失敗した。
くしゅん、と小さくくしゃみしたリィンが睨み付けるのは厚い雲が垂れ下がる空。昨日までさんさんと輝いていた太陽はどこに行ったのかと言いたくなるほどの曇り空。確かに少し天気が崩れるだろうと、昨晩のラジオの天気予報でも言っていたし、今朝方シャロンにも似たようなことを言われていた。雨が降るほどではないが、気温は下がるだろうと。しかしここまで寒くなるだなんて、思ってもいなかった。剥き出しの二の腕をさすりながら、リィンは後悔している。制服を夏服にするタイミングを、どうやら間違えてしまったようだ。
雪国ユミル育ちのリィンは基本的に暑さよりも寒さに強い。数日前から昨日まで続いた少し早い真夏のような天気にはさっそく参ってしまって、これはもう夏服の出番だろうと思い切って本日から着てみたは良いものの、この天気だ。トールズ士官学院では夏服への切り替えは義務化されておらず、タイミングは生徒個人に任されている。中には通気性も良く意外と着たまま夏も過ごせてしまうからと上着を脱ぐことなく過ごす生徒も割と存在していた。リィンは耐えられそうになかったので早々にこうやって半袖である夏服を着込んだ所なのだが、今日ぐらいはあの赤い上着を持ってくるべきだったか。今後悔してもかなり遅い。時刻はもう放課後だ。
まだまだ明るい時間帯でも気温は下がる一方だった。日中はまだ雲もそれほど厚くは無く微かに日の光も落ちてきていて、肌寒くも何とか過ごせる気候ではあった。しかし今はもう駄目だ。日も落ちかけている上にこの立ち込める雲、時折吹く風の冷たさがより一層皮膚に刺さる。今すぐ学生寮に帰ってしまいたい気持ちだったが、先ほどサラに押し付けられた書類運びや通りかかりにうっかり声を掛けてしまった用務員ガイラーさんの部屋の片づけ手伝いがまだ残っている。書類運びはあと図書館を最後に残した所だった。校舎から中庭へ出ると寒さもひとしおで、思わずくしゃみをしてしまったのが冒頭の場面。一回寮に帰って上着を取ってくるか、と一瞬だけ考えて足を止めたリィンだったが、往復する時間がもったいないと考え直し、抱え込んでしまった雑用をさっさと終わらせて帰る事に決めた。それまではこの寒さも我慢だ。
両手に書類を抱えたまま歩き出し、またもう一つくしゃみ。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない、と肩を震わせながら眉をしかめたリィンに、その時。

バサッ
「?!うわっ!」

急に背後から何かが頭から被せられた。突然の事に驚いて立ち止まってしまう。首をすくめて閉じてしまった目を慌てて開けてみれば、視界いっぱいに広がるのはどこかで見た事のある緑色だった。そう、この緑は、見た事がある。見た事があるというか、今日も何度も目にしたほど日常的に周りに広がる緑だった。これは制服だ。士官学院平民クラスの生徒が着用する制服の緑色で間違いは無かった。つまり今リィンの頭に被さっているのは、それだ。

「?えっ?」
「こんな所でなーに震えてんだよ後輩君」
「は?ええっ?」

後頭部をぽんと叩かれながら聞こえてきたのは覚えのある声。慌てて頭を動かし緑色からぷはっと抜け出せば、被っていた上着はすとんと上手に肩へと掛かった。制服の目隠しから逃れてまず見えたのは、ストライプシャツを着た自分よりも大きな背中。ちらと振り返ってくる紅の瞳に、背後からこちらを追い越す際に上着を被せたのはこの人だと一瞬で理解した。だってこの、自分には一回り大きい緑色の制服は、どう見ても目の前の先輩が普段から着ていたものに間違いないのだ。
突然の展開に頭が追いついていかないまま、リィンは呆然と目の前の背中の名前を口にする。

「く、クロウ先輩?」
「それ、明日に返してくれりゃいいから。じゃーな、あんま無理すんなよー」
「へっ?!」

ひらひらと手を振ってみせたクロウは、そのまま足を止める事無く歩いて行ってしまう。呆然と立ち尽くすリィンの視界から銀色頭が消えるのにそう時間はかからなかった。あっという間に立ち去ってしまった先輩に、ぽかんと声を上げる事さえ忘れてしまった数秒間。きっと今の今まで羽織っていたからだろう、人肌程度の温もりを肩の上着から感じ取りながら、リィンはようやく我に返った。とっさに一歩踏み出すが、誰もいなくなってしまった通路に呼びとめるべき人は存在しない。

「……何だったんだ、今のは……」

呆然とそう呟きたくなるほどには、刹那の出来事だった。今のは夢だったんじゃないかと頭が逃避しかけるが、肩にかかったままの制服がそれを許さない。先ほどまで震えていた肩は温もりを得て治まっていた。肩だけではない、大き目の制服に包まれる体はもちろん、何だか全身が一度に温まったような感覚。……少なくとも、顔に熱が集まっているのは間違いなかった。

「はあ……同性とはいえ、今のはかっこよかったな……」

相手が女の子であれば今のさりげなさで落ちる子もいるのではないだろうか。そう思いながらリィンは少しだけ赤くなった頬を首をすくめて書類で隠す。寒さも収まりありがたい気持ちはもちろんあるのだが、同じ男としては悔しさすら滲み出てくるレベルで、去っていく背中はかっこよかった。貸してもらった上着が一回り大きいのもまたその気持ちに拍車をかける。
とりあえず、クロウ本人ももうどこかへ行ってしまったので、今日はありがたくこの制服を羽織らせてもらおうと、片腕ずつ袖を通す。やっぱり手の平の半分しか外に出ない両手を不満げに見下ろしてから、リィンは気付いていた。

「あっ……お礼言うの、忘れた……!」





よし、とリィンは気合を入れて喉を潤したペットボトルの蓋を閉めた。先日のあの寒々しい曇り空は嘘のように暑く晴れ渡る空の下、リィンの手の中には綺麗に畳まれた緑の制服があった。クロウから借りてしまったあの制服だ。あの後最後までお手伝いも完遂してしまったので汚れてしまい、本日きちんと洗濯したものを返すべく件の先輩を学院内で探している最中であった。クロウは放課後かならずここにいる、という定位置は無く、技術棟にいないのを確認してからはしらみつぶしに探すしかない。皺が寄らないように丁寧に制服を持ち直してから、リィンは歩き続ける。
それにしても今日は暑い。汗を掻く半分ほど減ったペットボトルを一度見下ろし、やっぱり我慢しようと首を振る。喉が渇いて耐え切れなくなり、暑さも手伝って先ほど買ったスポーツドリンクだった。この調子で飲んでいればすぐに空になってしまう。今日は夏服を着るに相応しい天気だったが、寒さに震えた先日の事を思うと素直に喜ぶことが出来ない。唯一手放しでよかったと思えるのは、上着が無くともクロウが凍える事態にはならない点ぐらいか。例えそうだとしても早く返さなければと、行き交う生徒たちの間を縫って校内を駆けた。
やがて間一髪、校門に向かってぶらぶらと帰宅途中の銀髪を発見する。リィンは慌てて声を張り上げた。

「クロウ先輩ー!」
「お?」

足を止め、振り返ってくれたのはあの日と同じ紅の瞳。目の前まで走ったリィンは息を整えるために少しだけ黙った。何度か深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着いてから顔を上げる。体ごと向き直ってくれたクロウへ、まずは先日の礼を。

「あの、くろ」
「ストップ」
「んぶ」

言いかけた唇にしかし人差し指がぴっと押し付けられ、言葉を発する事無く口を閉じてしまう。びっくりして丸まった薄紫の瞳の先で、茶目っ気たっぷりの顔が笑った。

「礼とか別にいいっての。たまたま見かけた震える後輩に上着押し付けただけなんだからよ。実は前の授業が運動場での実技でな、あの時は暑くて上着が邪魔だったぐらいなんだ、マジで」

先を読まれた。しかも余計な気を遣わせないようなエピソードも交えて。一瞬気圧されたリィンは、負けじと言葉を続けようとした。

「で、でも!」
「あーしかもまさか、洗ってきたのか?んなの気にしなくても良かったっつーのに、元々ヨレヨレだったろ」
「いやでも、そんな、」
「ってな訳で洗ってくれてサンクス。これで貸し借り無し、な!」

差し出しかけたリィンの手から、制服はあっけなく奪われてしまった。まだ満足に礼も言えていないのに、それすらもいらないと笑うクロウ。あっと思わず声を上げてしまったリィンは、不満げな表情を隠す事が出来なかった。風邪を引く事無く温かなまま寮に帰ることが出来た事に心から感謝しているのに、腹立たしいほどのかっこよさに見惚れたほどなのに、全てを受け取って貰えないというのか。きゅっと唇をかみしめて睨み付けるように見上げてくるリィンの表情を見て、クロウは困ったように頭を掻いた。

「ったくしゃーねーな。それじゃあ……」

悩むように黙った赤の瞳が視線をうろつかせて、ある一点で止まる。不思議に思って辿ってみれば行き着く先は己の手元。え、と声を上げる前に、それはあっけも無く抜き取られた。

「これが礼の代わり、ってことで」

きゅっと捻り開けられる蓋。リィンが何もリアクション出来ない目の前で、スポーツドリンクの入ったペットボトルは傾けられる。ごくごくと、ここまで聞こえてくる嚥下する音。最早温くなっているだろう液体が通る喉の動きに、何故だか妙に注目してしまう。ぷはっと息をついたクロウは、濡れた唇をぺろりと舐め、横目でリィンを見下ろしわざとらしいほどのウインクをしてみせた。

「そんじゃーな。これ、貰ってくぜー」

右手に受け取った上着を肩にかけ、奪い取ったペットボトルを持った左手をひらりと振り、結局リィンには何も言わせないまま、クロウは立ち去った。校門から出て遠ざかっていく背中を、猶予があったはずなのに呼び止められない。先日よりも遥かに呆けたまま、リィンはゆっくりと右手を持ち上げ、己の唇に触れていた。
先ほどの光景が目に焼き付いて離れない。意識するのは間違っていると分かっている。でも、それでも、何故だか唇が熱い。まるで、直接、同じ器官で、触れられたかのように。同性同士で馬鹿らしいと自分でも思うのだが。だって、あれはいわゆる、間接キス、に該当する行為で。
熱いのは唇だけではない。顔全体が熱い。クロウの背中が消え誰も見えなくなってしまった景色から目が逸らせない。思考さえも上手く働かないまま、ただただ立ち尽くす。
制服を肩にかける逞しい腕、なまめかしく上下する太い首、銀色の睫毛に彩られた紅に輝く瞳がパチリと閉じられる様、その全てが次々と脳内に再生される中。顔色を真っ赤に染めたリィンがぽつりと零せた言葉はただ一つであった。


「…………ずるい…………」


あんな事されたら、思わず惚れてしまうではないか。




スポーツドリンクは恋の味








その日の夜、第二学生寮の一室にて。

「くっそよく考えたらこれ間接キスじゃねえか!しまった!無駄にかっこつけて目の前で飲んじまったじゃねーか!あいつどう思って……いやそれよりこいつどうするよ、いっそ一気に飲むか?飲んじまうか?!」

今更事実に気が付いた銀色頭が震える手でペットボトルを握りしめたまま、ベッドの上でのた打ち回る姿があったとか、あったとか。










15/06/07


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