クロウが寮へと戻ってくる時間は基本的に遅い。それは平日でも、今日のような自由行動日でも変わらなかった。理由は軽く話せるものだったり絶対に話せないものだったりと色々事情はあるが、だからまあこうしてクロウが第三学生寮に帰ってくると大抵は先にZ組の誰かが帰ってきている訳だ。日が落ちた後、一番最後に戻ってくる日も少なくない。そうなると寮の扉を開けたすぐに、談話スペースでくつろぐ面々なんかとさっそく顔を合わせる事もかなりの確率である。しかしさすがに食堂からたった今出てきたばかりの所に偶然鉢合わせる事は今までなかなか無かった。
「よっリィン、今から部屋に戻る所か?」
「……く、クロウ?」
ばったりと、互いに扉を開け放ち数歩歩いたエントランスの真ん中で顔を合わせたクロウとリィン。クロウが軽く手をあげれば、リィンは驚いた顔を向けてくる。ぴったりのタイミングで顔を合わせるなんて確かにあまりない偶然ではあるが、リィンの驚き方はそれとは別の事に起因している気がした。少々疑問に思ったが、深く追求することはせずにクロウは一歩近寄って見上げてくる顔を覗き込む。目下、もっと気になる事を見つけてしまったからだ。
「お前具合悪いのか?なんか顔色悪くねえ?」
伊達に毎日顔を合わせている訳では無い。特にリィンに対しては他の者より毎日念入りにチェックしている自覚がある。そうやって外から気遣ってやらなければ、自分の事を後回しにしがちなこの後輩はいずれ倒れてしまうのではないかという懸念があるのが理由の一つ。他にも複数、打算にまみれたものや決して誰にも明かせないドロドロしたものなんかが複雑に絡み合っていたりするのだが、そんな事はおくびにも出さず。僅かな心配だけを表情に乗せて、クロウは薄紫の瞳を見つめた。
軽く目を見張ったリィンは、クロウに答えようと口を開けた。しかしその喉から声が響いてくる直前、慌てるようにすぐさま閉じてしまう。まるで声を出してはいけないと命令されているのに、うっかり上げかけてしまったような反応だった。ぐっと口元に力を入れたリィンが、代わりに首を横に振る。否定されるのは想定内だったが、意図の読めない不思議な反応に首を傾げさせた。
「本当かあ?また無理してんじゃねーだろうな」
こういう時のリィンの答えは信用してはならない、というのがクロウだけでなくZ組全員の総意である。少し付き合えば誰だってそう悟れるほど、リィンは自身の事を軽んじるのだった。それを分かっていて真に受けるクロウでは無い。
リィンが逃げを打つ前に手を伸ばし、額に触れる。確かに熱はない。顔色も万全のものではないがいつもより少し白いかな、と思える程度。今日も生徒会などの手伝いで走り回っているのを午前中目にしていたので、その疲れが出ているのかもしれない。
気になるのは先ほど声を上げるのを抑えた事。と言っても別に風邪で声が出ない訳では無いのだろう。最初に顔を合わせた時、いつものリィンの声で名前を呼ばれたのだから。その時の声にも特に違和感は無かった。頭の中で諸々を考えた結果、今すぐにベッドのの中へ放り込むレベルではないだろうとクロウは判断した。
「ま、どうせ今日も頼まれた事も頼まれていない事も色々やってきたんだろ?お人よし。疲れがたまって寝込まないように早めに休むこったな」
触れていたおでこをぴんと指で弾いてやれば、文句を言いたそうな顔でそれでもリィンは頷いた。元々そのつもりで食堂から出てきた所だったのかもしれない。思えばその時の足取りも心なしか重たいものだった。自ら体調不良を自覚して休みに向かうのならば文句は無い。クロウは褒めるように額に当ててた手の平を頭に持っていき、優しく撫ぜた。
「辛くなったら言えよ?向かい部屋のよしみだ、この頼れる先輩様がすーぐ駆けつけてやっから」
「クロウ……」
普段なら子供扱いするなと不満そうな顔でそれでも受け入れるリィンだったが、今日は目を細めて素直に微笑んだ。どうやら本当に本調子ではないらしい。こりゃちょくちょく様子を見に行ってやった方が良いかねと心の中の予定表に書き込みながら、クロウは労わる気持ちを込めて撫で続けた。リィンもよく頭を撫でる癖があるようだが、今ならその気持ちも分かる気がする。こうしてくせ毛を指に馴染ませながらまあるい形を掌で辿っていると、何とも言えない満たされた気持ちになるのだった。自然と笑みを浮かべていたクロウだったが、心地よさを感じていたのは撫でる方だけでなく、もちろん撫でられている方も同じだ。
くすぐったそうに、嬉しそうに笑顔を浮かべるリィンは、思わずと言った様子で口を開く。
「クロウ」
「ん?」
「嫌いだ」
……えっ?
完全に予想外の言葉を耳にしてクロウの手が止まる。同時にリィンもきょとんと見返してきた。何で手を止めるんだろうとその顔に書いてある。
いやだって、今嫌いだって。面と向かって嫌いだって言ったし。嫌って言われてそれでも撫で続けられるほど神経図太くないし、情が無い訳じゃないし。むしろ色々と拗らせているし。頭の中では瞬時に色んな言葉が思い浮かぶが、さすがのクロウも声を発する事が出来ないほど動揺して驚いて、表情までも引きつったまま全身を固まらせてしまった。
頭の上に手を置いたまま見つめ合う事しばし。リィンが思い出すように視線を揺らした後、ハッと肩をびくつかせ、乗ったままだった手の平を振りほどいて飛び退いた。クロウに負けず劣らず動揺した様子で勢い良く首を横に振りながら、力いっぱい声を上げる。
「その通りだっ!」
全力で肯定された!
「あっ、や、そうだ、いやそうじゃな、えっと、ち、違う、うん、違うんだ」
しどろもどろなリィンは明らかに様子がおかしい。汗をかきながら必死に何か言葉を紡ごうとしている。訳が分からなかったが、クロウはとりあえず口を挟む事無く見守る事にした。
胸の上に手を置き、何事かをブツブツと口の中で呟いて自らを落ち着かせているリィン。少ししてから、わずかに動揺が鳴りを潜めた薄紫色を向けてくる。何故か緊張した顔をしていた。
「あの、クロウ、ごめん。今のは、ま、間違いだ。俺が言いたかったのは、嫌い、じゃ……」
確かめるように、慎重に、一つ一つ言葉を口にするリィンは。そこで再び、ハッと何かに気が付いた。おそらく今から言うはずだった自分の言葉に。実際にクロウへ発する前に、何かに気付いて言葉を止めてしまった。
首を傾げて、それでも何も言わずに見つめるクロウの目の前で。クロウを見つめ返したリィンが、その表情を変えた。じわじわと内側から感情と共に染み出してくるように、呆けたような顔の色を変化させる。白い顔を少しは、血行がよさそうな健康的な色に。ほのかな赤色へ。
「……嫌い……?」
確認するようにぽつりと落とされる一言。そんなに何度も嫌い嫌い言われると地味に傷つくんだけどなあと表情を変えずに考えていると、リィンが一歩後ろへ下がった。
「お、俺は、クロウの事が……嫌い?」
言葉にすることで自覚したのか、再びリィンの顔色が変わる。小さく染まっていた頬の色が、一気に顔面全体をぶわりと覆った。色自体もまるでトマトのように赤が濃くなっていく。さっき外で見てきた夕焼けよりもはるかに真っ赤に染まってしまった目の前の後輩を、クロウはあっけに取られて見つめるしかなかった。
だって、こんなにも初々しい照れた反応をした言葉が、「嫌い」だぞ?何でこいつは人の事を嫌いとか言いながらこんな恥ずかしがってんだ?普通逆じゃね?つーか何度も言われた挙句改めて嫌いとか言われた俺可哀想じゃね?
理不尽な思いがふつふつとわき上がってきたので、さすがに一言ぐらい何か言おうと口を開いたクロウだったが、リィンが動き出す方が早かった。とうとう首から下あたりも赤くさせながら、耐え切れずに踵を返し、振り返ることなく階段を駆け上がっていってしまったのだ。
「あ、おい?!」
とっさに伸ばした手が届くことは無く。珍しくばたばたと足音を響かせながら、リィンの姿はすぐに見えなくなってしまう。足音はそのまま真っ直ぐ自室へと向かったようで、勢いよく扉を開けて閉める音までしっかりと届いてきた。残されたクロウはただそれを聞くしかない。視線だけで音を追い、しんと静まり返るまでその場から一歩も動けなかった。突然のリィンの暴露と奇行に頭が追い付けていなかった。
「……え、なに、俺実はそんなに嫌われてたの?」
呆然と呟いた、その時。食堂の扉が開かれて複数の顔がクロウへと向けられた。
「ちょっと、一体何の騒ぎ?」
「あ、クロウだ。おかえり」
「ほんとだ!おっかえりー!」
エントランスを覗き込んできたアリサと、クロウを見つけて軽く手を上げるフィー、逆に元気よく挨拶をしてくれるミリアム。その後ろにはマキアスとユーシスもいて、全員がクロウとエントランスを見回していた。リィンと会話していた際食堂にたむろする気配を感じ取っていたので、特に驚くことなくそちらへゆるゆると振り返る。
「うん?今確かにリィンの声も聞こえた気がしたんだが……部屋に戻ったのか」
「……貴様、また何かしでかしたんじゃあるまいな」
じろりと睨まれても今回は本当に心当たりがない。「また」とか言われるほど何かした覚えはないが……いや少しはあるか。クロウは困り果てた感情を隠すことなく顔に出して、両手を挙げてみせた。
「してねーよ、むしろ俺が何やかんや言われた挙句勝手に逃げられたんだっつーの。一体あいつはどうしちまったんだ?」
「えーっとね、これには深い深ーい訳があるんだよねー」
「そう」
顔を見合わせて意味深に笑うミリアムとフィー。リィンの様子がおかしかった何かしらの事情を知っているらしい。そういえばリィンは最初食堂から出てきたんだったか。視線で疑問を投げかけても、わざとらしく逸らされてしまう。
「んだよ、教えろよ」
「すみません先輩、先ほどリィンがあまり話を広めないでくれと頼んできたんですよ。おそらく一日で治るだろうとベアトリクス教官からも言われているようで、それまでは自室に篭っているからと」
「治る?やっぱりどこか悪かったのか」
マキアスが説明してくれるが、やっぱり具体的な内容は話さない。クロウがさらに尋ねる前に、不審そうにこちらを見つめるアリサに先手を打たれてしまった。
「ところでクロウ、本当にリィンに何もしていないの?さっき二階に勢いよく駆け上がっていったの、リィンよね?」
「だーから言ったろ、ショックな事いきなり言われて逃げられたのは俺の方だって」
「ショックな事だと?」
話せ、となおも怪しむように睨みながら顎をしゃくるユーシスに、クロウは半ばヤケクソ気味に答えてやった。
「俺はただ調子悪そうだったから声掛けただけだ!そんな心優しい先輩にあいつ、何度も何度も「嫌い」なんて言いやがって、くうっオレ様可哀想!」
地味に本当にショックを受けている事を隠しながらわざとらしく泣き真似なんてしてみせる。そんなクロウを待っていたのは、予想外の反応であった。
「え……ええっ?!り、りっリィンから嫌い、ですって?!今のリィンから?!」
「しかも何度も……?!ほほほっ本当ですか先輩!」
「ほえー、情熱的ー」
「クロウ、いいな」
「ふん、生意気な」
「お前らの過剰な反応なに?!特に後半!」
こっちがびっくしするぐらい驚かれるだけならまだしも羨ましがられる筋合いはない。しかもこちらを見つめる瞳たちからは悉く何故か羨望の眼差しを向けられている。本気でクロウを羨んでいるらしい。普段そんな面と向かって嫌いだなどと、シスコンモード発動中に対面したパトリックにも言わないようなマイナスの言葉をリィンから投げつけられたことが、何故そんなに羨ましいのか。クロウは理解できなかった。
「つーか、まず普通じゃなかったんだって。睨まれたり見下されたりしながらじゃなくて、普通に笑顔のままだったり何故か赤面しながら「嫌い」だぜ?マジで一体何が起こってんだよ!」
不可解な事を口にしてみても視線は無くならない。むしろさらに強くなっている気がする。純粋な羨望の中に、明らかに嫉妬とか恨みとか呪いでも込められていそうな熱く深く刺さってくるものも混じっているような。訳が分からないながら、お前ら揃ってそんなに罵られたい性癖でも持ってんのか、とは、懸命にも口にしなかった。
「にしし。とりあえずさ、リィンの事追っかけた方がいいんじゃない?クロウ」
「そ、そう、だな。リィンは混乱していると思うが、このままだと明日も部屋から出てこない事態になりそうだ」
「つってもな……」
何の憂いも無く心底楽しそうに笑うミリアムと、どうやら何故か歪んでいるらしい眼鏡をしきりに押し上げる誰よりも混乱した様子のマキアスという対照的な二人にそう言われ、クロウは頭を掻いた。あんなおかしいリィンを放っておく事は確かに出来ないが、だからと言って正直事態を全く把握できていない状況でどうやって声を掛けてやったらいいのか分からない。
「それじゃあヒント、あげる」
「お、サンクス」
するとフィーが、若干声を潜めて話してくれた。このにっちもさっちもいかない状態が好転する良いヒントだろうかと、少しだけ期待しながら耳を傾ける。フィーはいつもの眠そうな瞳をほんの少しだけ真剣に細めながら、こう言った。
「今のリィンは、いつも以上に素直」
「むしろトドメ?!」
「ああーフィー!それはヒント与え過ぎだよー!」
「今のがそんなにヒントになんのかよ!」
嫌いだと笑顔で言われたことが何よりもリィンの素直な気持ちとでも思えばいいのだろうか。さらにショックを受けたクロウの背を、問答無用でアリサが押しやった。
「もうっいいから行ってきなさいよ!クロウだけなんだから、リィンに「嫌い」だなんて言われたの!」
「マジかよ?!それはさすがに隠し切れないほどショックなんですけど!」
「うるさい。貴様も男ならきちんとけじめをつけて来い」
「嫌いだって言われた相手に男としてどうやってけじめをつけろと?!」
心にダメージを受けながらも、早くリィンの所に行って来いと満場一致でエントランスを追い出され、クロウはとぼとぼと階段を登るしかなかった。アリサたちはそうして疑問まみれで去っていく背中に、とうとう真相を告げることは無かったのである。
「……で、でも本当に、あのまま何も知らない先輩をリィンの元に行かせてよかったんだろうか……」
「ふん、いいのよ。ただ、盛大に勘違いしたまま本当に「嫌い」になっても私は知らないから!」
「対話して真実に気付かなかった場合は、それまでの男だったという事だ。振るいにかけられてむしろちょうどいい」
「そだね。本当にリィンを見てたなら、クロウだって気付くはず。気付かなかったら「嫌い」の器じゃなかったって事で」
「わー、みんな悪そうな顔してるー。んーでもボクは何だかんだ言ってクロウが上手くやっちゃうと思うけどなー」
好き勝手にそれぞれの意見を口々に述べる声は、幸いクロウまで届かなかった。届いていたとしても、これからの事を考え込んでいた耳には満足に入らなかっただろう。それだけ真剣な面持ちで、クロウは201号室の前に立った。拳を持ち上げ、躊躇していた時間はほんの僅か。先ほど背中を怒涛の勢いで押された影響か、分からない事を考えていても仕方ないという思い切った心境になっていた。開き直った、とも言う。
「おいリィン、いるんだろ?入るぞ!」
一応三回ノックして、ドアノブに手を掛ける。開かない事を覚悟していたドアはあっけなく開いた。部屋に逃げ込む事で精一杯で、鍵をかけるのを忘れてしまったらしい。部屋の中に入れば、ベッドの上に尻もちをついて後ずさるリィンの姿が飛び込んできた。その顔は未だ赤いままだ。
「く、く、クロウ……!」
「なあ、その反応とさっきの言葉、いくら何でも唐突すぎるしめちゃくちゃだろ。一体どうして、」
「き、来てくれっ!」
「は?」
クロウが歩み寄る傍から壁に背中をくっつけて必死にこちらから離れようとしているくせに、「来てくれ」?思わず足を止めて思いっきり不可解な顔をしてしまう。リィンがまたしても失敗してしまったような表情を浮かべて、慌てて手を振った。
「そう、じゃなくて、違う、来るな、来るなって、言いたかったんだ!」
「お、おお、そうかよ。じゃあまあ、とりあえずこの辺で」
立ち止まったのは部屋の真ん中。近づかない代わりに腕組みをして、さあ話せとばかりに見下ろしてやる。視線をうろつかせたリィンはようやくずるずる背後に移動するのを止めた。覚悟を決めたか、諦めたかした訳ではなく、完全に部屋の角に追いやられてこれ以上移動出来なくなってしまっただけだ。出口はクロウの背後に隠れているドアか、頑張れば窓ぐらいだ。もしも血迷って窓から逃げようとした時は瞬時に捕まえてやると、クロウは一人こっそりと意気込む。しかしその心配も無用だったようだ。
「……え、っと……」
たっぷりとった沈黙の時間、辛抱強く待ったクロウの目の前で、リィンがとうとう震える声を上げる。基本的に誠実なこの後輩が、いつまでも自分だけ黙り込んだままでいるはずがないというクロウの読み通りだ。ベッドの端っこで可哀想なぐらい縮こまりながら、リィンの薄紫の瞳がやっと、躊躇いがちに向けられる。
「……クロウ、俺は今、とても普通……いや、変、なんだ」
「ああ、そりゃ十分分かってる」
「今日、旧校舎でちょっと、新種の魔獣と戦闘したら、珍しい状態異常に掛かったようで……今の俺の言動は、そのせいで変、になってしまっているんだ」
たどたどしく、それでも今度は意味の分かる言葉を吐き出すリィン。なるほど、とクロウはようやく納得出来た。今日は旧校舎の探索に行く予定は入っていなかったはずだが、何かと問題を呼び込む性質のリィンが急に用事でも出来て潜る事になった姿など瞬時に思い浮かべることが出来る。その時にこの異常を貰ってきてしまったのだろう。
「ベアトリクス教官にも見てもらって、きっと一晩で治るだろうから様子を見ましょうって、言われているんだ。だから……だから、頼む、今日は俺の事を、放って、おいてくれ……!」
膝を折り曲げて、自らの腕を抱き締めながら、リィンはやっとの様子で言い切った。途切れ途切れの声は小さいものだったのに、まるで限界まで声を張り上げたかのように肩で息をしている。今の言葉も、神経を尖らせて絞り出したものなのだろう。ぎゅっと両の手を握りしめている姿はいっそ哀れであった。頬の赤みもまだとれない。普段よりも水分の多い瞳を見下ろして、クロウは一つだけ息をついてから、ゆっくりと踵を返した。
「……そうだな、調子悪いのは確かなようだし、これ以上俺が突き回してさらに混乱させんのも気の毒だ。今日は一人でゆっくり休めよ、明日治らなかったらその時こそ何かしら手は打ってやるからよ」
「あ……」
ひらりと軽く手を振って、クロウは開け放たれたままだったドアへと向かう。その言葉は本心でもあった。リィンが本当にこれ以上関わらないで欲しいと拒絶しているのなら、潔くここは身を引いた方が良い。余計な負担を強いたくはなかった。今は一人にして心を落ち着かせ、先の事は明日一緒に考えてやればいい。
リィンが本当に、拒絶しているのならば、だ。
「クロウ」
小さく細い声が、ドアノブに手をかけ今にも部屋から一歩外へと出そうな背中へ辛うじて届く。それは。
「……そのまま、行って、くれ」
その言葉は、クロウを。
「ったく……仕方ねえな」
バタンと。クロウはドアを閉めていた。廊下に出る事無く、リィンの部屋に留まったまま。振り返れば、どうして、と顔面いっぱいに書いてあるきょとんとした表情があった。その位置はどうしてか、部屋の隅っこからベッドの上でこちらへと身を乗り出している体勢。あたかも立ち去ろうとしていたクロウへと追い縋ろうとしていたかのようだ。「行ってくれ」と口にしながら、まるで真逆の態度。リィンが己の矛盾にハッと気が付くのと、クロウの口の端がにやりと持ち上がるのは、ほぼ同時であった。
「なあリィン」
ことさらゆっくりと、クロウが足を進める。リィンが再びシーツを歪めながら後ずさる。今までと違って今度は警戒と怯えが含まれた瞳で見上げてくる薄紫に、なるべく優しく笑いかけてやった。それがきっと相手には世にも恐ろしい笑みに見えるであろう事も計算して。
「聞くのを忘れていたんだが。その状態異常って、具体的にはどんなもんなんだ?」
ギシリ、とベッドが音を立てる。クロウが片膝を乗せたためだ。
「例えば、なんだけどよ」
はくはくと、声を出すことを忘れて口を開け閉めさせるリィンの鼻先に。笑みを湛えたクロウが迫る。ベッドに手をつき身を乗り出して、これ以上どこにも逃げる事の出来ない嘘つきに。
「……本来言いたかった事と逆の事を喋っちまう、とか?」
――正直、この部屋に入る前に見当はつけていた。確信したのはさっき。答えは、限界まで見開かれた薄紫が教えてくれている。
「……違う」
「ん、正解ってこったな」
「そ、そうだ。あっいや、違う!そうじゃ、なくてっ」
「諦めろ後輩。自慢じゃないが、人を騙す事に長けてるオレ様にゃ全部お見通しなんだよ。それに状態異常で強制的に言わされてるくせに、お前分かりやすすぎるし」
「……っ?!」
言葉を詰まらせたリィンは目を白黒させた後、観念したようにがくりと肩を落とした。言葉は無くともその態度でクロウの指摘を肯定する。随分とややこしくて奇妙な状態異常だが、まあ今までのリィンの言動を思えば納得の異常内容であった。態度と言葉がまるきり逆なのは、つまりそういう事だったのだ。一見まともに会話出来ていた箇所は、リィンがあえて逆の事を言おうとして言葉を成立させようとした努力の結晶という訳だ。
「しっかし、何で黙ってたんだよ。最初に言っておけばこんなにややこしい思いをする事なかったろうが」
「……俺も、言わないでおこうと思っていなかったんだ。最後は」
「あ?つまり最初は言っておこうと思ったって?ったく分かってても解読が必要だなこりゃじゃあ何で結局言わなかったんだ」
「クロウに……意識的に言わないでしまったから……」
「俺に無意識に、言っちまったから?」
取り繕う事をやめたリィンの言葉は逆にとらえなければいけないと分かっていても頭を使う。そこで再びクロウは笑った。リィンが言ってしまった言葉。クロウに心当たるものは一つしかない。あの言葉の後、実際にリィンだって明確に態度を変えたのだから。
「ックク、それで逃げ出したのか。真実を知られたら、無意識に好きだーなんて告白したのがバレちまうから?」
「う、うううっ……!」
正確に図星を突かれたリィンが悔しそうに唸る。あの時、満面の笑顔で言われた「嫌いだ」の一言。「嫌い」の反対など……「好き」以外にある訳が、無い。
「そうかそうか、リィン君は思わず告白しちまうほど頭撫でられるのが好きだったか!」
「そそそそうだっ!この状態異常のせいで、とても意地っ張りになっているだけなんだっ!」
「違う、少し素直になってるだけ、か?でもお前な、素直って事は少しでも心に思ってるって事だろ?誤魔化せてねえし」
「あ……や、やった……!」
「ん?今度のは言うなれば「しまった」か?」
とうとうリィンは項垂れて頭を抱えてしまう。言葉は逆だが心をそのまま行動に出してしまうリィンの心情は大変読みやすい。目の前に差し出される形になった黒髪を、それではと遠慮なくがしがし撫でてやれば、覗いていた耳が若干染まる。うん、分かりやすい。
「しっかし、これだけの事にあれだけ必死に逃げるもんかあ?確かに男が頭撫でられるの好きだなんて公衆の面前で堂々と主張すんのが恥ずかしいって気持ちは分かるけどな。お前だって所構わず撫でてくるじゃねえか。今更じゃねえの?」
「………」
手の平の下から、じっとりとリィンが見つめてくる。何かを訴えてくるのだけは分かるが、見つめられるだけではさすがに言葉を読み取ることは出来ない。クロウは撫でがいのあるくせ毛を思う存分掻き混ぜながら首を傾げた。
「なんだ?」
「何でもある……」
「何でもないじゃねえよ、あるだろ言葉通り。言えって」
「クロウなんて好きだ」
唐突にぼそりと呟かれた内容に、クロウが思わず撫でる手の動きを止めてしまったのは仕方がなかった。
「……っ、ぎゃ、逆だって分かっててもそれはさすがに心にくるな?」
「好きだ、好きだ好きだ好きだ!クロウなんて大好きだっ!」
「おかしいな、今俺罵られてんのにそう感じねえな、言葉の魔力ってすげー。つーかそんなに嫌い連呼すんなよ!何なんだよ!」
クロウが手を止めた隙にぶるぶると頭を振ったリィンは、衝撃で落ちたその手をきゅっと己の両手で握りしめた。狭い狭いベッドの上、膝をつき合わせて、向き合えば互いの瞳が目と鼻の先という距離。クロウの視界いっぱいに広がる瞳は。言葉がいくら嘘をついてもこの色だけは嘘をつかない薄紫は、どこか必死に紅の色を見つめたまま。
「……本当」
震える言葉を、吐いた。
「クロウなんて……「嫌い」だ」
さて。その言葉が嘘か、真か。
互いに互いしか映していなかった、見開かれた赤の瞳だけが知っていた。
嘘つき少年は嘘をつかない
時は、クロウが第三学生寮に戻ってくる少し前まで遡る。
「ちょっと!リィンが旧校舎で怪我をしたって本当なの?!」
「あ、アリサだ」
「わあ、アリサすごーい!耳聡いね!」
勢いよく食堂の扉を開けて中へと入ってきたアリサに、その場にいた全員の視線が向けられる。一人椅子に座ったリィンの周りをそれぞれ、一見いつも通りのフィーとミリアム、渋い顔をしたユーシスとマキアスが取り囲んでいる状態だった。肩で息をしながらアリサが周りに目もくれずにリィンへ走り寄る。
「だ、大丈夫なの?私も学院で噂を耳にしただけで詳しい事は聞いていないのだけど……シャロン!シャロンはどこ?今すぐ手当を……!」
「落ち着くんだアリサ、すでにベアトリクス教官に診てもらった後だからとりあえず大丈夫だ。それとシャロンさんは今買い出しに出かけているぞ」
「あっ、そ、そう、それならいいのよ」
マキアスに諭されてようやく少々落ち着き始めたアリサ。じっと、たじろぐリィンの姿を頭からつま先まで確認した。
「それで、怪我はどうなの?パッと見た感じ何も見当たらないけれど」
「大した怪我はしていない。ただ、少々やっかいな状態異常にかかっていて、それが治っていない状況だ」
「それって、教官でも治せない状態異常って事?一大事じゃない!」
代わりに答えたユーシスの説明を聞いて再び慌て始めるアリサに、思わずリィンが声を上げていた。
「アリサ、大丈夫じゃないんだ。俺の事は気にして心配してくれ。……あっ」
自分の今の状態もすっかり忘れて普通に喋ってしまったリィンに。アリサが混乱を極めたのは言うまでもない。
「……っ?!やっぱり大丈夫じゃ無いんじゃない!そっそれよりあなたがそんなに素直に弱音を口にするなんて……そんなに辛いのね?!い、医者!医者を呼んで!シャロン!シャロンー!」
「そ、そうなんだ!あっ、そ、そうじゃなくって……!」
「あははは!アリサ、ダイコンランだねー!」
「ん、面白い」
「人間、やはりこういう時は一番頼れる人物に縋るものだな」
「君たち面白がったり冷静に観察している場合じゃないだろう!リィン、君はひとまず黙っておいてくれ!アリサも落ち着いて話を聞いてくれー……!」
一人で必死に場を収めようと動いたマキアスの働きによって、しばらくしてから食堂にはひとまずの静寂が訪れた。途中何度かアリサが混乱にどたばた動き回ったり、その拍子にマキアスの眼鏡がぶっ飛んで割れそうになったりとハプニングが起こったが、何とか全てが事なきを得た。ちなみに眼鏡のフレームが少し曲がってしまったマキアスは今若干落ち込んでいる。
「ええと、つまり……リィンが旧校舎に魔獣の落とす素材を手に入れるために、居合わせたフィーとマキアスとユーシスを連れて入ったら見た事のない魔獣が出てきて、そいつに状態異常を掛けられてしまったって事ね。その……口に出す言葉がすべてあべこべになってしまうっていう……」
「ついでに、そのせいでいつもより正直に口が滑りやすくなってる事とー、一日で治ると思うから様子をみましょうってキョーカンに言われてる、だよね!」
「違う……あー、えーと、その通りだ、うん」
申し訳なさそうな表情で、リィンはまとめたアリサと付け足したミリアムに頷いた。
リィンが本日もいつものように生徒会の手伝いに励んでいた所に、トリスタの町中で商品が足りないと困っていた場面に出くわし、最初は一人で旧校舎に入ろうとしていた所を三人に捕まったのである。学院の中庭でチェスの本を持ったマキアスと馬術の本を持ったユーシスが鉢合わせして本を読む場所について口論となり、それを花壇の手入れが終わったフィーが暇だなあと思いながらぼんやりと眺めていて、そこにちょうどリィンが通りかかった訳だ。
問題の魔獣は無事に打ち倒したが、突然変な事を言い始めたリィンを慌てて医務室へと連れて行き、ベアトリクス教官に診せた後寮へと戻ってきて現在へと至る。
……そこまでマキアスが説明するのにどれだけの時間が掛かっただろうか。疲れた様子の彼の肩を、フィーが無言で叩いてやっている。
「それにしても新種の魔獣に初めての状態異常だなんて物騒ね……まさかまた、あなたたちが喧嘩でもしてリィンが無駄に庇ったりした訳じゃないわよね?」
じっと、一人大騒ぎしてしまった照れ隠しか八つ当たりか、アリサの目がユーシスとマキアスに向けられた。数か月前の実習での出来事が蘇る。アリサは実際にその現場にはいなかったが、フィーやエマにその時の状況を個人的に詳しく聞いていたのだった。恐るべし女子間のネットワーク。ずり落ちる眼鏡をマキアスが正している間に、ユーシスがふんと不愉快そうに答えた。
「あんな失態を二度も犯すものか。レーグニッツが初めて見る魔獣に一人騒いで集中力が切れたのが問題と言えば問題かもしれんがな」
「なっ?!僕は新種の魔獣だから注意を促していただけだろう!いつも通りの顔をして、君が油断していたのが原因じゃないのか!」
「ふ、二人とも、油断していなかった俺が悪くないんだ!喧嘩はもっとやれ!」
「リィンは黙ってて!色んな意味で!」
このままだとまた言い争いに発展しかねないので、ついでに慌てたリィンの発言に分かっていても混乱しそうになるので、アリサは話題を変える事にした。先ほどから面白そうににこにこと笑顔でいるミリアムへと顔を向ける。
「そ、そういえばミリアム、あなたはどうして一緒にいるのよ。旧校舎には入らなかったんでしょう?」
「うん、医務室でちょうどばったりリィン達と会ったんだ!面白そうだから部活サボってついてきちゃった!ちょうどマルガリータの料理食べて倒れた男子を運び込んでただけだったし」
「そ、そう……また犠牲者が出たの……」
「リィンってば面白いんだよー!ね、ね、リィン!」
悪意はない、純粋な笑顔でぴょんとリィンの目の前に踏み込んだミリアムは、きらきらと輝く瞳で戸惑うその顔を覗き込んだ。
「ボクはリィンの事が大好きだよ!リィンはボクの事、好き?」
あまりに直球な言葉に、その気がないと知っていてもドキッとする一同。特にアリサが赤面してしまう。少しだけあっけにとられたリィンは、すぐに笑顔を浮かべてミリアムに答えた。
「いいや、俺もミリアムの事が好きじゃないよ」
優しげな表情とは真逆の返事。ミリアムは楽しそうにけらけらと笑い転げる。
「ね!笑って好きじゃないよ、だって!いつものリィンとは全く違って面白いでしょ!」
「ミリアム、あなたね……リィンで遊ぶんじゃないの!」
「リィン、私は?」
「フィーも好きじゃないよ」
「やった」
「フィーも便乗しない!」
イエーイとハイタッチをかますミリアムとフィー。混乱させるのは心苦しいが楽しんでもらえるのは全く構わない、とリィンもどこか嬉しそうだった。遊ばれて喜ぶなんてどこまでお人よしなの、とアリサが呆れた溜息をつく。その横から、顎に手を当て何かを思案していたユーシスがリィンへと目を向けた。
「リィン、俺はどうだ」
「はっ?!ユーシス、あなたまで!」
まさかユーシスまでそんな事を言い出すなんて、とアリサとマキアスが目を剥く。リィンは瞳を瞬かせた後、先ほどと変わらず普通に答えた。
「?好きじゃないよ」
「アリサと、この男もか」
「いいや、好きじゃない」
「!!」
「ふん……やはり奇妙だな」
せっかくのチャンスにまとめて他の人間の口から尋ねられてしまった事と、逆と分かっているとはいえ好きじゃないとか言われたショックでアリサが閉口している間に、ユーシスへとかみついたのはこの男と指されたマキアスだった。
「いきなりどうしたんだ、君までリィンをからかった挙句奇妙だなんて!」
「からかってなどいない。言いたい事と逆の事を口にしてしまう状態異常の法則性を疑問に思ったまでだ」
「一体何のことだ?!」
「ならば問うが、一般的に「好き」の反対語は何だ、レーグニッツ」
「そんなの決まってる、「嫌い」だろう!……ん?」
即答して、すぐにマキアスは気が付いた。そう、「好き」の反対は、「嫌い」ではないのか。「好き」と言いたくて逆の言葉が出るのなら、その時は「嫌い」が出てくるべきではないのか。ユーシスはそこに違和感を持ったらしい。
逆の言葉しか喋る事の出来ないリィンがさっきから「好き」の代わりに口にしているのは「嫌い」ではなく、何だかふわふわしている「好きじゃない」で。確かに逆の言葉ではあるのだが……妙に気になる。
「言われてみれば、確かに何か変ね……」
「えー?もしかしてリィン、本当はボクたちの事本当に好きじゃなかったりする?」
意地悪そうに目を細めたミリアムにリィンは心外だとばかりに勢い良く首を横に振る。固く口を閉じたままで、ここだけは勘違いさせられるものかという決死の感情が伝わってきた。
「あなたは本当に、自然に言っているつもりなのね?その……す、す、好き、って」
どもりながらのアリサにもしっかりと頷く。ここでリィンが嘘をつくとも思えないので、真実なのだろう。不思議そうに全員で顔を見合わせていると、ぽつりとフィーが零した。
「でも何か、リィンらしいかも」
「「え?」」
「リィンは皆に分け隔てなく接してくれるから。だから皆平等に、「好きじゃない」のかもしれない」
例え反対の言葉しか出てこなくても。皆が好きだから、大事だから、柔らかな「好きじゃない」を。
そんな気持ちで無意識に言葉を発しているのかもしれないと。そういう事なのだろうか。
皆が好きな事には変わりないのに、とフィーの言葉にリィンが首を傾げる。しかしそれ以外の全員が納得していた。
「確かにこの上なくリィンらしい言葉だな。まったく、君は状態異常の時でさえこちらに気を遣うのか」
「にしし、それじゃあリィンにとってすごくすごーく特別な人にだけ「嫌い」が出てくるのかもしれないね!」
「まあ、そう考えるのが妥当か」
「アリサ、ちょっとがっかりしてる?」
「し、してないわよ!」
「……?」
リィンだけが釈然としない中、混沌としていた食堂にようやく和やかな空気が流れる。気付けば時刻は夕方に差し掛かっていて、シャロンや他のZ組のメンバーもぼちぼち戻ってくる頃だろう。その事に気付いたリィンが慌てて立ち上がった。
「俺は部屋に戻らないでおくよ。ほかの皆にはこの事を言ってほしい、迷惑を掛けないでしまうから」
「えー。リィン、部屋に戻っちゃうの?」
「えっと……迷惑をかけてしまうから、ほかの皆には言わないでほしい、って事ね」
「迷惑とかでは決してないが、まあ無用な混乱は避けた方が無難、か」
「そだね。今日は大人しくしておいて、治ってから皆に説明すればいいし」
「そういう事なら……リィン、何かあったら僕たちを呼んでくれよ。夕食も後で持っていこう」
頷いたリィンは、声を出さずに口の動きだけでありがとうと伝えてくる。その顔色は疲れからか若干悪い。心配だが、全員ここは大人しく見送る事しか出来なかったのだった。
そうして食堂を後にしたリィンが、まるでこの瞬間、出会うべくして出会った銀色が。
15/04/01
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