今日はオムレツ記念日



リィンは打ちひしがれていた。場所は第三学生寮の食堂、目の前には皿が一枚と、その上に正体不明の黒い物体。リィンだけがその物体の本来の姿を知っている。信じられない事に、ブスブス物騒な音を立てながら僅かな黒煙を立ち昇らせているこの物体は、食べ物として作られたものだった。その名を、チーズオムレツという。

「はあ……どうして失敗してしまうんだろう……」

Z組の皆が出払っている自由行動日の昼下がり。己の生み出した、少し衝撃を加えれば弾け飛びそうな元卵料理を悲しい瞳で見下ろし、リィンは大きな大きなため息をついた。
別にリィンは料理下手という訳では無い。確かに得意であるとは言い難いが、ある程度の料理は無難に作れる腕を持っているのだ、本来ならば。その証拠に、普通のオムレツなら普通に作れる。可もなく不可もない一般大衆が満遍なく作れるであろう普通に美味しいオムレツが作れるのだ。それなのに、そこにただチーズなどを混ぜようとしたらこうなってしまう。自分でもさっぱり理解できなかった。
理解できなかったから、その謎を解き明かし、苦手を克服しようとこうして誰もいない隙を見計らってチーズオムレツ作りに挑んだわけなのだが。さすがにシャロンには本当の事を打ち明けて、「わたくしが手取り足取り教えて差し上げましょうか」と素敵な提案をしてくださった彼女へ丁重にお断りして、材料を揃えレシピを確認して張り切って臨んだというのに。結果はこれである。原因もさっぱりわからない。普通に作ったはずなのに、いつの間にかこのダークマターが誕生していたのだった。
リィンは妹に寄りつく害虫を見るような目でチーズオムレツだったはずのものを睨み付けた。口元は悔しそうに引き結ばれている。

「どうしてなんだ……俺はまともに料理する事すら出来ないのか……!」
「へーえ、一人で料理してたのか?どれどれ」
「へ?……うわっ!」

突然背後から聞こえてきた声に、リィンは驚いて横に飛び退いていた。今全く気配を感じなかった。気配を読む事には長けているはずのリィンだというのに、よほどチーズオムレツ作りに失敗したことがショックだったのだろうか。自分で自分が信じられなくて、リィンはさらにショックを受けながらも背後に現れた人物を凝視する。リィンの肩越しに覗き込んできていた赤目が、壁になっていた身体が退いた事で興味深そうに身をかがめて観察している。完全に黒焦げなそれの正体を見極めようとしているようだ。

「く、クロウ?!これは、その、」
「……分かった!これからの特別実習に備えて敵にダメージを与えられる新アイテムの研究をしていたんだな?!」
「違う!今料理してたって言ったばかりだろう!そ、そりゃ、これが食べられるものには見えないだろうけどな……!」

怒りと衝撃に震えるリィンの肩を、くつくつ笑いながら大きな手の平で落ち着くように叩くクロウ。どこかに出掛けていて帰ってきたばかりらしい私服の彼は、リィンと料理だったものを交互に眺めながら非常に楽しそうであった。

「ジョーダンだって。向こうに置いてある材料を見るに、作ろうとしていたのはチーズオムレツか?何でもそつなくこなしそうなお前さんがこんな失敗をするとはねえ」
「うっ……悪かったな……」
「いや?完璧超人より苦手なもんがあった方がずっと好感が持てると思うぜ?リィン君は可愛い可愛い」
「フォローに聞こえない!」

ぽんぽん頭を撫でてくる手を払いのける。おお恐い、とちっとも恐く思って無さそうなクロウに、リィンは俯いた。さらなる追撃を恐れたためだ。このお調子者の元先輩が、こんな面白いネタをこれで終わらせる訳がない。からかってからかって、リィンがやめてくれとギブアップするまでからかいまくるに違いない。せめて他の皆には言いふらしたりしないでくれと頼み込もうという決意を胸に、リィンは断罪の時を待った。
しかし予想をしていた声は何一つ落ちてくる事は無く、代わりに聞こえてきたのはフッと漏れた柔らかい息をつく音だけであった。

「ったく、仕方のねえやつ。……おら、良い子でお座りして待ってろ」
「えっ?」

半ば強引に食堂の椅子を引いてリィンを座らせると、クロウは厨房へ入っていった。手を洗って、まだまだ余っているチーズオムレツの材料の前に立ってよし、と一息。卵を片手で器用に割ってボウルに入れた所で、リィンにもクロウがなにをしようとしているのかが分かった。

「クロウが、作ってくれるのか?チーズオムレツ」
「まーちょうど昼飯時だしな」

よどみない手つきで卵を溶くクロウの意外にも手慣れた動きに、リィンは目が釘付けになった。座ってろと言われた事も忘れて背伸びをして身を乗り出す。一度だけ振り返った朱の瞳が、真剣に見守るリィンの様子に笑った。そこから手が止まることは無かった。
まるで魔法のようだ、とリィンは思った。流れるような動きで溶いた卵をフライパンに流し入れ、チーズを放り込み、表面が固まりきらないように卵をかき寄せて、フライパンを持ってとんとんと形を整える。一連の動作が全てお手本のようにゆっくりと綺麗にリィンの目の前で展開する。もしかしたら本当に、リィンがしっかりと視線でなぞれるように作ってくれたのかもしれない。器用なクロウだったらそんな事も可能だと思えた。
フライパンを芝居がかった動きで手に持った皿に傾けて、クロウの調理はあっという間に完了した。リィンがぽかんと口を開けている間に、美味しそうな匂いを漂わせるとろとろのチーズオムレツが完成したのだ。クロウは鼻歌交じりにケチャップを手に取り、出来立てのオムレツの上に赤を飾りたてていく。リィンの位置からはケチャップでどんな模様が描かれているのか判別がつかない。やけに時間が掛かるな、と思っている内に満足のいく出来になったようで、クロウがオムレツの乗った皿を持ってやってきた。

「ほい、クロウ様特製チーズオムレツの出来上がりーっと!」
「す、すごい……クロウ、もしかしてチーズオムレツを作るプロなのか?」
「何だそりゃ。昔朝食なんかに何回か作った事があるだけだって。………」

目をパチパチ瞬かせるリィンに笑ってみせたクロウは。一瞬だけふと遠くを見た。今まで感動さえ覚えていたリィンをケチャップよりもあたたかな赤い瞳で眺めていたのに、その視線は一瞬で途方もない場所を見つめているようだった。リィンの胸がざわりと微かに騒ぐ。クロウはどこを見ているのか。尋ねる間もなく、そんな視線など存在しなかったかのような笑顔で顔面を覆ってしまった。

「まあプロにも近い腕前を持つオレ様でも最初は失敗続きだったさ。お前もそのうち食えるもんが……あーいや、美味いやつが作れるようになる、自信持てって」
「……いいよ、明らかに口に入れてはいけないものを作ったのは確かなんだから……」

変に気を遣われたら逆に辛い。肩を落としながらリィンはそっとクロウを仰ぎ見た。視線を受けて首を傾げるクロウはいつものクロウだ。先ほどの胸がざわつく違和感はとりあえず置いておくことにする。今最も気にしなければならないものは、目の前で湯気を立てて鎮座する黄金色のふわふわ卵料理だ。

「食べていいのか?」
「そのために作ったんだろうが。遠慮せずにたーんと召し上がれよ青少年。あ、ちなみに隠し味にはオレ様の愛情がたっぷり詰まってまーす☆」

ウインクひとつぱちんと決めて、ナイフとフォークを揃えて置いたクロウは厨房へ戻っていった。もう一個卵を取り出したところを見ると自分の分を作るつもりなのだろう。お言葉に甘えて有難くチーズオムレツを頂く事にしたリィンは、ナイフとフォークを手に笑みを浮かべてテーブルへと向き直った。
そこで初めて、チーズオムレツの表面に描かれたケチャップの軌跡をしっかりと目にする事となる。

「………、えっ」

注目する点は二つ。まずは中央にどんと描かれた『Rean』の赤い文字。ケチャップで直接さらっと描かれたとは思えないほど整った字体が、オムレツの上に綺麗に並んでいる。まあ、これは良い。オムレツの表面にこうやってケチャップで名前を描くのは大変ポピュラーな習慣だとリィンにも分かっている。問題はその左右に飾られたファンシーな赤い模様である。ハートだ。可愛らしいハートがリィンの名前を挟み込んで輝いている。リィンは固まった。ついでに赤面した。もしかしたらハートを描くのも一般的に普及しているものなのかもしれない。但しそれは絶対、いわゆる恋人同士とかラブラブな夫婦間でしか存在し得ないもので。
チーズオムレツの表面を食い入るように見つめて動けないリィンの耳に、ぶはっと吹き出す声が届いた。ぎこちなく首を巡らせば、厨房で肩を震わせる背中が見える。漏れ聞こえる震える声は、明らかに笑っていた。

「くっくくっお前っ反応良すぎ!言ったろ、隠し味はたーっぷり入ったオレ様の愛情ってな!」
「だ、だって、これっ、隠れてないし……!く、クロウ!!」

笑うな!と真っ赤な顔でリィンが怒鳴れば怒鳴るほど、クロウの笑いは大きくなる。結局クロウが笑いを収めて自分のチーズオムレツを作り終えるまで律儀に待っている間に、リィンのハート付きチーズオムレツは少しだけ冷めてしまったのだった。





「ううっ美味しい……見てろよクロウ、俺も修行して食べられるだけじゃなくちゃんと美味しいチーズオムレツを作れるようになって、ケチャップで名前描いて、お前に食べさせてやるからな……!」

覚悟してろよ、とチーズオムレツを美味しそうにもぐもぐ咀嚼してからのリィンのその言葉が。

「……ククッ、まあ期待しないで待ってるぜ」

きっと、叶えられる日は来ないだろうと予感していたのは、向かい合わせで座る二人のうちの笑顔の一人だけであった。









15/10/22


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