あまり知られていない事だが、リィン・シュバルツァーには持病がある。生まれつき持っていた心臓の病で、幼い頃はそのせいで入退院を繰り返していた病弱な子供であった。それをきっと、現在通う高校の級友のほとんどは知らないだろう。わざわざ話す事でもないとリィン自身滅多に語る事がなかったし、数年前の手術を経て現在はだいぶ元気になったリィンはそれなりに体を鍛えていたからだ。もちろんもう二度と病に負ける事が無いようにという想いの元であったが、もう一つとある目標があった事をリィンは誰にも話したことが無い。それはともかく、17歳になったリィンは傍から見れば健やかに成長した健康男児であったし、一度体調を崩せば寝込むことが多いものの自身でしっかりと体調管理をしている事もあって、持病の事は家族やごく一部の人間しか知らない事実なのであった。

「あれ?リィン、今日は部活に行かないの?」

だからそうやって友人のエリオットに尋ねられた時、リィンは少しだけ困ってしまった。真面目に毎日剣道部に顔を出しているリィンの事を知っているからこその疑問だっただろうが、今日は早く帰らなければならない用事があった。病院へ定期検診に通う日だったのだ。日常生活にほぼ支障がないほど回復したとはいえ、数ヶ月に一回の定期検診は欠かさないようにと医者にも家族にも念を押されている。しかしそれを、病気の事は知らない友人に何と説明したら良いだろう。

「ああ、今日はちょっと、家の用事があって」
「リィンが用事で部活を休むのは珍しいな」
「そうでもないだろう。確か数か月前も同じように休んだ日があったはずだ」

傍で聞いていたらしいガイウスとユーシスも話に入ってくる。放課後になった途端そそくさと帰り支度をしていたリィンの姿はそんなにも気になるものだっただろうか。リィンは感心したように指摘してきたユーシスを見た。

「一緒の部活でもないのによく覚えていたな、ユーシス」
「ふん、あの時も今日みたいに何やらこそこそと帰宅していたようだったからな、妙に覚えていた」
「こ、こそこそって、そんなに怪しかったかな、俺」

思わず頬をかく。エリオットとガイウスが同意するように深くうなずいたので、余計に困ってしまった。

「いつも清廉としているリィンだからな、後ろめたそうにしていると常人より目立ってしまうのだろう」
「あはは、リィンって嘘がつけないタイプだよね」

そんなに態度に出ていたのか。リィンは困った気持ちを通り越してだんだんと恥ずかしくなってきた。別に後ろ暗い理由では無いのだが、優しい友人たちに余計な心配を掛けたくないからと過剰に隠そうとしている内心が態度に出てしまっていたのだろう。結果として、不自然な姿を見せてしまった訳だが。

『ったく、お前は本当に嘘つくのが下手だな。……無理すんじゃねえぞ』

ふいに頭の中に馴染んだ声が蘇る。ふわりと、髪に優しい何かが触れたような幻覚も。それはきっと、何度も何度も同じように頭を撫でてもらっているが故の染みついた感触だった。きっとリィンはもうこの感覚を忘れることは無い。「あの人」と出会ってから今まで、それほど繰り返されてきた柔らかな触れ合い。少し体調を崩せば隠そうとしてもすぐに気付いてしまういつもの朱色の目が、心配そうにこちらを見ているような気がした。
と、その時、残る生徒が少なくなった教室に早足で飛び込んできた男子生徒がいた。マキアスだ。チェス部に行かなきゃいけないからと早めに教室を出ていたはずの友人は、どういう訳か随分と急いで戻って来たらしい。肩で息をし、移動途中でずれた眼鏡を直し、こちらを見つけて真っ直ぐリィンの目の前へと歩いてきた。その顔は驚き半分、怒り半分といったところか。

「リィン!まさか君は、怪しい人物と交流している訳じゃあるまいな?!」
「へっ?えっ?」
「ちょ、ちょっと、いきなりどうしたのマキアス」
「わめくなレーグニッツ。順序立てて話せ」

動転した様子でいきなり詰め寄ってきたマキアスだったが、周りにたしなめられてすぐに冷静さを取り戻してくれた。すまない、と素直に謝ってから、改めてリィンを困った顔で見つめてくる。

「その、さっき校門前を偶然通り過ぎたんだが……声を掛けられたんだ、リィン・シュバルツァーを知らないか、と」
「……え、俺……?」
「そうやって声を掛けてきた相手が、見るからに軽薄そうで、チャラチャラしていて、とにかく君とはまったく合わなそうな怪しい男だったんだよ!だから僕は、リィンが変な事に巻き込まれているんじゃないかと思って急いで知らせに戻ってきた訳でだな!」

懸命に説明するマキアスの言葉に、リィンは首を傾げた。軽薄そうで、チャラチャラした男?心当たりがない。辛うじて当てはまりそうな人物といえば……さっき思い出した声と瞳。けれどマキアスが大騒ぎで話す人物とはリィンの中のその人の印象がかけ離れ過ぎている。まさかな、と首を振っている間に横からガイウスが質問した。

「その怪しい男とは、どういった人物だったんだ?」
「ええと、そうだな、随分と印象的だった。銀色の髪に赤い目で、ガイウスより少しだけ身長が低いぐらいのおそらく二十代中頃の男で……」
「っ!」

リィンの脳内で鮮やかに当てはまる色。ああ、きっと「彼」だ。それに気づいた瞬間、リィンは学生鞄を持って教室を飛び出していた。リィンの名を呼ぶ級友たちの慌てた声が聞こえるが、足を止める事も返答する余裕も無く廊下を駆ける。下駄箱でもどかしげに靴を履き替え、すれ違い様にぎょっとする生徒たちの間を縫って、とうとう校門まで辿り着いた。その後ろを必死について来た友人たちも、それを見た。
歳は25,6頃、垂れ目がちの優しい赤紫色の瞳に傾きかけた日の光を鈍く受け止める銀色の髪。マキアスの言った通りだ。Tシャツにジーンズという周りに溢れかえる制服と比べて随分とラフな服装も、校門にもたれかかって通り過ぎる生徒にへらりと笑いかけている様子も、確かに他人から見れば軽薄そうと評されても仕方のない姿だった。内面を知っているリィンにとってはどうしてもそう見えることは無かったが。

「ねえねえっ!あの人かっこよくない?誰を待ってるんだろ、ちょっと聞いて来てよ!」
「えーやだー恥ずかしいー!きっと彼女よ、彼女!一体誰よ、あんなイケメン彼氏捕まえたのは!」
「聞いて聞いてー私さっき笑いかけられちゃったー!」

すぐ傍で校門を遠巻きに見ている女子生徒が何やらキャーキャー言っている。男子と女子とで随分とあの男に対しての印象が違うらしい。他にもちらほらと黄色い声をあげながら様子を窺っている女子たちの姿を見て、リィンの背後の友人たちは怪訝そうな顔を見合わせている。

「すごいねあの人、あれだけ女の子たちに注目されてるのに普通に笑いかけてるだけだし」
「だ、だろう?なんか怪しい奴だろう?」
「ふん、確かにこの上なくうさんくさそうな男だ」
「リィン、あの人は知り合いか?」

尋ねかけられて、リィンは振り返った。その表情を見た友人たちは、何故だかぎょっとしている。不思議に思ったが尋ね返す余裕も無い。

「ああ。悪い皆、俺帰らなきゃ。また明日な」
「え、う、うん、また明日」

軽く手を振って、リィンは迷うことなく校門へ、誰かを待ち続けている男の元へ向かった。近づくリィンに気付いた男が、今まで浮かべていた軽いものとは別な笑顔を口元に乗せて手を挙げた。

「リィン」

その顔も、その声も、まるで聞いている方の耳が溶けだしてしまいそうな、甘さを煮詰めたようなもの。名を呼ばれ、一度跳ね上がった心臓と共にリィンは男の目の前まで駆け寄った。

「クロウ!どうしてここに?」
「どうしてってお前、迎えに来たに決まってんだろ。俺が送ってくって昨日言っといたの、忘れたのか?」
「別に一人で大丈夫だって言ったじゃないか。仕事は?」
「早上がりしてきたから心配すんな。俺がそうしたいんだよ、送らせろって」

男、クロウは、ごく自然な動作でリィンの頭をわしわしと撫でる。昔から変わらないこちらを甘やかす撫で方。さすがに恥ずかしくなって、リィンは頬を赤らめながらむすっとクロウを睨み上げた。振り払う事が出来ないのは許して欲しい、だってどうしても気持ちが良いのだから。

「子供扱いするなってば」
「ん?あー悪い悪い、もう癖になってんだ、これが」

全然悪いと思って無さそうな顔で言葉だけ謝ったクロウは、次にわざとらしく目元を覆ってみせる。

「ああっ撫でれば撫でるだけ無邪気に喜んでいた可愛らしい子供だったリィン君もとうとう反抗期かっお兄さん悲しい!」
「ず、ずっと前の子供の時の事だろ、それ!」
「俺にとってはいつまでも可愛い可愛い弟分って事だよ。なんだ、撫でられるの嫌か?」

言葉通りの慈愛が込められた笑みを向けられて、しかしリィンの心中は限りなく複雑だった。かつてまだリィンがか弱い子供だった頃、何も楽しいことは無いはずだった病院の中で出会った、眩しいほど輝いて見えた青年。憧れのようなその人に向けられる優しさに、温かさに、ただただ無垢に喜んでいられた時代は終わった。今のリィンには多分、それだけじゃ足りない。決して壊さないように、傷つかないようにという真心を込めて触れられるたびに、もどかしい想いが胸の内をじりじりと焦がしていくのだ。
もっと、乱暴に扱ってくれてもいいのに。少しぐらい、傷つけてくれてもいいのに。クロウが思っているほど、リィンはそんなにか弱い子供ではもう無い。何よりも心地よい温度を与えてくれるその手にだったら、身も心も焼き尽くすような熱で火傷したって構わない、のに。
くつくつ煮える密かな想いの言葉を、伝えた事は今まで無い。今日もまた、居心地の良すぎる距離に甘んじて現状を崩す事を恐れている。結局リィンはふてくされながらも首を横に振った。

「嫌じゃ、ない」
「そうか、それならよかったぜ。俺はまだまだこの頭を甘やかす特権を持ったままって事だな!」

お世辞でも何でもない、心から言葉通りの事を喜んでいるのが伝わる笑顔。眩しくて、ほんの少し切なくて、未だ撫でつけてくる手の平から逃げるようにリィンは視線を落とした。

「あんまり甘やかすなよ、クロウ……俺、もう17なんだから」
「まだ17、だろ?まあ、肝に銘じておくぜ。……さて、そろそろ行くぞ、予約に遅れたら不味いからな」

最後にぽんと軽く頭に触れて、クロウの手は離れていった。と、思ったら、とても自然な流れでリィンの手を取り引っ張ってくる。今度はリィンも素直に、繋がった手に引っ張られるままクロウの後をついて歩き出す。二人にとって、こうして手を繋いで移動する事など出会った頃からの習慣のようなものだった。初めてリィンの病気の事を知ったクロウが「病院内でも一人で倒れたりしたらと思うとめっちゃ怖い」などと言って散歩の時は何かあってもいいように必ず一緒に手を繋ぐようにしたことが始まりだった。おかげで人前で撫でられる事に羞恥心を抱くようになったリィンでも、このあたりの事はあまりにも慣れすぎて鈍感になっていたりする。

「今日は車?バイクじゃないのか」
「ああ、あそこに停めておいた。お前な、この間の夜に熱出したばっかりの奴をバイクに乗せられる訳ねえだろ、俺がテオさんに叱られちまう。バイクはまた今度な、今度」
「約束だからな、サイドカーじゃなくて、後ろに乗せてくれよ」
「はいはい、今日なにも異常が無かったらなー」

仲良く手を繋いで校門から去っていく二人は、少なくともリィンはまったく意識していなかった。今までのクロウとのやり取りをすべて、周りの生徒に見られていた事を。背後でぽかんと突っ立っていた友人たちの驚愕の顔の事を。
高い銀髪と低い黒髪二人分の背中が完全に見えなくなってから、静まり返っていた校門前が一気にざわめく。兄弟なのか違うのか、二人は一体どんな関係なのか、熱い憶測が主に女子間で飛び交う中、立ち尽くしていた友人たちは皆、硬い表情を見合わせていたのだった。

「……見た?」
「……ああ、見た……」
「リィンのあんな嬉しそうな顔は、初めて見たな……」
「ほっ本当に一体何者だったんだ、あの男はー!」



大きな手の平の温度にいつも通りほっと安堵を覚えていたリィンには、もう一つ知らない事がある。
リィンが視線を外している間、決して気取られないような僅かな時間。心から歳の離れた友人を慕うその顔を見つめる緋色の瞳の奥に、確かな劣情の炎が一瞬だけ灯る事。上から見下ろせば覗き見れるその項に、何かしらの明確な意図を持って伸ばした手の平を堪えるようにギュッと握りしめる瞬間がある事。
リィンとよく似た、あるいはそれよりも昏い想いをクロウも抱き、躊躇っているという事を。




約束がくれた日常





15/10/22


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