してくれ」
「………」

クロウは沈黙した。沈黙するしかなかった。
横から聞いていた先輩方はそれぞれ、アンゼリカはにやにや笑いながら、トワはどこか頬を赤らめながら、ジョルジュは微笑ましそうな笑顔で、口々に声を掛ける。

「これは、私たちの負けだな」
「う、うん、負けちゃったねえ」
「クロウの一人勝ち、だね」
「え、えっ?いや、別に今のは勝ち負けじゃなくて、俺にとっての一番って話なだけで……!」

慌てたリィンが先輩みんな素敵ですよと力説し始めても、彼にとっての一番はもうすでに発表されているのでハイハイと流される。その間にも、クロウは固まったまま動けずにいた。心が受けた衝撃はそれほどクロウを打ちのめしていたのだった。
やがてぽんと肩を叩かれ、ようやく少しだけ持ち直してぎこちなく視線を巡らせば、良い笑顔のアンゼリカと目が合う。

「ほら、言ったろう?溢れ出す愛の前には、年齢も性別も種族も関係ない、ってね」
「……ゼリカ、頼むからしばらく俺を放っておいてくれ」

うめくようにそう言うと、トワやジョルジュとまだ何かを話しているリィンに向き直る。そうして空いていた右手を左手でむんずと掴むと、きょとんと見上げてきた瞳に向かって一言。

「帰るぞ」
「……えっ?」
「俺は今日とことん疲れた。もう寮に帰って寝る。責任とってお前も付き合え」
「え、何の責任だ?ちょ、ちょっとクロウ?!」

そのままずるずると引き摺りかねない勢いで歩き始めたクロウに慌てて追い縋りながら、リィンは退室する前に何とか一度だけ振り返った。

「え、えっと、おっお邪魔しました!」
「はは、こちらこそ」
「リィン君、クロウも、ゆっくり休むんだよ」
「あっあと、リィン君は今日はもうあんまりクロウ君を刺激しないようにねっ」
「はい?それってどういう……うわ、クロウ待てって……!」

そのままバタバタと二人が去った技術棟は一瞬、しんと静まり返る。その静けさにトワは大きな息を吐いて、ジョルジュはふうと肩を下ろして、アンゼリカは何かを思い出すように笑った。

「ふふっ。ああ、今日は楽しかったな。最後のクロウのあの顔見たかい?」
「もうアンちゃんってば。……それにしても、リィン君にもびっくりしたなあ。クロウ君すごく驚いてたけど、あんな風に言われちゃ仕方ないよね……」
「まあ、クロウの事をすごく真っ直ぐ好いてくれているのは伝わったね。何というか、真っ直ぐすぎる気がするけど」
「ああクロウにはもったいないな。あの一途さ真っ直ぐさで女子だったら放っておかないんだが、本当にもったいないよ」
「そっちのもったいないなの?!」

三人で顔を見合わせて笑い合う。とりあえず明日には、この場からとっさに逃げ出した銀髪の友人も立ち直っているだろうから、この話の続きはそれからだろう。差し当たっては、普通の顔でさらっと告白紛いの発言をしてくれちゃった後輩君についてからかい倒すことになるだろうが。


「……やれやれ、同じぐらいの想いを抱いているんだろうに、受け取る事さえ躊躇わせてしまう君の事情とは一体、何なんだろうな……」

ぽつりと呟いたアンゼリカの案じる様な言葉は、誰に届く事も無く馴染みの部屋の中へと消えた。






「クロウっ待てってば、そんなに急がなくたっていいだろう」
「うるせえ、今日は色んな衝撃を心に受けてマジで疲れ果ててんだ。全てを忘れてひと眠りしてえんだよちくしょう」
「そ、そんなにアンゼリカ先輩にやり込められた事がショックだったのか?」
「……一番俺に爆弾を容赦なく叩きつけた奴がよく言うぜ、おい……」
「ん?」
「何でもねーですよー。……ったく、あれだけ言っといて一切自覚無しとか何なんだ、俺にどうしろっつーんだよ……」

ぶつぶつと一人で何かを呟いているクロウの背中から、リィンは引っ張られたままの自分の手へ視線を落とす。握りしめられた力は若干強くて痛いぐらいだったが、そんなの気にならなかった。ただリィンの頭の中ではとある疑問がぐるぐると渦を巻いていて、さっきからその事ばかりをずっと考えていた。

「なあ、クロウ。俺にとっての一番は、クロウだよ」
「あーさっき聞いた聞いた。もうこれ以上今日は言うなってホント」
「……それじゃあ、クロウは、」
「あん?」

振り返った真紅の瞳に見つめられて、リィンはとっさにふるふると首を横に振る。

「いや、何でもない」
「?そうかよ」

(クロウにとっての一番は?なんて。どうしてこんな事が気になっているんだろう、俺は)

疑問に思う事それ自体が意味不明で、リィンは一人内心首を傾げる。


ただ分かるのは、繋がれた手のぬくもりが、このまますぐに寮に帰るのは惜しいなと思ってしまうほど、離しがたいと感じる事だけ。





ここは君の特等席





14/03/01


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