リィンが赤ん坊の状態異常に陥りました。



これは大変なことになった。声に出さずともおそらく、この場にいた全員が同時に同じことを思った。ただし、一人以外。その一人は多分、まともな思考をする事さえ出来ないだろうから。
当たり前だろう。生まれたての赤ん坊が、「これは大変なことになった」などと考える訳がない。こんな、大きくてまるい薄紫の瞳でじっと見つめてくる、無垢な幼い顔が。

「ね、ねえ、これどうなってるの?!何かの状態異常なのかな?!」

一番最初に声を上げたのは、小さな体を抱えたエリオットだった。混乱しきった表情の手元には、きょとんと瞬きをする黒髪の赤ん坊の姿。赤色の制服に埋もれるように抱きとめられているその子は、今の今まで確かに17歳であるリィン・シュバルツァーだったはずの子供だった。髪と瞳の色も、わずかに見える面影も、赤ん坊がリィンであるという何よりの証拠だ。一瞬にして体が縮むという非現実的な超常現象を除けば、だが。それも、目の前で変化してしまった姿を見ているのだから否定しきれる材料にはならない。
そう、リィンは年齢ごと体が縮んでしまった。この場にいるZ組男子たちの目の前で、今しがた。

「……魔獣の攻撃を受けた直後にこうなってしまったのだから、そうとしか考えられんな」

声を上げる事も無く固まってしまっていたユーシスがようやく応える。隣で絶句していたマキアスもようやく我に返ったようにびくりと反応し、震える指をエリオットへ、正確に言えばエリオットが抱えるリィンへと向けた。そのまま開いた口から、驚愕の絶叫が飛び出す、

「な、な、な、な――何だこブハッ?!」
「うるさいぞレーグニッツ、黙れ」
「いっ今のは僕がまだ叫ぶ前だっただろう!?どれだけ横暴なんだ君は!」

前に、バシンと乱暴にユーシスが口元を抑えて、というか叩いて大声を未然に防いだ。途端に驚きから怒りに表情を変えた顔へ、冷たい視線が寄越される。

「貴様は赤ん坊の前で大声を上げるつもりか。驚いて泣き出されでもしたら、今の俺たちには収拾のつけられない事態になるぞ」
「ぐっ……た、確かにそうだが。しかし赤ん坊になってしまう状態異常なんて、聞いた事がないぞ?!」
「俺も初めて見るし、初めて聞く状態異常だ。帝国はまだまだ俺の知らない不思議なことで溢れているな……」

危険が無いか最後まで周辺を確認し、ようやく槍を収めたガイウスが斜め方向に感心している。ここは街道のど真ん中で、今まで魔獣と戦っていたばかりなのだから、ガイウスのように警戒を解かないでいるのが正解ではあったが、皆とてもそんな余裕は無かった。魔獣が、リィンが斬りつけた一匹で最後だったのが幸いだった。その最後の一匹の死に際に一撃を喰らってしまったせいで、こんな事になっているのだが。
今全員で立っているこの場所は、東トリスタ街道の一角。授業の一環でZ組の男子チーム、女子チームに分かれてそれぞれ魔獣を相手にARCUSのリンクを使って技の連携を確かめていた所だ。トリスタ一帯の魔獣はそれほど強いものもいないので比較的安全、のはずだった。見た事のない新種の魔獣が数匹現れたと思ったら、運悪く最後に仲間を庇ったリィンがこの有様である。ちょうどリィンとリンクを繋いでいて、一番近くにいたエリオットが倒れかけたリィンを抱きとめようとして、気が付いたら腕の中に小さな体。一瞬全員の時が止まって、冒頭に至る。

「リィンの様子はどうだ?」

ガイウスが近づけば、リィンを抱き上げながら一歩も動かないエリオットが視線だけを向ける。いや、どうやら動かない、ではなく、動けないようだ。腕に抱いた柔らかな生き物があまりにも現実離れしていて、下手に動いたら傷付けてしまいそうで、どうにも動けなかったのだった。

「な、何かじっと僕の方を見ているけど、大丈夫だとは思う、よ?」
「ああ、大人しくしてくれているな。怪我をしている訳でもないようだ」
「その、赤ん坊になったリィンにリィンとしての意識はあるのか?」
「あったら赤ん坊と言えどこれだけ平然としている訳がないだろう阿呆」

マキアスとユーシスも近づいて、全員でリィンを覗き込む。ぱちぱちと複数目の前に現れた顔を順番に見つめる薄紫はまさしく純粋無垢で、見ているだけで心を和ませた。大混乱中だった思考を一瞬だけでもほっと一息つかせた一行は、次の瞬間ぎくりと体を一斉に固まらせる。
今まで大人しかったリィンの表情が、きゅっと。今にも泣きそうな顔に変わったためだ。

「ええええ?!な、何で?!リィン、どうしたの?!」
「ふむ。一度に複数の顔が覗き込んできて、驚いたのかもしれないな」

一気に慌てふためくエリオットに、あくまでも冷静に分析するガイウス。

「おい、貴様が勢いよく覗き込みすぎたんじゃないか?」
「何だと!君のいつもの不機嫌そうな顔が怖かったに決まっているだろう!」

慌てすぎて互いに責任を押し付け合うユーシスとマキアス。つまりはまあ、誰もおいそれと手を出すことが出来なかった。こんなに小さな赤ん坊をどう扱えばいいのか、さっぱりと分からなかったのだ。その間にも眉を寄せたリィンの大きな瞳には水分が溜まっていく。誰よりもその様子を近くで見ていたエリオットは、耐え切れなくなってリィンを誰かに差し出した。

「ぼぼぼっ僕にはもう無理!誰かリィンをお願い!」
「っく!そこでどうして俺だっ!」

エリオットがとっさに伸ばした腕の先にいたのはユーシスだった。かなり戸惑ったが、差し出されれば条件反射で受け取ってしまう。何とか落とさないように腕の中に暖かくて小さな体を収めたユーシスが覗き込めば、景色が変わって一旦涙をひっこめたリィンとばっちり目が合った。くりくりの目が、すぐにまたくしゃりと歪む。このままでは泣き出してしまうのも時間の問題だ。焦ったユーシスは何とか考える。何とかリィンを宥めて泣かないようにする方法。腹立たしいが、さっきのマキアスの言葉も一緒に蘇る。不機嫌そうな顔、とは心外だが、確かに愛想が良いとは決して言えない自分の顔が、怖がらせて泣き出す原因になってしまっているのならば。
ユーシスは意識して、にこりと微笑んでみた。これ以上赤ん坊のリィンを怖がらせないように、精一杯、混乱する心を押し留めて、そりゃもう力の限りにこりと。
その結果。

「……ふえ……ふええええええん!!」

泣いた。リィンが大粒の涙を零しながら泣いた。タイミングを見ればユーシスが微笑んで見せたのが原因で間違いはない。心外だと、思わず声を荒げた。

「何故だ?!」
「いや……ユーシス、君、今の顔は子供に向けてはいけない顔だっただろう……」
「すごいな……あれだけ鬼気迫る笑顔は初めてみた……」
「うーん、ユーシスも普段の笑顔は綺麗なのに、どうしてよりによって今そんな顔しちゃうかな……」

マキアスも、ガイウスも、エリオットも若干引き気味にユーシスを見つめる。どうやら随分とものすごい笑顔を見せてしまったらしい。緊張してやたらと力が入ってしまった自覚のあったユーシスだったが、ここまで引かれてしまうほどの笑顔とは、と地味に落ち込んでしまう。そうしている間にも、火がついたようにわんわん泣きじゃくるリィンは涙を止めない。

「それにしても……赤ちゃんの泣き声って可愛いね。リィンもこんなに声が高い時期があったんだ」

エリオットが場違いな感想を呟く。遠い視線が、現実逃避している事を物語っていた。釣られてマキアスも眼鏡を押し上げながら、どこか微笑ましそうにリィンを見つめる。

「確かに、そうだな……はは、不思議だな。泣き声を聞いてこれだけ和むなんて」
「和んでいる場合か!ええい、それだけ和んでいるならば代わりにリィンをあやしてみろ!」
「なっ?!何故そうなるんだ!」

驚愕の声を上げるマキアスに、ユーシスは半ば無理矢理泣いたままのリィンを預けた。やはり差し出されては受け取るしか無くて、苦労しながら何とか抱き上げる。ぎゅっと小さな手の平を握りしめ、ぼろぼろと涙を零しながら声を上げて泣くリィンの姿は微笑ましくもあり、痛ましくもあった。確かに可愛らしいが、一刻も早く涙を止めてやりたい。しかしそこでマキアスの思考はストップしてしまった。赤ん坊のあやし方など一切知らない。教科書にだって載っていない。授業で習った覚えもないのだ。オスト地区の年下の子供たちの面倒を見た事はあるが、さすがにこれだけ小さな赤ん坊を世話した事など経験が無かった。一切の知識がない事を、行動に移す事などマキアスには不可能だった。
結果、ものの見事に固まってしまったマキアス。周りから揃って諦めのため息がこぼれる、そんな中。リィンの泣き声がぴたりと止まった。えっと驚いている間に、もみじのような小さな手が、大きな制服の中からにゅっと伸びる。

「あー」
「?!わ、な、何をするんだリィン?!」

マキアスがとびきり驚いた声を上げる。短すぎる指が掴み取ったのは、マキアスの眼鏡であった。今まで抱き上げた人間には存在しなかったそれを物珍しく感じたのかもしれない。しかしマキアスにとって急所と同じような体の一部である眼鏡を掴まれてしまえば、相手が赤ん坊であろうとも身動きが取れなくなってしまう。中途半端に身を屈めた体勢で固まってしまったその姿に、周りからは思わずといった笑い声が漏れた。

「マキアスの眼鏡が気に入ったようだな、リィン」
「うん、あんなに握っちゃって、可愛いね」
「いやいや、見てないで助けてくれたまえよ君たち?!」
「ちょうどいい、リィンも泣き止んだ事だししばらくそのまま相手をしてやれ、レーグニッツ」
「じょ、冗談じゃないぞ……!」

明らかに面白がっている声に、マキアスは奮起した。きゅっと握りしめてくる手の平を、心を鬼にして振りほどく。顔を少し強めに振ってみただけだったが、赤ん坊の力の前に負ける事は無かった。あっけなく手放されてしまった眼鏡の軌跡を追うリィンの瞳。その眼から再び涙が溢れ出てくるのはすぐ後の事だった。

「ふえ、ふええええええ」
「あー、マキアスがリィンを泣かしたー」
「何をしている、眼鏡一つぐらいリィンのためにくれてやれ」
「最初に泣かしたのはユーシスの方だし、この眼鏡は大事なものなんだ、さすがのリィンでも簡単にあげられるものじゃないんだぞ?!」
「ええっ!マキアスってばリィンと眼鏡、どっちが大事なの!」
「見損なったぞレーグニッツ!」
「君たちただ僕をからかって面白がっているだけだろう?!」

言い合っている間にもリィンはやっぱり泣き止まない。ほとほと困り果てたマキアスに、助け舟を出したのはガイウスだった。

「マキアス、俺がやってみよう。これでも故郷では弟や妹たちの面倒を見ていたんだ」
「ガイウス……!それなら是非とも、リィンを頼む!」

心から助かった顔でマキアスがリィンを預ける。優しく受け取ったガイウスは、軽く揺らしながら落ち着いた瞳で微笑み、リィンを見つめた。

「大丈夫だリィン。ここにはお前を害する存在はいない、安心してくれ」

静かな低い声で、ゆっくりと語りかける。わあわあ泣いていたリィンの声が、少しずつおさまっていく。ひく、と小さなしゃっくりを混ぜながら、やがて幼い泣き声は止んだ。まだまだ目には涙が浮かんだままだったが、逞しい腕に抱かれたリィンはガイウスを見上げたまま、ひとまずは落ち着いたようだった。
固唾を飲んで見守っていたエリオットもユーシスもマキアスも、小声で手を挙げたりガッツポーズを取ったり、思い思いに喜んだ。

「さすがガイウス!何ていうか、妙に安定感があるよね」
「ああ、とても同学年とは思えない落ち着きが、赤ん坊にも効果あったようだな」
「はあああ、しかし泣き止んでくれて良かったっ……助かったぞ、ガイウス」
「ふふ、リィンが良い子でよかった。これだけ小さな子供を抱くのは久しぶりだったから自信は無かったんだが」

自信はない、と口にするその姿がすでに威風堂々としていて、赤ん坊なリィンを抱いた体は一つも揺らぐことが無い。敵わねえ、と心の中で三人が声を揃えた。笑みを浮かべてリィンをあやし続けるガイウスには届かなかったが。
さて、リィンが落ち着いた所で四人は立ち向かわなければならない問題に直面する。これから、どうするか、だ。リィンの姿は一向に戻る気配は無いし、このままここに突っ立っていても何も解決しない。とにかくトリスタへ、トールズ士官学院へ戻らなければならないだろう。

「女子と男子と、別れてしまったのが痛かったな。女性陣がこの場にいればリィンの対応も任せる事が出来ただろうに」

マキアスが悔しそうにそう言うが、答えたユーシスは思いっ切り眉をしかめていた。

「……本当にそう思うか?Z組女子がこの場にいた方が良かったと、本当にそう思うのか?」
「え。いやだって、女性の方が子供の扱いには長けてそうだろ、う……い、一応……」

マキアスの声もすぐにしぼんでしまう。自信が一気に消えてなくなったのだ。あの女性陣が、子供の世話。女子だからと短絡的に考えたが、よくよく思い返してみると……疑問が、残る。エマは良い。エマは良いが、アリサは赤ん坊になったのがリィンという事で無駄に慌てて変なことをしでかしそうだし、下手な男子より男らしいラウラがしとやかに赤ん坊の世話が出来るとは思えないし、同じくフィーも想像できないし、ミリアムに至っては絶対に預けてはならないという確信が持てる。教官で大人の女性であるはずのサラも分かりきった不安感にノーコメント。つまりはまあ、女性だからと言って決して安心できる面子ではないのだ。むしろ逆に、事態を引っ掻き回してもっと大事になっていたのではないかと言う思いが過ぎってしまう。知らない内に全員で視線を合わせていた。

「……むしろ、この場にいなくてよかったんじゃないかな……」

正直すぎるエリオットの言葉に、頷かないものはリィン以外に存在しなかった。不幸中の幸いを見つけてしまって僅かながら安堵した空気の中、誰かがそれじゃあ戻ろうかなどと声を上げればすぐさま動き出しただろう複数の足たちを、その場に留めたのは愛らしい声であった。

「……ふえ、ふええ……」

ただし、泣き出す寸前の、である。

「?!おい、リィンがまた泣き出しそうだぞ」
「うわわ……!な、何で?!ガイウス、何かあったの?!」
「いや、俺は何もしていない……もしかしたらお腹が空いたのかもしれないな」
「そ、そうだったとしたら今の僕たちには何をどうする事も出来ないぞ……?!」

再び一気に沸く混乱。ガイウスが先ほどと同じようにあやしてもリィンのか細い声は途切れない。ああこれはまた泣き出すか、と慌てつつも覚悟を決めた一同。そこに突如救世主が現れる。

「おっすお前ら、オレ様がいない間も頑張ってたかー?」

のんびりとした呑気な声。この場にいなかったZ組最後の男が、トリスタの方からぼちぼちと歩いてくる。授業を今の今までサボって行方知れずになっていた元上級生現クラスメイトの銀髪バンダナ先輩に、一斉に視線が集まった。予想していなかった勢いに足を止めるその顔に、八つ当たりめいた全員分の言葉がぶつけられる。

「クロウ!一体今までどこにいってたのさ!」
「貴様が姿を消している間に何があったと思っている!」
「リィンがこうなってしまったのもある意味この場にいなかった先輩のせいなんじゃないですかこれは!」
「これがクロウのせいかはともかく、授業をサボるのは感心しないな」
「な、何だ何だ、随分と熱烈な出迎えじゃねえか……ん?」

きょとりと目を瞬かせたクロウは、ガイウスの腕の中の存在すぐに気が付いた。一度だけ全員の顔を見渡してから、またすぐに泣き続けるその小さな生き物を見つめ、怪訝そうに一言。

「まさかその赤ん坊……リィンか?」

分かったの?!びっくりしすぎて声を上げる事を忘れたエリオットが目を見開くが、大体全員同じことを思っていた。確かにリィンがこの場にいない事である程度の推測は出来るが、すぐさま受け入れるには少々奇妙すぎる現象ではないだろうか。目の前で姿が変わってしまう場面を見た訳でもないのに。そんな視線を感じ取ったのか、言い訳するようにクロウは手を振ってみせた。

「やーだってこいつ、リィンそっくりだろ。どんな原理でこうなっちまったのかは分からねえけど、つまりリィンで間違いないんだよな?」
「ま、まあ、そうですけど……」
「な?ま、勘みたいなもんだ、勘」

あっけらかんと答えてみせるクロウだったが、勘というのが逆にすごい事だと思う。またしても全員の心が一つになった。

「へええー、やっぱりすごいなあクロウは……リィンの事なら何でも分かっちゃう感じ」
「んだそりゃ。つーかさっきから泣きっぱなしじゃねーか、どうしたー?」

止まっていた足を動かし、ひょいとガイウスの腕の中を覗き込むクロウ。ぼろぼろと鳴いていたリィンが、聞こえてきた声にそちらを見た。紅色の瞳と薄紫の瞳が重なり合う。途端に泣き声は止んだ。ガイウスも、エリオットもユーシスもマキアスも、クロウでさえ目を丸くする中。小さな手が天に伸びた。マキアスの眼鏡を握った時は片手であったが、今度は両手。何かを乞うように伸びた手は、まっすぐ銀色に向けて。

「あー、うあー」

聞こえた幼い声は、まるで懇願するように。小さな手の平を必死にクロウへ伸ばしながら、薄紫の涙目がじっと一人を見つめる。ぽかんと口を開けるしかない一同の中で、頬を掻いて動いたのは乞われた一人であった。

「……何か分かんねえけど、俺ん所にくるか?」

ほれ、と差し出された手に、ガイウスが優しくリィンを乗せる。赤ん坊を抱いた腕は何気に手慣れていた。少なくとも危なげは無い。手元を覗き込んだクロウは、紅の瞳を微笑ましげに細めて、涙に濡れたふくふくの頬をつつく。

「ったく、お前は何歳でも泣き虫甘えん坊だな、リィン」

ぷにぷにと頬を突かれながら。ぱちりと瞬きをした拍子に一粒だけ涙を零した赤ん坊リィン。まるでそれが最後の涙だったとでも言うように。クロウの今の言葉を理解したように。次の瞬間、その顔は。
にこりと、まさしく花が綻ぶように、一点の穢れも無い満面の笑みでクロウを見た。

「うおうー」

言葉なんてまだ喋れないはずの赤ん坊の口が、まるで「クロウ」と名前を呼んでいるように聞こえたのは、気のせいだったろうか。にぱっと、先ほどの涙は嘘ではないかと見紛うほどの笑顔がクロウの腕の中で咲き誇る。それは初めて見る赤ん坊になってしまったリィンの笑顔だった。好意だけをただひたすら伝えるような、愛らしい可憐な笑みだった。
周りがびしりと固まる中、今までリィンが笑っていなかった事実を知らないクロウが赤ん坊と同じように笑って、その額にうりうりと自分の額をくっつける。

「何だ何だ、やっぱお前俺の事大好きなー!」
「あうー!」

ぺんぺんと嬉しそうにくっついてくる頬を叩く小さな手を、残された面々がやや呆然と見つめる。そんな中、腕を組んだガイウスが感心するように頷いた。

「なるほど、リィンがずっと泣いていたのは、クロウを探していたからだったのか」

そんな訳があるか、と一蹴できない目の前の光景に、一同は疲れ切った溜息を零すしかなかったのである。









15/06/07


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