トールズ士官学院第三学生寮は、他の寮と比べて随分とアットホームである。最初こそよそよそしかったりギスギスした空気が流れたりと、なかなかうまくいかなかったものだが、もうすぐ共に暮らして半年になろうとする今ではほぼ全員が互いの部屋を気軽に行き来できるほどだ。それ故部屋にいる間は理由のない限り鍵を掛けないで置くことが常であり、期間限定の編入生であるクロウも文句を言う事なくそれに倣っている。この自室には知られてはいけないような重要なものをほいほいと置いてはいないし、一番近い部屋、向かいの住人は勝手に部屋を漁るような非常識とは程遠い人物だったので、文句という文句も無い。そういう訳で、今朝もクロウの部屋の鍵は掛かっておらず、誰でも突然中に飛び込んでこられるようにはなっていたのだ。
だからって本当にいきなり飛び込んでくるこたぁないだろう、と、今ベッドの上で仰向けに寝転がっているクロウは数秒後に思う事になる。

「っクロウー!」
「どぅわっ?!」

物凄い勢いで腹に圧し掛かってきたものに思わず情けない声を上げたのは、完全に油断していたからだ。もちろん気配には気付いていた。向かいの部屋で目を覚ました人物がしばらくいつものように朝の支度のために室内をウロウロした後、奇妙な雰囲気と共にぴたりと動きを止めていた事に、何か変だなとは思っていたのだ。もうちょっとその静止が続くようなら、何気ない風を装って様子を見に行こうかと考えていた所に、これである。腹に力一杯巻きついてくる腕がまるで何かに怯えるかのように震えている事に、息苦しさを感じるより先にギョッとする。こんな風にしがみつかれる事はもちろん、この少年がここまではっきりと恐怖を表に出す姿を見るのは初めてだった。
尋常ではないその様子に、クロウはすぐさま身を起こして、胸のあたりにくっつく黒髪になだめるように触れた。

「お、おいどうした、一体何があっ……」

言葉は中途半端に途切れた。原因は目の前にある頭に触れた手だ。くせっ毛の髪をただ軽く撫でてやるつもりだったのに、その手が何かふさっとしたものに触れている。明らかにただの髪の感触ではない。よく目で確認してみると一目瞭然だった。昨日までは確かに何の変哲も無かったはずの漆黒の頭に、髪とは違う何かふさふさとしたものが二つくっついている。……いや、ほぼ無意識に触れていた指で辿ってみれば、信じられない事にそのふさふさはどうやら、生えている。頭に。
言葉や動きと共に、思考も一瞬停止する。何だこれは。

「……はは、は。何だお前、朝からこんなファンシーなもんつけて、そういうキャラじゃないだろ?何だこれ、にゃんにゃんセットに似てるが違うよなあ」

とりあえず、直に生えている事を無視してみた。本当はあのふざけたセットであってほしかった。ちょっと前に質屋ミュヒトから購入してみたにゃんにゃんセットなる猫耳と猫尻尾を、いったい誰が一番似合うのかと全員でふざけて付け回ってみた事を思い出す。実際に付けずとも満場一致でフィーが一番だろうと分かってはいたが、変な感じだなと照れたように笑っていたあの時のこいつもまた、案外似合っていたよなあとしみじみ思い出すのは、多分現実逃避の一種だ。
それにこの二つのふさふさがもし生えていないものだとしても、あの時の猫耳とは別物だろう。まずは色が違う。このふさふさは生えている頭とほぼ同色の黒色であるが、あの時の猫耳は灰色に近かった。それにこのふっさりとしたリアルな感触と見た目の質感は、作り物めいたあれらとは似ても似つかない。加えて、今はぺたりと伏せられたふさふさが仮にぴんと立てば、おそらく形も猫のものとは少し違うだろうと容易に想像がつく。クロウは考えた。

「これは……あえて言うなら、わんわんセット、か?」

そうだ、犬だ。猫と言うよりこれは犬の耳に近い。というかそのものだ。通常ならば元気よく立っているのだろう犬の耳が、目の前の人間の頭にくっついているのだ。ミュヒトのおっさんの新作か?などと気軽に聞けないのは、この犬の耳がただくっついているだけではない事を今しがた確認したばかりだからで。
何と声を掛けようか考えあぐねている内に、クロウに顔を押し付けて沈黙していた向かいの部屋の後輩、リィンがバッと顔を上げてきた。

「わ、わんわんセット……そうだよな、これはそういう類のものだよな、間違っても頭から直に生えてはいないよな?!俺の勘違いだよなっ?!」
「ああ、うん、まあ落ち着け、気持ちは分かるが一旦落ち着こう、な?」

自分でも確認した後らしい。さっき不思議な気配と共に静止していた間の事だろう。必死な様子で詰め寄ってくるリィンの肩をとりあえず押しとどめて、クロウももう一度確かめてみる事にする。声を上げた勢いで持ち上がった黒い犬の耳を(この時点でただのつけ耳とは違う事は置いといて)指でつまみ、少しだけ力を入れて引っ張る。途端にリィンの肩が跳ねた。

「っ!」
「あ、わりぃ」

慌てて手を離せばほっと息を吐いた後、クロウと目を合わせて顔色を青くするリィン。気持ちは分かる。ただ頭にくっついているだけの作り物の耳であれば、触れられて痛みを感じるはずがない。第三者から与えられた確かなその感触に、もう言い逃れは出来ない。現実に追い詰められ絶望するリィンの犬耳は、再びぺたりと伏せられてしまった。

「う、嘘だ、こんなの……一体どうしてこんなものが……」
「こりゃ、さすがのオレ様も初めて見るな。一体いつからこうなったんだ?」
「そんなの、俺が聞きたい……さっき起きたらもうこの状態だったんだ。夢を見たような気がするんだが、内容は覚えてないし……」
「ふーん、夢ねえ……ん?」

じっとリィンの姿を観察したクロウは、それに気付いた。自分に向けられている縋るような瞳を覗き込めば、浮かんだ違和感は間違いではないと確信する。急に黙っておもむろに目の端に触れてくるクロウに、リィンが不安げに瞬きする。

「クロウ?」
「……お前の目の色、いつもと違うな。赤みがかってやがる」
「えっ?!」

ぽかんと目と口を開いたリィンは、すぐに自分の頭を、というより髪を両手で押さえる。リィンが何を考えたのかすぐに察したクロウは、手を振って否定してやった。

「あー、安心しろ、髪の色は変わってねえよ、いつも通りの黒色だ。ついでに言うと、その耳もな」
「そ、そうか……でも、目だけが赤色って……」
「完全に赤って訳でもねえな。ぼんやりと赤色が混じってるっつーか光ってるっつーか」

ちらちらといつもの薄紫の瞳に赤の光が揺らめく様は、無意識にでも綺麗だなと思わざるを得ない。動揺のためか平常より水分の多い瞳が瞬けばより一層美しく輝く。思わずじっと魅入れば、見つめられて気恥ずかしくなったのかリィンが頬を染めながらついと視線を逸らした。ちょっと残念に思った。

「え、ええと……実は、変なのはこの耳だけじゃないんだ……」
「は?」
「み、耳だけじゃなくて、その……」

恥じ入る様子のリィンに、クロウも嫌な予感と共に思い至った。そう、あの動物セットだって耳だけではなかった。セットというだけあって、耳と尻尾で一つになっていた。つまり……。
今まで目前に迫ったリィンの頭にしか目がいってなかったクロウは、恐る恐る視線をずらす。すると、すぐに見えた。今まではどうやら怖気づいていたせいで体にぴったり巻きついて、振られることがないままだったちょっと長めのふさふさしたものが、リィンの背中に見える。具体的に言えば尻の部分だ。他の尻尾を持つ動物と同じ部分に尻尾のように見える黒いふさふさがある。リィンの黒髪と同じ色の犬耳と、さらに同じ色のふさふさという事は、そういう事なのだろう。クロウは気が遠くなる思いがした。

「マジかよ……こいつも生えてんのか?どれどれ」
「ひぁっ!いっいきなり掴むなよ……!」

むんずと掴みあげれば、リィンは声を上げてあからさまに反応する。やっぱりこっちもきちんと生えているらしい、不思議なものだ。その物珍しさと、意外な手触りの良さと、逃れようとしているのかパタパタ動く尻尾の様が面白くて、そして触れればいちいち反応するリィンを何だかもっと見ていたくて、つい何度も何度も握ったままのふさふさを撫でさすってしまう。今の自分の口元は見なくてもわかる、きっと随分愉快で意地悪そうに笑っているだろう。

「へーえ、ほほーう、なるほどなるほどー」
「ちょ、ちょっと待てっクロウ……!そ、んなに触るな、って!」
「何だよ、どーした?俺はただお前のためにこうやって触って調べてやってるだけだぜ?」
「う、嘘つけっ!絶対面白がってるだけだろっんぅっ」

未知の感覚に身悶えするしかないリィンの姿を、手を動かしながら楽しげに見つめるクロウ。湧き上がってくるのは愉快な気持ちと、もっと熱くてドロドロとした別な何か。さてこの状況をどうしようかねえと考えるのは、リィンを元の姿に戻す方法ではなく、この何だか美味しい状況をよりどれだけ楽しもうかなどという、ひたすら自分のための事なのだから救いようがない。とりあえずはもうちょっと触れてみようかと、尻尾を持つ手と逆の手を持ち上げて。

「んーまだ良く分かんねえなあ、もう一回耳も触ってみっかなあ、ククッ」
「く、クロウ、いい加減に……!っあ、」

「リィン!あれ、クロウの部屋にいるの?声が聞こえたけど、大丈夫?」

そうして突然聞こえた第三者の声に、クロウはぎくりと動きを止めて部屋の入り口を見た。開け放たれたドアの向こう側から、心配そうな顔をしたエリオットがひょっこり顔を覗かせている。その後ろからガイウス、マキアス、ユーシスと次々にZ組男子たちが覗き込んできた。一様にどこか心配そうにしているのは、こんな朝早くに聞こえてきた声が普段は寮の二階全域に響くような大声を上げるような人物ではなかったからだろう。心配顔はすぐに揃って、驚きと困惑に染まっていったが。
しかしそこまで筒抜けになるほどの声を上げさせただろうかと固まりながらも考えるクロウは、すぐに思い至る。ああそうか、リィンが飛び込んできたままだったから、部屋のドアは開けっぱなしだったのか。今更気づいても後の祭りである。それどころじゃないリィンが肩で息をする他は静止した時の中、改めて今の状態を客観的に確認してみる。
二人重なり合ってベッドの上。リィンは何故だかわからないが動物の耳と尻尾らしきものをつえていて、慣れない感覚に頬を赤らめ息も絶え絶え。ぐったりと力の抜けた体を仰向けで受け止めるクロウはその不可思議な耳と尻尾を弄びながら、非常に楽しそうに、意地悪そうに笑っている。
……これは、どうだろう。頑張って好意的に見ようとしても、どうしてもやっぱり異常な状況すぎないか。
心の中でクロウが汗だくになっている内に、固まった面々の中から一番最初に脱出できたらしいユーシスが腕を組み、非常に尊大な態度で一言。

「随分と、特殊なプレイだな」

いや違ぇよ。とつっこみを入れる前に、その一言で全員が我に返り途端に大騒ぎになってしまう。

「きっ君たち!こんな朝っぱらから何をいかがわしい事を!そもそも、僕たちは学生という身分なのだから立場を弁えた行為をだな……いやいや、僕は一体何を言っているんだっ!」
「皆、落ち着け。とりあえず今はリィンを助け出すことが先決じゃないか。どうやら動けない様子だ」
「そっそそそそうだねガイウスの言う通りだよ!リィン、大丈夫?!ほらクロウは早く離れて!」
「退け、このケダモノが」
「ま、待て、色々と誤解だ!いや半分はそうでもねーけど、とにかく誤解……ぎゃーっ!」

アーツやクラフトが繰り出されかねない騒ぎは、第三学生寮がまるでひっくり返ったような騒々しさだったと、のちにご近所さんは語った。





「それで?リィンの体調がこれ以外何も異常が無い事は分かったけど、本当にクロウは何もしていないのよね?」
「ほんとほんと、まだ何も……いやいや、今までもこれからも一切何もしてねえししねえよ、女神に誓って」

騒ぎを聞きつけた三階の女子たちも交えての大パニックの後、何とか落ち着いた全員はとりあえず食堂に集まっていた。シャロンが途中で介入してくれなければ、盛大に勘違いしたアリサがSクラフトを室内で放つ事態になっていたかもしれない。もし居合わせていたら、この騒ぎを鎮静化させていたか逆に面白がって活性化させていたか未知数のサラは、幸か不幸か昨晩から出張中である。もし今日がたまたま自由行動日でなければ、Z組全員揃って大遅刻していた所だ。
じろりとアリサに睨み付けられたクロウは、辛うじて誤解は解いたがリィンのほぼ反対側、テーブルの端っこに座らされている。非常に信用が無い。

「しかし、いくら体調に問題は無くとも、これは……非常に由々しき状態だろう」

いつもは凛としてあまり動じないラウラもさすがに困惑している。いくつもの目の元に晒されたリィンは椅子の上でひどく申し訳なさそうに縮こまっていた。もちろん元気なく垂れ下がる犬の尻尾も耳も健在で、余計に気の毒な姿に見える。ただし先ほどまでの、自分の身体はどうなってしまったんだろうという恐怖に近い動揺は鳴りを潜め、今はただひたすら、皆に迷惑をかけている現状に落ち込んでいるのが大きい様子なのがとてもリィンらしい。こんな時ぐらい自分の心配をしていればいいのにという皆の心の声が重なる中、一人場違いなぐらい楽しそうな声を上げるのはミリアムだった。

「あははっリィンが犬になっちゃった!可愛いねー!ねえねえ、撫でてもいい?」
「どうかやめてくれ……」
「だ、駄目よミリアムちゃん、これ以上リィンさんを困らせちゃ……!」

手を伸ばそうとするミリアムをエマが慌てて止めてくれる。その隣でじっとリィンを見つめるフィーの視線は、もちろん心配も混ざっているがどちらかといえば、どうして猫じゃなかったんだろうという残念がった気持ちの方が大きい気がする。クロウはやっぱり面白そうにニヤニヤ笑ったままだし、余計に惨めな気持ちになってリィンの尻尾がぱたりと揺れた。
そういう好奇の視線も混じってはいるが、大半はきちんとこちらを気遣う気持ちがこもっているのがもちろんわかる。だからこそ申し訳ない。というか本当に何なんだこの耳と尻尾は。色んな気持ちが綯い交ぜとなってしょぼくれるリィンに寄り添うように立っていたエリオットが、気の毒そうにその頭を撫でた。

「リィン……大丈夫だよ、例え動物の耳や尻尾が生えてもリィンはリィンだって事は変わらないんだから」
「ああ……ありがとう、エリオット……。……ん?」
「……あれ?」

優しい言葉と手つきに少しだけ癒されたリィンは、エリオットと同時に気付いていた。はたと視線を合わせて数秒後、エリオットが慌てて飛び退く。

「う、うわあっ?!ごっごめんリィン!僕今、何かごく自然にリィンの頭を撫でてた!」
「い、いや、何故か俺も自然に受け入れてたし……」
「あーっエリオットだけずるいよー!ぼくもリィンを撫でたいーっ!」
「み、ミリアムちゃん!」

エマの制止を振り切って、ミリアムがリィンに飛びつく。くせっ毛頭を掻き抱いて、両手でわしゃわしゃと遠慮なく撫でる、というか混ぜる。非常に乱暴ないきなりの撫で方に、避ける暇も無くリィンは慌てた声を上げる事しか出来ない。

「う、わわっ!みっミリアム……!」
「それそれー、良い子良い子ー!」
「こっこらミリアム、何してるのよ!」
「でもリィン、何か嬉しそう」
「……え?」

止めに入ろうとしたアリサの手が、ぽつりと呟いたフィーの一言によって止まる。皆でまじまじと観察してみると、確かにそのように見えた。声も表情もとても慌てたものであったが、ただ一つ、リィンに新たに増えた体の一部が何だか嬉しそうに自己主張している。
ふさっとした尻尾が、どこか機嫌良さそうに左右に揺れていた。
しばし全員で見つめた後、代表してマキアスが頷いた。

「……た、確かに、そう見えなくもないが」
「うーん、やっぱりあの犬の耳と尻尾のせいなのかな。ほら、犬って撫でると喜ぶし」
「ふん、まんざらでもない、といったところか。普段は何かと撫でる側のようだから、たまにはこいつにとっても良いのかもしれんな」

エリオットとユーシスの言葉に、確かにそうだねと納得する一同。そこで、先ほどから今まで散々撫で倒したミリアムがようやく気が済んだらしく、楽しかったーとリィンから離れた。うめき声を上げるリィンのボサボサ頭を、背後に立っていたガイウスの大きな手が優しく撫ぜて整えてやる。

「あ……えっと、ありがとうガイウス」
「どういたしまして」
「それでその、俺がミリアムに引っ付かれている間にどんな話になったんだ?何か皆さっきまでと様子が違う気が……ってガイウス、いつまでその、そうしているんだ……?!」

リィンの髪が整っても、ガイウスの手は止まらない。さすが弟と妹がいて慣れているのか、傍から見ていてもとても丁寧で優しい撫で方で、だからこそ余計に恥ずかしいのだろうリィンが僅かに頬を赤らめる。その尻尾はさっきよりもより大きく嬉しそうに揺れていて、おまけにずっと伏せていた耳もぴんと元気そうで、ああ気持ち良いんだろうなと見ていて誰もが分かった。
普段そういう欲求を表に出さないクラスメイトが、撫でられる事が嬉しいのだと耳と尻尾で語っている。知らぬ間に全員が顔を見合わせて、頷いていた。

「ううっ何か恥ずかしいんだが……ん?あれ、皆どうしたんだ?な、何で揃ってこっちに迫ってくるんだ?そのわきわきした手は一体……ま、まさか?!やっやめてく……わああっ?!」

まるで戦術リンクが繋がり合っているかのような動きで取り囲まれ、それっと一斉に飛び掛かられたリィンは、沢山の手によってもみくちゃにされた。特に普段から思う所のあったらしい女性陣は、特別色んなものが篭った様子である。一旦撫で終わったはずのミリアムも歓声を上げて再びリィン撫で合戦に参加し、食堂は一時騒然となった。
我先にとリィンを撫でまくる一同と、その中央から聞こえる戸惑った悲鳴に、脇に控えていたシャロンが微笑ましそうに笑う。

「ふふっ、本当に皆さん仲がよろしいですわね」
「あいつら……人にはケダモノだの何だの言いやがったくせして、結局全員で襲い掛かってんだから不平等じゃねえの?」

一人離れた場所から蚊帳の外で頬杖をついていたクロウはもちろんつまらない。せっかくだからこの騒ぎに便乗するか、と席を立ちかけて、ラウラとフィーに見咎められた。

「クロウ、そなたは駄目だ。存在が不健全すぎる」
「なっ?!そりゃどういう意味だよ?!」
「これ以上近づいたら、処刑」

それぞれ殺傷能力の高すぎる獲物に手をかけ、じっとりと睨まれる。この状態での処刑って、死刑以外ねえだろと口元が引きつる。どうやら一番最初にリィンを弄り倒したことが、よほどの怒りを買ってしまったらしい。いやそれとも、普段の素行のせいか。確かに模範になるような先輩とは真逆の位置に自分がいることは自覚しているので、何も言い返せない。
クロウがしぶしぶ椅子に座り直して待つ事数分。ほくほく顔のメンバーが包囲網を解くと、後にはぐったりと虫の息なリィンがテーブルに突っ伏すのみだった。

「な……なんなんだ、いまのは……」
「す、すみませんリィンさん、何故だか無性に撫でなければいけないような気になってしまいまして……」
「しかし、なかなか得がたき体験だった。機会をくれたリィンには感謝しなければならないな」
「ん、グッジョブ」
「コホン。そ、そうね、ほんと、たまには撫でられる方の身にもなってみなさいって事よ。撫で心地もまあ、なかなか良かったわね……」
「そうだな、思ったより柔らかかったし耳もふわふわで……って、違う!僕たちはこんな事をしている場合かっ?!」

一番最初に本題を思い出したのはマキアスだった。全員でこれでもかとリィンを撫でまくって満足していたが、現状はまだ何も解決されていないのだ。

「リィンがどうしてこんな姿になってしまったのか、どうすれば元に戻るのか、それを考えるのが先決じゃないか!」
「ふむ……その通りだ。私としたことが、リィンを撫でるのに夢中になってしまった。修行が足りないな」
「えー?可愛いからこのままでいいじゃーん」
「さすがにいい訳あるか阿呆」
「ああ、どうして耳と尻尾が生えてきたのかっつーのは、やっぱりアレのせいじゃねえの?」
「「えっ?!」」

軽い調子で口を挟んできたクロウを、リィンも含めたZ組全員が驚きの顔で見やる。今まで見た事も聞いた事もないこんな不可思議な症状に、何か心当たりでもあるというのか。当の本人であるリィンが緊張に犬の耳を立てながらクロウに身を乗り出した。

「あ、アレって一体何のことだ?」
「何だ、お前もまだ気づいてなかったのかよ。俺がさっき言ってやっただろ?目が赤みがかってるってよ」
「赤い目……あっ!」

リィンはとっさに自分の胸を押さえた。周りの面々もリィンを見る。見開かれた瞳の色はやはりいつもより赤が強くて、全員があるものを想像した。実際に目にしたのはこの中にいる半数ぐらいだが、どんな姿をしていたかは皆耳にしている。そう、リィンが内なる力を解放するときに変貌する、あの白い髪と赤い瞳の姿だ。髪はやっぱり通常通りの黒髪から変わる事は無いが、いくら瞬きをしてもちらちらと瞬く瞳の赤が消える事は無い。

「確かに以前、リィンが言っていたな。己の中に眠る獣じみた力、と」

腕を組みながらのガイウスの言葉に、リィンが頷いた。己の姿を変えてしまうあの力は、恐ろしく凶暴で本能のままに暴れ回る危険なものだ。まさしく飢えた「獣」と呼ぶのが一番適切のように思える。

「ああ……あの力が目覚める時ほぼ必ず胸の痣が疼くんだが、今はまったくそれが無い。けど、」
「そうね、あなたがその力を獣じみたものと思うのなら、そうなんでしょうし、そう考えるとしっくり来るわ」
「うん。その動物の耳と尻尾は、リィンに眠る獣みたいな力のせい、って事なのかもね」

確かにそう考えると、一応の辻褄は合う。何故生えてきたのか、そのきっかけも分からないが、ほぼ確信と共に全員で頷く。その中からきょとんと、ミリアムが首を傾げた。

「リィンの中にある力って……犬の力なの?」
「……えっ」

リィンの動きが止まった。ミリアムの言う通り、今の仮説が正しければ、リィンに今生えている耳と尻尾はその獣のものだ。そしてこの耳と尻尾は、どう見ても……。

「む、確かにこの耳と尻尾は……犬のものだな」
「ああ、犬だろうな」
「間違いなく犬だね」

追い打ちのように頷かれて、嫌な汗と共にしばらく固まったリィンは、顔を覆って項垂れてしまった。

「い、犬って……今まで散々苦しめられてきたこの力が、犬の力って!俺は犬の力に怯えて今日まで生きてきたっていうのか……!」
「り、リィン落ち着いて!まっまだそうと決まった訳じゃないから!」
「そっそうだぞ、犬に似た別な凶暴な獣なのかもしれないじゃないか!」
「犬に似ている時点でやっぱり情けなさすぎるっ……!」

いくらリィンが肩を落として落ち込んでも、犬のものにしか見えない耳と尻尾は消えてくれない。ずっしりと暗い影を背負ってしまったリィンに、誰も励ます言葉をかけてやれなくて顔を見合わせる。だって、どう見たって犬なんだから否定してやりようもない。そもそもまだその力が原因であると決まった訳でもないのだ。
とにかくこれ以上は考えても仕方のないように思えた。いくら時間が経ってもリィンの姿に変化はないし、話し合った所で答えが導き出せそうもない。それはこの場にいる全員が感じていた事で、もちろんリィンも同様だった。

「……とにかく、今の俺はこの変な耳と尻尾が生えているだけで、暴走する気配もないし異常はなさそうだ。とりあえずしばらく様子を見てみる事にするよ……」

可哀想なぐらいへこたれた姿で、のろのろと顔を上げたリィンがそう言って皆を解散させようとする。これ以上自分の都合で皆の大切な自由行動日の時間を取らせるわけにはいかない、とでも思っているらしい。しかしそう言われたってはいそうですかとこの状態のリィンを一人放り出せるはずもなく、エマがぽんと両手を合わせて提案した。

「今のリィンさんを一人にしてしまうのは心配です。何が起きても対処出来るように、私たちの中から数名で行動するようにしてはどうでしょうか?」
「エマ、いい案だわ!交代で一緒にいるようにすれば、あなたも文句ないわよね?」
「え、で、でも……」

アリサが有無を言わさぬ勢いでリィンに言い聞かせる。戸惑うリィンの頭を、ユーシスが軽く励ますように叩く。

「諦めろ、これは俺たちの意志だ。お前を一人にしておいて、何かあったら目覚めも悪いし、単純に気になる」
「うんうん。僕たちは好きでリィンと一緒にいるんだから、気にしないでいいんだよ」

エリオットがあと一押しすれば、リィンは瞬きをして、皆を見回した。全員が異議なしという笑顔でいることを確認して、ようやくゆっくりと笑みを作る。リィンの今日初めての笑顔だった。

「皆……ありがとう。俺なんかのために……」
「こらっ、その俺なんか、っていうのは禁止よ禁止!」
「ごっごめん」
「それじゃあ、さっそく最初は誰が一緒につくか決めましょう。えっと、アミダくじでも作りましょうか」
「はいはーい!僕が一番最初にリィンと散歩するー!」
「待て、完全な犬扱いはやめたまえ!まったく」

やっと深刻な空気から脱却して、元気な様子でわいわい騒ぎ始めたZ組の面々を見て、クロウはほっと息をついた。いつ姿が戻るのか不明だが、これでリィンが孤立して取り返しのつかない事態になる事は無いだろう。そこまで見守って、満足に席を立った。

「んじゃま、今の所は様子見って事で。お前らあんまりそいつで遊ぶなよー」
「……えっ?クロウ、どこか行くのか?」

そのまま立ち去ろうとしたクロウだったが、驚いたリィンの声に足を止める。つられて向けられる多数の目に、頭を掻いた。

「ん、まあな。今日はお前に近づいたら処刑って言われてるし、これだけボディーガードがいれば足りるだろ」
「で、でも……」

さっきまで皆に囲まれて戸惑いながらも嬉しそうに揺れていた尻尾が、とたんにしゅんと大人しくなる。とても不安げな瞳で見つめられて、クロウは内心勘弁してくれと汗を流した。近づくなと言われたから立ち去ろうとしてるのに、当の本人からこんなに縋り付かれてしまったらどうすればいいのか。そもそもこんなにあからさまに寂しそうな空気を出す奴だったかこいつは。
もしかしたら犬化している事で内面もいつもより素直化しているのかもしれない。露骨に、クロウに行って欲しくない一緒にいて欲しいオーラを出しているリィンを見て、ラウラとフィーもしぶしぶクロウに道を開けてくれた。処刑は免れたらしい。それじゃ遠慮なく、とリィンの前に立ち、さっき出来なかった分を取り戻すようにその頭を撫でた。

「ったく、世話の焼ける後輩わんこだぜ。仕方ねえからお兄さんが一緒にいてやるか」

正直ちょっとした優越感はあった。思えば朝混乱したリィンが一番始めに助けを求めたのもクロウだったし、ちゃんと頼れる先輩ポジションを確立出来ているようだ。同級生には真似できない位置にいる事をふふんと得意げに自慢すれば、羨ましそうな嫉妬の視線がいくつも突き刺さる。それだけでクロウはとりあえず満足だった。
満足だったのに。

「……!うん!」

クロウを見上げた瞳がより一層輝いたのは、多分気のせいじゃない。クロウの手が置かれた頭の両側で嬉しさを隠しきれない耳がぴくぴく動き、尻尾は今まで見た中で一番大きく揺られている。それに何より、元気良く頷いた顔は満面の笑みだった。
リィンは全身で喜んでいた。クロウが一緒にいてくれるという事実に、これほどまで喜びを露わにしている。普段はこうはいかない。例え嬉しくても、それを隠して照れたように笑うだけだっただろう。わんこ化したらこうも変わるものなのか、とクロウは遠い所で思った。

「……ずるい」

ぽつんと誰かが呟いた。はっと我に返ったクロウが周りを見れば、ほぼ全員に睨まれている事に気付く。一人シャロンだけが、ちょっと離れた場所でにこにこと微笑ましそうに笑っていた。いやどっちかというと面白がっていた。助けてくれる気はさらさら無いらしい。絶望と共に、もう一度リィンを見下ろす。
無意識にでも撫でる手は止めていなかったらしい。自分でも驚くぐらい優しい撫で方に、リィンが嬉しそうに目を細める。いつものなかなか素直に喜びを表に出さない姿とのギャップで、なんだかたまらない気分になったクロウはヤケになる事にした。今で針のむしろ状態なのだから、これ以上なんて怖くない。本音を言えばちょっぴり怖いが、でも止まらない。
可愛い後輩にこんなに全身で愛情表現をされて、答えない訳にはいかないのだ。

「よっしゃ、今日一日このわんこはオレ様の独占決定!文句ねえよな後輩?」
「わっ?!く、クロウ……!」

がばっと頭を抱えて抱き締めてやれば、ぶんぶん振られる黒い尻尾。喜んでる喜んでる。誰かの舌打ちがチッと聞こえたのは気のせいだという事にしよう。
もぞもぞと腕の中で頭を動かして、見上げてくる瞳。嬉しさが隠されてない赤の瞬くその眼を見つめ返す。

「クロウ、その……」
「ん?」
「……よろしく、頼む」

さすがに照れて、クロウの胸に顔を押し付けるリィンの姿に、食堂内は嫉妬の炎に包まれる。その炎に身を焼かれながらクロウは。
ああこいつ、本当に俺のものにしちまうか。そんな本音を、辛うじて飲み込むのだった。





黒犬リィン君!





14/01/25


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