※いままでのあらすじ
大昔から湖上に聳え立つ大きな霧の城、そこに生贄として連れてこられたクロウ齢10歳は枷をつけられ、棺桶のような箱に入れられてしまう。そこで果てるのを待つばかりかと思っていたその時、突然箱が揺れてクロウは外に投げ出され、自由の身となった。生まれた時から身体能力が常人より並外れていたクロウは、持ち前の負けん気の強さも発揮して城からの脱出を試みる。その途中、高い高い塔の上、宙に吊るされた檻の中にうずくまる人影を発見したのだった。
「おーい!そこのやつ、生きてるか?」
塔の内壁にぐるぐる伸びる螺旋階段を登り、天井から宙吊りになった檻と同じ高さまでようやく辿り着いたクロウが大声で呼びかける。返事はなかった。しかし檻の中で膝を抱えてぎゅっとうずくまっているその人は、どうやら生きているらしい。癖の強い黒髪が、ボロボロの塔に空いた穴から通る風にどれだけ靡いても、抱えた膝に埋まった顔は上げられることは無かった。困ったクロウは、とりあえず檻を下に降ろしてやることにする。捕まっているらしいその人を無視して先に進もうという気持ちは、最初から微塵も無かった。
塔の中をあちこち見回って、何とか檻を吊るしてある鎖を発見し、徐々に下降させようと仕掛けを動かしたクロウだったが。さび付いていたのか仕掛けの不具合か、途中で檻の動きは止まってしまう。ムッとして、衝撃を加えれば再び動き出すかな、と思いついて、勢いよく檻の上に飛び乗ってみた。効果はてきめんだった。むしろ効果がありすぎた。がくんとクロウを受け止めた檻は、一気に地上へと落下してしまったのだった。大きな音を立てて床にぶつかる檻、歪んで傾いで、その拍子に入口が開いてくれたのは幸いだった。ついでにクロウが普通の子供よりも遥かに丈夫であった事もとても幸いだった。檻の上から投げ出されたクロウは地面をごろごろ転がり、頭やお尻をしこたまぶつけまくってしまったのだった。
「い、ってて……!くそ、やりやがった、な……」
床に大の字に転がって、何とか起き上がり、腹いせに檻の方を睨み付けようとしたクロウだったが、言葉は途中で止まってしまう。檻の中から這い出した人物が、壁の隙間から差し込む日の光の中に真っ直ぐ立っていたからだ。簡素な白い服を身に纏っただけのその人は、辺りをゆっくり見回して、そしてクロウを見た。視線が、合う。
その時の衝撃を、クロウは忘れることは無いだろう。全体的にほっそりとしたシルエットと、その身に漂う儚げな雰囲気とは一線を画した、意志の宿った薄紫の瞳。どちらかといえば青が強いだろうか、照らす光の角度によって微かに色を変えるその瞳は、まだ尻餅をついたままのクロウを真っ直ぐに貫いた。まだ幼いクロウの脳みそには複雑な語彙や表現力は備わっていなかったが、だからこそごくシンプルな感想が頭の中を占めて、それでいっぱいになる。
囚われた檻から抜け出したその青年は、ただひたすら、美しかった。
時が止まったような錯覚。クロウの時間を正常に戻したのは、ぺたりと裸足の足でこちらへと踏み込んだ、目の前の青年だった。はっと我に返っている内に、青年はゆっくりと歩み寄ってくる。クロウは立ち上がる事も出来ずに思わず後ろに後ずさった。
「お、お前、一体何なんだ?!何であんなところに閉じ込められてたんだよ!」
距離を取りながら疑問に思っていた事をぶつけてみるが、青年は一度だけ足を止めたのち、首を傾げてみせただけだった。聞こえなかった、訳では無いはずだ、クロウの声は決して小さい方では無い。耳が聞こえないのか、と疑い始めたクロウの目の前に、再び足を動かした青年がとうとうやってくる。しゃがみ込んで、ぽかんと見上げるクロウと視線を合わせた青年は、腕を上げて白い指をクロウへと伸ばしてきた。
「――――?」
眉を心配そうに潜ませて、敵意のない柔らかい瞳でこちらを見つめながら青年が発したその言葉を、クロウは理解する事が出来なかった。聞いた事のない発音、何か言葉を喋っているらしい事だけは分かるが、意味を読み取る事は出来ない。自分が使う言葉と青年が使う言葉はおそらく違うのだと、そこでハッと気が付いた。
ただ、言葉を理解出来なくても何と言っているのか、ある程度推測は出来た。青年の表情が語りかけていた。きっと彼は、クロウの心配をしている。怪我は無いかと、それからもしかしたらどうしてここにいるのかとか、そういった言葉を口にしている。クロウだけを映し込んだ薄紫は、ただひたすらにこちらを案じていた。クロウはもう後ずされない。背中に物理的な壁が迫っている訳では無く、この強くて柔らかな視線に絡め取られて、身動きが取れなくなってしまったのだ。
クロウへと伸ばされた指が、頬へと触れるその前に。青年の姿は突然クロウの前から奪われてしまう。はっと見上げた先にあったのは、漆黒であった。まるで古めかしい城の隅にこびり付いていた大昔の闇が抜け出てきたかのような真っ黒な影が、青年を捕まえて抱え上げていた。影は大きな人の形をしていた。青年は必死にもがいているが、離される様子は無い。影はクロウには見向きもしないまま、青年を連れて移動する。その先にあったのは……真っ暗闇がうずまる恐ろしい穴。いつの間に現れたのだろう、この大きな吹き抜けの部屋の隅に、闇が噴き出す大きな穴が床にぽっかりと空いていたのだった。さっきまでは無かったはずなのに。
クロウは影が青年をあの穴の中へ引きずり込もうとしているのだと思った。そしてそれは正解だった。
「っ待ちやがれ!」
体中に散らばっていたあちこちぶつけた痛みなど、一瞬のうちに忘れ去っていた。飛び上がってしっかりと地面に立ったクロウは、飛ぶような勢いで青年の元へと駆け寄る。懸命に腕を伸ばして、大きな人の影ごと穴の中へ飲み込まれようとしていた青年の腕を、間一髪掴み取る。クロウは渾身の力を振り絞って、青年を穴の中から引っ張り上げた。
「はーっ、はーっ……!ま、間に合った……!おいあんた、大丈夫か?」
「……――、――――……」
肩で息をしながら尋ねかければ、同じように息を弾ませる青年も何事か言葉を返す。へたり込んだ姿勢のまま傍に立つクロウを見上げて、淡く微笑んでみせたその表情を見れば、大丈夫だとか、ありがとうとか言われているのはよく分かった。直接理解の出来る言葉を交わした訳でもないくせに照れくさくなったクロウは、しかし憎まれ口を叩く暇も無い。ハッと周囲に視線を走らせて、表情をこわばらせる。
二人の周りには、大小さまざまな影が取り囲んで迫っていた。よく見ればあの穴の中から次々と這い出てきている。青年をあの穴へ誘うために、これだけの闇が襲い掛かろうとしている。得体の知れない暗闇が立ちはだかり、逃げ場のない状況でも、しかしクロウの心に恐れはやって来なかった。むしろどんどん溢れんばかりの力が湧き出てくる。隣で不安そうに影を見つめる青年のおかげであった。
この青年を、守ってやらなければ。クロウの頭にはそれしか浮かんでいなかった。一人で逃げる事も、青年を差し出す事も、一切考えていない。影たちにその身を狙われる儚くも美しいこの青年を、自分が守ってやらなければという決意でみなぎっていた。
ちょうど足元に転がっていた手ごろな棒切れを手に取り、武器代わりとする。隣から青年の慌てたような声が聞こえるが、それを無視してクロウは飛び掛かってきた一匹の影に棒を叩きつけた。
「おらぁ!あっちへ行きやがれ!」
直撃した影が散り散りになり宙に溶けて消える。しかしまだまだ、辺りを囲む影たちはたっぷり存在している。棒を振り回して前ばかりを注意していると、隙をついて横から小さい影に飛び掛かられてしまうので油断が出来なかった。
「くっそ、こいつら、卑怯だぞ!大勢で向かってきやがって!」
苛立ち交じりに叫ぶが、影がそれで遠慮するわけがない。飛びかかってくる影を次々と打ち倒していくクロウだったが、その背後に二回りも大きい影が迫っている事に気付いていなかった。クロウがそいつの存在を知ったのは、暖かな腕に抱きしめられ、守られた後の事であった。
「わぷっ?!い、一体なにが、ってあんた……!」
「―――!―――……!」
ぎゅっと抱きしめられて、一瞬安心してしまったクロウだがすぐに慌てて顔を上げる。いつの間にか立ち上がっていた青年が、クロウを引き寄せて影からの攻撃から救ってくれたのだ。礼を言おうと青年の顔を見上げたクロウは、そのまま驚きに固まってしまっていた。
青年の表情が、一変している。さっきまでのどこか頼りない儚げな笑みはどこかへ消えて、ただひたすら影たちを睨み付けている。青年は怒っていた。それはどうやら、クロウが攻撃されたためのようだ。さっき自分が攫われかけた時は少しも怒らなかったくせに。あっけに取られるクロウの手から、するりと棒切れが抜き取られた。
「――――!!」
何事かを影たちへ向けて叫んだ青年は、棒切れを構えて駆け出した。一度脇に添え、振り抜くように棒を閃かせるその動きは目にも止まらぬ速さだ。先ほどのクロウの振り回す攻撃とはけた違いの一撃が影たちを薙いでいく。青年は強かった。全身がバネで出来ているのではないかと思わせるほどの伸びやかさで、影たちの間を縫ってはちっぽけな棒切れ一本をまるで剣のように鋭く振り、闇の身体を切り裂いていった。
クロウは全てを見つめていた。戦う青年は美しかった。光の中にぼんやりと立つ、守ってやりたいような姿も美しかったが、闘志が炎となって内から湧き上がるかのような生命力にあふれる青年もまた、キラキラと輝いて見えた。ごくり、とクロウの喉が鳴る。一体何の緊張だったのか、胸を突いたこのたまらない衝動は何だったのか、幼いクロウにはまだ分からない。
やがて恐るべき影は部屋のどこにもいなくなった。床に空いた闇の穴は、ぶすぶすと黒煙を吹いて縮んでいき、やがて跡形も無く消えてしまう。戦いが終わったのだ。部屋の中をざっと見渡した青年は、ふうと息をついて安堵したようだった。その後、クロウを見てくる。
「―――? ――、―――」
クロウの目の前までやってきた青年が、心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞳から怒りは消えていた。優しく包み込むような薄紫がクロウに向けられている。おそらく、大丈夫かと聞かれているのだろう。クロウは我に返り、どんと自分の胸を叩いてみせた。
「だ、大丈夫に決まってんだろ!あんたこそ大丈夫なのかよ、いきなりあんまり暴れまわったりしてよ」
きっと、クロウの言葉を青年も理解は出来ていないに違いない。それでも意味だけは伝わったのか、青年はにっこり笑顔で自分の身体をぱたぱたと叩いてみせた。大丈夫だというアピールだろう。確かに怪我などはしていないようだったので、クロウも安心して息を吐いた。
「それにしても、さっきのアレはなんなんだよ……あんたの事狙ってんのか?」
薄気味悪そうにあたりを見回しながら尋ねてみるが、もちろん通じる訳がない。それでもクロウが先ほどの影たちを気にしている事は伝わったようで、青年は申し訳なさそうに眉を下げた。もしかしたら自分が狙われる理由が分かっているのかもしれない。きっとクロウにその答えを伝える術はないのだろうが。しゅんと肩を落としてしまった青年に、クロウは頭を掻いて、そして、
「まあいいか。とりあえずこの城を出ようぜ、色々考えんのはその後だ」
手を、差し出した。青年が目を丸くしてクロウを凝視する。何故驚かれるのかさっぱり分からないクロウは、首を傾げた。
「どした?早く行くぞ、もうあんな影に襲われるのはごめんだからな」
クロウはいくら青年が躊躇うそぶりを見せても手をひっこめなかった。ただひたすらに手の平を差し出して、掴むように促し続ける。さっきの影は青年を捕まえようとしていた。ならば手を繋いでいれば、不用意に離れて危ない目に合う事もないだろうと思ったのだ。クロウは未だ、自分が青年を守ってやらねばと思っている。さっきは青年に助けられてしまったが、それでも。
青年がクロウを守ってくれるなら、青年を守るのはクロウの役目だ。
「おーい。早くしろってば」
クロウは俯く青年の顔を覗き込んで、そして少しだけびっくりした。今、青年の顔が、泣きそうに歪んで見えたからだ。
「………、――、―――?」
ぽつりと落ちた青年の声。やっぱり何を言っているのか、さっぱり分からないけれど、クロウには分かった。だから思いっ切り、ニッと、笑いかけてやる。
「いいに決まってんだろ?まず俺が助けてやったんだから。……ほら、一緒に行こうぜ」
青年にも、クロウの言葉の意味が通じただろうか。
きゅっと眉を困ったように寄せながらも、口元を緩く笑みにしならせながら、青年の腕が持ち上がる。そうして掴んだ自分よりも大きな手の平が、クロウはどういう訳だか、何よりも愛しいもののように思えた。先ほど胸に灯した誓いをもう一度、改めて胸の内で呟く。
こいつはオレが守ってやらなければ。この得体のしれない城を共に脱出するその時まで、この手のぬくもりを守り抜いてみせなければ。
名も知らぬ、言葉も通じぬ青年を見上げて、クロウは繋いだ手の平をぎゅっと、握りしめた。
CROW
この人の手を離さない。オレの魂ごと離してしまう気がするから。
15/10/22
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