クロウが右足に不格好なギブスをつけ、むすっと不機嫌そうにベッドへ横たわる姿を、友人たちは薄情な事に面白おかしそうな笑顔で見舞ってきた。ジョルジュはにこにこと、アンゼリカは吹き出すのを堪えているようなニヤニヤ笑いで。トワはさすがに心配そうな色を滲ませた表情をしているが、その口元は微笑ましそうな笑顔なのである。クロウがますます不機嫌になるのも仕方のない事だろう。

「フフフ、ざまあないなクロウ。まさかバイク乗りがバイクに押しつぶされて足を骨折だなんて」
「うるせえ」
「クロウなら骨折なんて事にはならずにもっと器用に潰されそうだけどねえ。とっさの事だったし、今回は仕方ないのかな」
「うるせえよ」
「もう二人とも、クロウ君はあの女の子を助けるために庇って骨折しちゃったんだから、笑っちゃだめだよ。クロウ君、立派だったね」
「うるせえっつーの」

口々に何か言われても不機嫌さが加速するのは、最初のアンゼリカとジョルジュの言葉が図星で情けないため、最後のトワの言葉が照れくさかったためだ。クロウはギブスでがっちり固定された己の右足を眺めて、舌打ちしたくなるのを必死で堪えた。
三人の言っている事は全て真実である。先日ちょうど四人で遊びに出ていた時の事、店先に停められていた大きなバイクに小さな女の子が近寄った途端、ぐらついて倒れ掛かる所に出くわしたのだ。よほど不安定な停め方をしていたのだろう、大型バイクなんかに潰されたら幼い子供は大怪我を負ってしまう。とっさに飛び出したクロウが驚いて固まっていた女の子を身を挺して庇った際、足が下敷きになって骨折してしまった、という訳だ。自分でもまさか骨を折るとは思っていなかったので、まったく予想外の入院となってしまった。その情けなさのためのぶっきらぼうな対応だった。
ただ一つだけ言い添えたい事がある。確かにクロウはバイクに乗るが、倒れてきた件のバイクはクロウのものでは無かったという事だ。バイクが倒れた時の危険など分かりきっているので、あんな勝手に倒れるような不十分な停め方は決してしない。それを分かっているくせにあえてぼかすような言い方をするアンゼリカを、クロウは恨みがましく睨み付けた。もちろん効いている訳がない。

「クロウ君ったら照れなくてもいいんだよ、これは誇れる事なんだからねっ!あの女の子も無傷で助かったし、親御さんたちもとても感謝してたじゃない」

何故か我が事のように誇らしげに胸を張るトワを見て、クロウも思い出す。クロウが助けた長い黒髪の女の子は、その両手いっぱいに色鮮やかな花束を抱えていたので大変印象に残っていたのだ。お祝い事か、お見舞いか、きっと誰かにプレゼントするものだったのだろう。大事そうに抱えて、手元ばかりを見つめていたから、不用意にバイクへ近づいてしまったのだ。クロウもあの子危なっかしいなと注意していたからこそ間一髪で助けられたのだった。突然の事態に目を丸くしてクロウを凝視していた女の子と、それでも絶対に離さなかった花束が脳裏に浮かぶ。どちらも傷つく事がなくてよかったと思う。
直後に飛んできた両親は我が子から目を離した事への詫びと、助けてもらった事への感謝の言葉を何度も何度も頭を下げて伝えてきた。このままじゃ無理矢理謝礼として金を握らされそうだったので痛む足を必死に我慢し、礼はいいからと何度も断ってクロウはその場からこの友人たちと逃げ出した。そのまま自分の足で病院を受診した結果、めでたく骨折していた事が分かりこうして入院する羽目となってしまったのである。助けたこと自体を後悔してはいないが、もうちょっとうまく立ち回れる事が出来ていればと悔しくてならない。普段から運動神経を自慢してきているがために、余計に。

「まったく、早く退院してくれないとこちらは暇で暇でしょうがないよ。クロウ、さっさと足を治してくれよ、私とのツーリングの約束を果たすために」
「お前は自分の都合だけじゃなくて少しは労わりの言葉でも掛けられねえのかよ!この薄情女!」
「はは、これはアンなりの労わりの言葉なんだよクロウ。僕たちみんな、これでも本当に心配していたんだからね」
「うんうん、そうだよ。私もアンちゃんもジョルジュ君も、クロウ君が早く退院出来ますようにって心からお祈りしておくからね」

見舞い品にフルーツや花、それに暇つぶしに本や漫画を持ってきてくれた友人たちは、それからしばらく会話してすぐに帰ってしまった。入院している部屋が四人部屋なので周りの患者に配慮しての事だ。たちまち静かになったベッド上で、しばらくぼおっと天井を眺めていたクロウは。

「……散歩いくか」

むくりと起き上がり、松葉杖を手に取った。どうしても大人しく寝ておく気が起きなかったのだ。





初めて使う松葉杖にはまだ慣れない。何せ使い出したのが昨日の事だ。えっちらおっちらとゆっくり病棟内を移動しクロウが辿り着いたのは中庭だった。入院患者や見舞いに来た家族がくつろげるように綺麗に整えられた緑溢れる景色と美しい花たちの並ぶ花壇は、確かにこうやって眺めているだけで癒される。どこかで缶ジュースでも買って落ち着くかと自販機を探して辺りを見回したクロウは、ハッと一点を見つめて思わず動きを止めていた。
見えたのは、ぴょんと跳ねるくせ毛の黒髪頭と、頭上を見上げる小さな横顔だった。人々が穏やかに行き交う中庭の隅っこ、誰にも気づかれないようにひっそりと立ち尽くすパジャマの幼い姿がある。歳はおそらく、10歳前後。癒しの光を与える緑にも目を楽しませる色とりどりの花々にも目をくれる事無く、ただひたすら頭上に開けた空を見上げる大きな薄紫の瞳。ぱちりと瞬かれるタイミングが緩慢なのはそれほど集中して晴れた青を覗いているからというより、ただひたすらぼんやりと空を通して何かを見つめているからか。クロウにはそれが、まるで途方に暮れているような姿に見えた。およそ小さな子供が浮かべるべきではない表情だと思った。
足の痛みも何もかもをその一瞬だけは忘れ去って、クロウは子供が空をただ仰ぐその光景に見入った。何故だか、心に強烈に引っかかった。あの見知らぬ子供を無視してはおけないという使命感めいた想いが沸き上がってきたのだ。だがしかし、どうすればいい。いきなり声を掛けるのか、どうやって?何を言えばいい?面識のない人間にいきなり声を掛けられても子供は怯えるだけだろうに。自分でも訳の分からない想いに囚われたクロウは、手元と足元が疎かにならざるを得なかった。

「っどわっ!!」

結果、松葉杖を思いっきり躓かせてしまい、情けなく地面に転がってしまった。ちょうどふかふかの芝生の上でよかった。下手にこけて骨折した足をさらに痛める事態になったりでもしたら目も当てられない。しかもこんな何もない地面の上で。まず間違いなくアンゼリカには爆笑され、ジョルジュには呆れたように微笑まれ、トワには無理しちゃダメーとぷんすか怒られるだろう。まず医者に怒られる。
うつ伏せの状態からごろりと仰向けに転がり、立ち上がる前にクロウは空を見上げた。ちょっとした現実逃避だった。ああ、空が青い。早くこんな不便な足を治してどこにでも駆けて行きたい。そんなぼんやりとした視界に、ひょっこりと、幼い顔が現れた。

「あの……だいじょうぶ、ですか?」

さっきまで空に釘付けとなっていた大きなまるい薄紫が、地面に倒れるクロウを見下ろしている。薄紫に混ざるようにうっすらと青みがかっているその瞳は、まるで見上げ過ぎた結果空の色が写し取られてしまったかのようだ。純真さを体現しているかのような瞳でまっすぐ正面から見下ろされて、正直、言葉を失くすほど驚いたし、向けられた色が美しいと思った。おかげで返事するのを忘れてしまった。

「足、いたいですか?せ、先生よんできたほうが……!」

クロウがぽかんと見上げたままいつまでも返事をしないので、覗き込んでいた子供の顔は戸惑いからくしゃりと一気に心配そうに歪められる。ぺた、と小さな手の平がクロウの大きなギブスに触れた。どうやら足を痛めて起きられないのだと思ったらしい。勝手に一人でこけて医者を呼ばれたなんて事態にでもなったらさらに恥ずかしすぎる。クロウは慌てて首を持ち上げて、今にも駆け出しそうな子供の腕を掴んだ。

「ま、待った待った!平気だっての!ちょっと休憩してただけだって!」
「?きゅうけい?」
「そうそう、立ち上がる前の休憩。だから誰も呼ぶな、頼む、この通り!」

周りを見回せば、幸い近くにはこの子供以外誰もいなかったらしく、他に注目する視線は無かった。運が良い。クロウが転がったまま手を合わせれば、目を丸くしながらも子供は頷いてくれた。それを確認して、とりあえず上半身をよっこいしょと起こす。あとは何とか右足に負担をかけないように立ちあがるだけ……。
と、そこで目の前に、頼りなさげな手の平が差し出された。え、とあっけにとられて視線で手の平から腕、肩、顔と辿れば……もちろんそこには、先ほどから傍に立っている子供の顔があった。どこか強い決意に満ち満ちている眩しい表情だった。

「どうぞ!」

しかもこの勇ましい声。少しだけ考えたクロウは、すぐに答えに辿り着く事が出来た。つまりこの子供は、掴まれと言っているのだ。クロウの体重の半分ぐらいしかなさそうなこの小さな子供が、クロウを引っ張って立ち上がらせようとしているのである。しかも躊躇いなど微塵も見当たらない。自分がクロウを引っ張ってみせるのだと、それが出来るのだと信じ切っているらしい。そもそも身長が足りないくせに。健康的とは言い難い細い腕がクロウの目の前に差し出され続けている。初対面でろくに言葉も交わしていない子供相手だが、思わず呆れた。

「お前な……いいって、自分で立ちあがるから」
「でも、その足、いたくないですか?」
「お前に体重かけて押しつぶしちまうかもしれねえ方がこええの。そんなに痛くねえし、お兄さん舐めんなよ!」

子供の手を丁寧にどかし、クロウは傍に放り投げてあった松葉杖を一本手に持って、それを支えに左足だけで勢いよく立ちあがった。おおー、と脇から子供の驚く声が聞こえる。ちょっと得意な気分になった。
そのまま左足だけでけんけんと移動し、近くにあったベンチへ向かい腰を下ろす。どさりと身を預け、やれやれ、と深い深い安堵の溜息を零した。とりあえず、みっともない状態から脱出する事が出来てよかった。しばらくはこの足と付き合っていかなければならないのだから、早い所慣れてしまいたい。落とした視線を上にあげると、もう一本地面に置き忘れてきた長い松葉杖を、子供がよいしょよいしょと引っ張って持ってきてくれた所だった。なんて律義な奴なのだろう。

「これ、どうぞっ」
「おー悪いな、サンクス」
「いえ、おれ、他にできることなかったですし……」

何故かしゅんと、落ち込むように肩を落とす黒髪頭。その頭を、クロウは苦笑しながらわしわしと撫でてやった。

「なんでお前が落ち込んでんだよ、俺が勝手に転んで勝手に起き上がっただけだろうが」
「でも……」
「これ、拾ってくれて助かったって。あとは、まあ、一人で転んだだけの奴を心配してくれて嬉しかったしな?」

ぱちんとウインクを一つかましてやれば、大きな瞳を瞬きさせてみせた子供は頭にクロウの手の平を乗っけたまま、頬を染めて嬉しそうにはにかんだ。きっと普段からお人よしで控えめな子なのだろう、いじらしい喜び方に見ているこちらまで笑顔が零れてしまう。子供から手を放して、クロウは穏やかな気持ちで空を仰いだ。さっきまでの骨折した足に対してのどうしようもないもどかしい思いだとか、一人でこけた事に対する恥ずかしさや苛立ちだとかは、まるで心から全て吸い出されてしまったかのように消えてしまった。もじもじと目の前に立つこの一人の小さな子供とわずかに会話をしただけで、だ。子供というのはかくも不思議な力を持つ癒し動物だったのか、もしくはこの子が特別マイナスイオン的な何かを放っているのか。気晴らしに中庭に出てきてよかったと、クロウは素直にそう思えた。
落ちる沈黙。頬を撫でる微風に目を細めて、クロウはしばらく動かなかった。正確に言えば、待っていた。このまま立ち去るだろうと思っていた子供が、何やら落ち着かない様子でクロウの前に立ったまま動かないからだ。どうやら何かまだ用があるらしい。あるらしいが、なかなか言い出せないようだ。偶然ここで出会っただけの人間に一体どんな用があるのかはさっぱりわからないが、ちらちらと寄越される薄紫の熱い視線が気になって気になって、少々居心地が悪い。

「……なあ」

とうとう耐えかねて声を掛ければ、子供はびくっと飛び上がった。大袈裟な反応に笑いながらポケットをまさぐる。記憶通りの小銭がそこに入っていた。よしよしと頷いて、クロウの言葉を待つ子供へ視線を向ける。

「お前、名前は?」
「へ……」
「俺はクロウ、ちょいとヘマをやらかしてこのザマだが、いつもは運動神経抜群なナイスガイだ!んで、お前は?」

突然始まった自己紹介に目を白黒させながらも、子供はおっかなびっくり答えてくれた。

「……リィン」
「リィンか、よし。リィンお前喉乾いてねえ?俺はめちゃくちゃ乾いてんだけど」
「えっ?」
「あそこに自販機あるだろ?これでコーラ買ってきてくんね?駄賃にお前の好きなもんも一本買ってきていいから」

ベンチの背もたれから身を起こし、子供、リィンの腕を取ってその手に小銭を握らせてやる。無造作にポケットに入れておいた分であるが、ちょうど二人分の缶ジュースを買う金額は入っていた。よろしくーと気楽に手を振ったクロウであったが、小銭を握りしめたリィンは慌ててふるふると首を横に振った。

「だ、だめです、おれ、お金もってなくて……!」
「だから奢ってやるって言ってんだろ?さっきの礼にもなるし」
「お礼なんて、いいです、何もやってないのにもらえません……」

眉を下げながら、しかし断るその瞳には強い光が灯っている。どうやら最初に見つめた儚い第一印象とは裏腹に気が弱い訳ではないらしい。遠慮しがちで、しかも言い出したらなかなか引き下がらない頑固な奴と見た。クロウは内心で唸った。こいつは少々癖のある子供だ。このまま粘っても頑としてクロウに奢らせることはないだろう。少しだけ考え込んで、クロウは顔を上げた。

「んじゃ、お前の好きなジュース買ってきてくれよ。俺におすすめしてやってくれ。何せまだ入院したばっかりでどんなジュースが並んでんのかよく知らねえんだ」
「……おれの、おすすめ?」
「そうそう。お前が普段飲んでるような奴でいいから。マジ、喉からっからなの。頼むな」

ぽん、と景気づけに頭に触れてやれば、ようやくリィンは頷いて自販機へと駆けていった。小銭をちゃりちゃり入れて、一生懸命背伸びしてボタンを二度押して、両手に缶ジュースを持って駆けて戻ってくる。そんなに急いで戻ってこなくていいのになあと眺めている鼻先に、頼んだ通りのコーラがまず差し出された。

「どうぞっ」
「サンクス!んで、お前のおすすめは?」
「こ、これです」

おずおずと見せてきたのは、果汁が少なめの甘い甘いオレンジジュースだ。表に描かれているゆるいキャラクターがまた可愛らしい。飲むもんはやっぱり幼いもんだなと和みながら、用意していた台詞を仰々しく吐き出した。

「うおおしまったーっ!この俺としたことが、オレンジジュースアレルギーなのをすっかり忘れてたぜー!」
「え……お、オレンジジュース、アレルギー?」
「てなわけでそいつは飲めねえからお前にやる。飲め」
「ええっ」

ぷしっとコーラの蓋を開け、ごくごくと煽る。炭酸が口内で喉で弾けて流れ込むのが心地よい。ちらと視線を向ければ、両手でオレンジジュースの缶を持ったリィンが心底困ったようにクロウを見つめていた。

「何だ?もう買っちまったもんは戻せねえんだから、お前が飲まないともったいないだろ?」
「……ごめんなさい、クロウさん」

頭を下げる子供は、どうやらクロウがわざわざリィンにジュースをやるために突拍子もない事を言い出したのだと気づいているらしい。こんなちびっこいのに賢い奴だと舌を巻いた。だが、譲ってやるつもりはないし、ぴっと咎めるように指を突き付けてやる。

「こういう場合、ごめんなさいじゃなくてもっと他に言う言葉があるんじゃねーの?」
「ふえっ?!えっと、その……あ、ありがとうございますっ」
「そうそう、良く出来ましたっと。ほら、ここ座って飲めよ」

ふわふわして撫で心地の良い黒髪頭をまた撫でてから、ベンチの隣を叩いて促してやる。一瞬だけ躊躇ったリィンは、すぐにとことこ寄ってきてクロウの横に腰かけた。プルタブを開けるのに少々苦労していたので、一度受け取って開けてやってからすぐに手渡す。嬉しそうな笑顔で礼を言うリィンの顔からは、緊張が少し抜けたようだった。その事に、何故だか若干の優越感を覚える。
白い喉を嚥下させてジュースを流し込む横顔を眺めて、もう一つ、言っておきたい事を口にすることにした。

「あと、その敬語とクロウさんっての止めてくれ、そういうの慣れてねえんだ俺は」
「っ?!え!で、でも、クロウさ、」
「うおーかゆいかゆい、あんま丁寧に言われるとむず痒くなんだよ。友達にそんな他人行儀に話しかけられても寂しいってもんだろ?」
「………、と、も?」

みるみる、リィンの瞳が限界まで見開かれる。そんなに驚く事かと首を傾げながら、クロウは左手のコーラ缶をカンと、リィンのオレンジジュースの缶に軽くぶつけた。

「なんだ、駄目か?友達。俺みたいなアヤシイ兄ちゃんと友達は嫌か?」
「っいやじゃ、ないです!」

喰い気味にぶんぶんと首を横に振ってみせるリィン。思っていたより友好的な感情を抱いてもらっているらしい。逃げられてもおかしくない、いきなりの言葉だった事はクロウも自覚していた。しかし何となく、リィンにはこれぐらいの強引さがちょうどいいのかもしれないと、この短い間で悟りつつあったのである。クロウは元々社交的で、人との関係を適度に結ぶ術に長けていた。この辺は幼い頃から世話になった祖父の受け売りなのかもしれない。だからこそこの遠慮しいであるがお人よしなリィンには、多少ぐいぐい詰め寄っても拒否されない確信があったのである。
……そうでなくとも、この子供には無理矢理縁を作ってしまいたい抗いがたい衝動が次々と沸き起こってしまう。不思議だった。最初、一人空を見上げてぼんやりと立ち尽くす姿をみてからこうだった。他者と、世界との間に見えない膜や壁を張って一人きりで存在しているように見えた子供の、その内側へと入ってみたいという欲求が止まらない。こんな事は初めてで、クロウ自身も少々戸惑っていた。

「……でも、さすがに、いっぱい年上なのに、呼び捨ては、その……」

そうしているうちにリィンの葛藤は続いていた。歳の離れたクロウを呼び捨てる事がどうしても出来ないらしい。あんまり無理強いしても可哀想かなと助け舟を出そうとしたクロウだったが、その前に決意を灯したリィンの瞳が向けられた。

「それじゃあ、く、くろ……!」
「ん?」
「くろ……クロウ、おにいちゃん、とか……」

緊張にジュースの缶をぎゅっと握りしめて、つっかえつっかえ何とか提案したリィン。クロウおにいちゃん。クロウおにいちゃん。クロウおにいちゃん。頭の中でたどたどしいその言葉がリフレインする。響いて響いて、体中に沁み渡っていく。クロウに兄弟はいない。近所の年下どもを相手する事の多かった面倒見の良さだったが、こんなに純粋に好意と尊敬を乗せた「おにいちゃん」を貰った事は、今までなかった。

「……?!ど、どうしたんですか、じゃなくて、どうしたの、クロウおにいちゃん!」

気付けばクロウは、飲みかけのコーラを脇に置いて両手で顔を覆っていた。人生で初めて受ける衝撃に、感情がついていかなかったのだった。指の間からチラと向こう側を覗けば、ベンチの上を移動し近づいたリィンが心配そうに覗き込んでいる。間近に見える潤んだ薄紫に、喉の奥の方で唸った。

「悪い……もう大丈夫だ。衝撃は何とか去った」
「しょうげき……?あの、おにいちゃんはやっぱり、だめ、かな」
「いや駄目じゃねえよ。そうだな、時期に慣れるだろうし……ま、いずれはクロウって呼んでくれりゃいいさ、なっ」

自分がクロウを不快な気持ちにさせたのではないかと表情をゆがませるリィンを撫でて落ち着かせる。それにしても本当に撫で心地の良い頭である。事あるごとにこうして撫でてしまう。リィンも嫌ではないのか気持ちよさそうに目を細めるので、余計に撫でて構ってやりたくなるのだ。日に焼けていない白い頬が照れたようにバラ色に染まる様が、この中庭に生えるどんな花よりも鮮やかに見えた。
気を取り直すようにコーラを飲み直すクロウに、さらに警戒心を解いたリィンが子供らしい好奇心に溢れた表情を向けてきた。とても微笑ましい。

「……それじゃ、クロウおにいちゃん」
「おう、どうした」
「クロウおにいちゃんは、どうしてその足をけがしたの?骨折?」

きっと、ずっと気になっていたのだろう。クロウはその質問にコーラを吹き出さないように頑張らなければならなかった。個人的にとてもかっこ悪い骨折の仕方をしてしまったと猛省している最中なので、特にこの純粋に慕ってくれている子供に話すのが躊躇われたのだった。

「これはだな、あー、その……バイクでちょっと、な」
「バイク?クロウおにいちゃん、バイク乗るの?」
「!お、おお、そうそう!バイク乗るんだよ!お前は乗った事あるか?気持ちいいぞー」

これ幸いとばかりにクロウは話題を逸らすことにした。どんなバイクに乗っているか、どんな場所によく行くか、今度行く予定のコースなど、ぺらぺらと巧みに話して聞かせた。リィンは瞳を輝かせてクロウの話に聞き入る。特に行った事のある綺麗な景色の話や、バイクの乗り心地なんかに興味があるようだった。誤魔化すために切り出した話であったが、あまりにもリィンの反応が良いのでクロウもいつの間にか、なるべく面白おかしく聞こえるように舌を動かしていた。
話しながら、うっすら思う。リィンはあまり余所に出かけた事がないのではないか、と。リィンの恰好は明らかにパジャマ姿で、面会者ではなくおそらく入院患者だ。外傷は見当たらないので病気か何かだろうか。しっかりとした話し口調にしては成長しきれていない幼い外見と、太陽の下にあまり出ていないような白い肌に鍛えられていない細い手足が、健常者ではないのだと訴えているようでどこか痛ましく思う。さすがにあけすけに、こちらから何で入院をしているのかリィンに聞く事は憚られた。リィンの内面にこれほど踏み込んでしまうような質問はもうちょっと距離を縮めてからの方が良いだろう。
……ただ足を骨折しただけのクロウの入院期間はそれほど長くない。それが分かっていておそらく長期の入院であるリィンと距離を縮めていくことをすでに決定づけている己の思考に、クロウは気付いていなかった。

「ふわあ……すごいなあ、お友達といっしょに、色んなばしょに行ってるんだ」
「おうよ。楽しいぜー?俺の話だけでそんなに楽しめるんなら、実物見たらびっくりして倒れちまうんじゃねえか?リィン」

くつくつ笑ったクロウは、名案を閃いた。ぽんと手を叩いて、さっそくリィンに笑いかける。

「そうだ、お前が退院したら乗せてってやるよ、バイク」
「……、え……?」
「ジョルジュの奴にサイドカー付けてもらえりゃお前も乗れんだろ?多分俺の方が早く退院になるだろうから、先に練習しとくからよ」

クロウの言葉に、リィンはしばらく答えなかった。はく、と口を開け閉めして、何も言わないまましばらくクロウを凝視し、やがてふるふると首を振る。その時の表情にクロウは見覚えがあった。あの時の顔だ。一番最初に見た時の、何かを諦めたような顔。その顔のまま、リィンは笑う。笑えていない顔で、笑う。

「……ありがとう、クロウおにいちゃん」

楽しみにしとく、と口にするその声は、明らかに嘘をついていた。眉をしかめたクロウは手を伸ばす。きょとんと瞬くその頬をぷにっと指でつまんで、痛いような痛く無いような絶妙な力で引っ張った。おお、伸びる伸びる。

「ふえっ!?く、くろうおにいひゃん?!」
「お前、俺が嘘ついてるとか慰めるためだけに言ってるとか、とにかく信じてねえだろ!ったく失礼な奴め!」
「ぷあっ」

ぱっと手を離せば、ぱちんと元に戻るリィンの頬。少しだけ赤くなったそこを擦りながら、リィンは戸惑うように瞬いた。クロウは肩を怒らせて腕組みし、ベンチの上で踏ん反り返ってみせる。

「男に二言はねえよ!俺が乗せるつったら乗せるんだ!本気だぞ?だから覚悟しとけよリィン、お前が退院したらマジで迎えに行くからな!」

どうだ、と見下ろしてくるクロウの顔を、リィンは何か眩しいものを拝むかのように目を細めた。ずっと缶を握りしめたままだった手が、ふるりと震える。

「……、ほんとに?」

リィンにも伝わったらしい。クロウが本気であることが。始終おちゃらけていたクロウの紅い瞳が、この時ばかりは真っ直ぐ嘘をついてなどいないことが。

「ほんとに……むかえにきてくれる?」

恐れを抱きながらのその問いに、クロウはにっと笑った。リィンに手を伸ばし、両脇を掴んでその軽すぎる身体を膝の上に抱き上げてやる。ひゃあっとリィンの高い悲鳴が中庭に響いた。骨折していない左の膝にリィンを乗せて細い腰を抱き締めてやれば、かちこちに固まった幼い身体が少しだけ柔らかく力を抜く。

「ほんとにほんと!だから退院する時はちゃんと教えろよな、後で連絡先渡すから」
「……ほ、ほんとに?」
「何度も言わせんなって。約束だ」

振り返ってくるリィンに小指を差し出す。さすがにクロウが何を求めているのかすぐに察してくれた。躊躇いにうろうろと視線を彷徨わせながらも、クロウの太い小指にリィンの細い小指が絡まる。しっかりと力を入れて絡め返してから、腕を上下に振った。

「ゆーびきーりげーんまーん嘘ついたら針千本のーますっと!な、これで約束!マジで針千本用意してても良いぜ?男の中の男、このクロウ様が約束を破る事はねえからなっ!」

きちんと約束を契る事が出来て満足げなクロウを、膝の上に乗せられながら見つめたリィンは。指切りを終えた自分の小指をきゅっと握りしめて、じわじわとその表情を変えた。まるで泣き出してしまうのではないかと内心のクロウを焦らせた顔は、確かに笑っていた。嬉しさの込められた涙をこぼしてしまいそうになるぐらいくしゃっと、満面の笑みで笑った。

「……うんっ、約束!」

クロウはまだ知らない。これが、ずっと小さな頃から入退院を繰り返していたリィンが家族以外の誰かと交わした、初めての未来での約束であることを。己の病に対して達観すらしていた哀れな幼い心に、一筋の温かな光を確かにもたらした事を。
クロウがリィンと出会った事で癒され、慰めてもらった事と同じぐらい、いやそれ以上にリィンがクロウに救われていたのだという事を。



骨折がくれた約束





15/08/16


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