リィンは顔を上げた。今日は雪もチラつく寒い日だというのに、視界には行き交う人ごみの群れがざわめきながら広がっている。リィンの背後に鎮座するごつい人形が二対並ぶ銅像が目印のこの広場は、元々休日になると待ち合わせ場所として人がごった返す場所だった。しかし今日はいつにも増して賑わっているように思える。周りにはリィンの他にも携帯を片手に誰かを待つ人たちで一杯だった。待ち合わせ相手が来て嬉しげに話しながら立ち去るその場所には、次の待ち人が間髪入れずに辺りを見回しながら立ち始める。こうして入れ代わり立ち代わり、広場に集まる人の群れが途切れることは無かった。
そんな群衆をぼんやりと眺めながら、何故だかリィンは申し訳ないような気持ちに陥った。様々な人を再会させ、笑顔で立ち去らせるこの広場から、自分が同じように去ることは無いだろうと確信していたからだ。リィンは少し前からここに立ち続けているが、別に待ち合わせをしている訳じゃない。いや厳密に言えばリィンは誰かを待っている立場であったが、その誰かが来ることは十中八九無いと予想していた。当たり前だろう、別に約束している訳でもないのだから。
はあ、と宙に真っ白な息を吐きだし、リィンは手元の液晶パネルに視線を落とす。実家の愛犬が映る待ち受けの画面には新たなメールの知らせは無い。これも当たり前だった。返信していないのだから、折り返しのメールが来る訳がないのだ。それでも確認するように握りしめていた画面を定期的に見つめてしまう自分に、リィンはハッと自嘲の息を漏らす。
本日リィンがとある人物に向けて送ったメールは、たった一通だった。
『今から、騎士人形広場に来ることは出来ますか?』
これだけである。理由も何も伝えることは無く、『どうした?』とすぐに心配そうに返ってきた優しいメールに返事も送っていない。何と伝えればいいのか分からなかった。そうやって気まぐれなメールを送ってしまった事すら後悔していた。あまりにも独りよがりで、相手の都合を何一つ考えていないメールだと思った。
この、チョコレートの甘い香りに満ち溢れる男女の幸福な日に誘いをかけるような相手ではない。何せリィンがメールを送ったのは、先輩で、悪友で、黙って立っていればモテモテだと周りに評されて、そうでなくても普段から男女問わず多くの友人に囲まれている人気者な、同性の男なのだから。
リィンがその恋を自覚したのは、つい先日の事だ。バレンタインという日に休日がぶつかったとあって、この日に意中の男子に約束を取り付けようと数日前から女の子たちは気合を入れているようだった。件の人気者である先輩も例外ではない。勇気を出して誘うんだと、想いを伝えて手作りのチョコを渡すんだと話す女子の会話をたまたま立ち聞きして、思わず頭の中でその先輩と女子が一緒に歩く姿を想像してみて、そうして気付いてしまった。ああきっと、あの子が夢見る先輩との関係を、自分も望んでいたのだと。ひょんなことから知り合って、気付けば誰よりも一緒につるむ様になっていたあの先輩に、いつの間にか少女のような恋をしていたのだと。
リィンは己を嘲笑った。きっとあの面倒見の良い先輩にとって、自分は数いる後輩の内の一人でしかないだろうに。上手く人を頼る事が出来ないリィンが、その甘やかし上手な先輩にだけは少しずつ寄り掛かる事が出来るようになったと自分で気づいた時にはもう、惹かれてしまっていた。相手の万人に向けられる優しさに勝手に縋って、惚れて、今回とうとう身勝手にも嫉妬してしまったのだった。その結果があのメールだ。先輩は確か、今日は別に特定の女の子と約束をしていなかったはずだ。複数の誘いはあったはずだが、結局選んだのはよく一緒にいる友人たちと遊びに行く事だったようで、リィンも普段から良くしてもらっている人たちだった。それなのに、これだ。今まで特に意識もしていなかったはずの2月14日という一年に一度の日に、あの先輩を一人で独占したいなどと、この気持ちを自覚する前の自分なら気でも触れたのかと思うほどの、醜い感情。分かっているのに留まる事を知らないそれに、最早呆れるしかない。
この広場で待ち合わせをしている人たちは、やはり男女が多い。そわそわと落ち着きなさそうにポケットに手を入れる男性に、嬉しそうに駆け寄る女性。遅いと頬を膨らませる女子と、謝りながら手を繋いで歩き出す男子。リィンがこの場所に来て一人で帰っていく人物は一人もいない。カップルも、親子連れも、友達同士も、複数で連なって、雪が舞い散る中を揃って笑顔で立ち去っていく。今日、この広場に一人で来て一人で帰るのは、俺が最初で最後の貴重な人間かなとリィンはぼんやり考える。この場所に来たのも、何となくだ。あの先輩と遊ぶ約束をして待ち合わせる場所によく使うのが、この馴染みの騎士人形広場だったと、ただそれだけの理由だった。
雪の結晶が落ちるパネルを払ってからもう一度、待ち受け画面を見る。そろそろこの無駄な時間を終わらせようか。あの先輩は先に約束していた友人たちを放ってしまうような人間では無い。おそらく気にはしてくれていると思うので、後日顔を合わせた時にでも「あの時はどうした」などと尋ねてくれるだろう。その時は、メールを送る相手を間違えましたとでも伝えて、すみませんでしたと笑顔で謝ろう。そうすれば、あの人も笑ってくれる。これ以上心配をかける事などなくなる。
だから、今日だけは。どこか別な場所で別な人たちと笑っているであろうあの人の、心の片隅にいさせてほしい。きっと告げる事などないこの想いを、噛み砕いて飲み込んで誰にも触れられないようにするその代償に。
せめて、今日だけは。
「おい、こら」
「いてっ。……?……っ?!」
手元に視線を落として一人の思考に沈んでいたリィンの頭にその時、こつんと軽い衝撃が走った。思わず声を上げたが痛くは無い。その、絶妙な力で小突いてきた腕と、同時に聞こえた声に心当たりがありすぎて、リィンは一瞬呆けてからバッと隣を見上げた。今だ信じられない思いでいっぱいのリィンが想像した通りの人物がそこにいた。
「え……。く、クロウ、先輩?」
「おう、クロウ先輩様だ」
リィンの頭を小突いた手をそのまま広げてよっと挨拶してくれたのは、今までずっとリィンの頭の中を占めていた先輩、クロウその人であった。まったく予想していなかった登場に固まるその表情を見て、クロウはむっと紅の目を細めてリィンを見た。
「つーか、そんなに意外そうな顔をされんのはさすがに心外なんだが?誰がここに俺を呼び出したと思ってんだ」
「あ、え、でも……俺、返信してないはずじゃ」
「そう!どうしたって送っても返事こねえから無駄に焦ったっての。おかげで雪の中汗かいちまったぜ」
あーあちいとやや大げさに手で己を仰ぐクロウ。確かに少しだけ息が切れた様子だった。リィンからのあのメールを見て、汗をかくほど急いでここまで駆けつけてくれたというのか。待っているなどと、一言も書いていなかったのに。未だ何が起こったのか訳が分からないリィンは、酸素不足のようにはくりと喘ぐ。
「ど、どうして……」
「いやいや、それを聞きたいのは俺の方だろ。どうした?いきなりあんなメール、珍しいな」
「俺は……その、ま、間違った、というか、」
「ふーんへーえほーお、間違った、ねえ」
「そそっそれより!どうして先輩はここに……?!今日は確か、トワ先輩たちと一緒に出掛ける約束をしていたはずじゃ……」
「あー、あいつらなら大丈夫だよ、そうでなくともしょっちゅう顔つき合わせてるし、一言断ってここまで来たしな。んで、それを言うならお前もだっての」
こつん、と再び頭を小突かれる。何がお前もなんだろうと何のリアクションも返せないまま心底疑問で首を傾げれば、深い深い溜息が返された。何かに呆れているようで、しかし突き放してはいない不思議な溜息だった。それを吐き出しきると、じっと半眼で見つめられる。
「リィン、お前さ、今日色々誘われてただろ。女子やら男子やらより取り見取り」
「より……?まあ、はい、声を掛けて貰ってはいました」
「俺はてっきりその中の誰かと一緒にいるもんだと思ってたんだがな。何でこんな所で一人でいやがるんだよ」
まるで責めるような口調のクロウが言う通りであった。リィンは今日、自ら望んで一人を選んだ。前日に仲の良いクラスの女子や男子に、良ければ一緒にとか、何もないなら慰め合って遊ぼうとか、色々と声を掛けてもらっていた。それを全て断ってリィンは今ここにいる。理由なんてたった一つしかない。リィンが今日本当に一緒にいたい相手は、別な誰かさんだったからだ。完全なる自分勝手のワガママだ。しかしそれは目の前に人物には全力で後ろめたい想いのため、リィンは思わず顔を伏せていた。
「……今日は、一人でいたい気分だったんです」
「ふーん。それなのに俺にこんなメール寄越してきたって?」
「………」
最早言い訳も下手くそな嘘も思いつかない。黙り込んでしまったリィンの頭に今度やってきた衝撃は、小突くよりもっと軽いものだった。ぽんぽんと、大きな手の平で慰めるように触れられる。顔を伏せたままだったので実際には見ていないが、リィンの脳裏にはクロウの困ったように笑う表情が瞬時に映し出されていた。仕方がないなと笑いながら、いつもこうして限りなく優しく触れてくれるのがクロウだった。
「悪い。少なくともメールくれた事を怒ってる訳じゃねえからな。人恋しい時は誰だってある、そんな時はいくらでも呼び出していいからよ。今日みたいに超頼りになる先輩がいつでも駆けつけてやっから」
頭に触れてくるあたたかな手の平と同じように柔らかな声と言葉。リィンは今日一番泣きたい気持ちになった。一人でいる時はむしろ凪いでいて、こんな鼻の奥がつんとするような痛みを伴う感情など降りてこなかった。きっと、目の前で見せつけられるからだ。己に向けられるこの瞳と声が、真に自分だけに向けられることは無いという、現実を。
「……クロウ先輩は、ずるいです」
悲しくて、切なくて。気付けばついぽろりと愚痴のようなものが零れ落ちていた。頭に触れていた手が離れ、うん?と戸惑った声が降ってくる。まだまだその顔を見上げられないまま、リィンは続けて零れ落ちていく言葉たちを止める事が出来なかった。
「かっこよくて、頼りになって、ちょっとだらしのない所もあるけど締める所は締めて、誰に対しても優しくて、人気者で。そんな、俺にとって手の届かないような人なのに、こうやって俺のために駆けつけてきてくれたり……先輩は優しすぎます。ずるいです。先輩がそんなんだから、俺は、」
きゅっと、握りしめたままだった携帯に力を込める。いつでもそうだ。クロウは優しすぎる。リィンが少しでも困っているとすぐに手を差し出してくれる。出会ってからずっとそうだった。だからリィンはクロウから離れられなくなる。勘違いしてしまいそうになる。この人の優しさは自分だけに向けられているものだと。この人の笑顔は自分だけのものなのだと。そんな事、あるはずないのに。クロウがリィンにこうして優しく触れてくれるたびに、リィンの中にはそんな優しさなどにふさわしくない醜い独占欲が湧き出てしまう。そんな自分が嫌で嫌でたまらなくて、それでも生まれてくる想いを捨てる事は出来なかった。
クロウがいつまでも、残酷に優しすぎるから。
「……俺は……」
そんな、クロウの事が。
「……俺は、?」
それきり口をつぐんでしまったリィンに、静かな声が返される。
「なあ、リィン。俺は?その続きは?」
「………っ」
先を急かす声に、答える事が出来ないリィン。唇をかみしめて俯くその頭の上から、低い呻き声が聞こえた気がした。
「……ずるいのは、どっちだっての……」
聞き取ってしまった言葉の意味を、考える暇は無かった。気付けば握りしめる右手を取られ、俯く顎も強引に取られ、リィンは無理矢理顔を上向かせられていた。
「あのなあリィン、これだけは言っておくぞ」
真正面からかち合った朱の瞳は、想像以上に至近距離にあった。背後の銅像の土台に背中を押し付けられ、どこにも逃げられない状態でリィンはクロウと顔を合わせる。鼻先がくっつきそうなほどの距離の中、大きくリィンを映し取るその瞳に、綺麗だ、と場違いな想いを抱いた。
「……俺は別に、誰に対しても優しい訳じゃねえよ」
告げられた低い声は、今まで奥底に押し殺してきたものを少しずつ引っ張り上げてきたような、引き絞ったもので。
「お前は俺の事随分買い被ってるようだがな。訳分からねえ意味深なメール貰って、他の何もかもをかなぐり捨てて駆けつけるような事、誰にだってする訳ねえだろ。今回の事だけじゃない、お前がまあ気付かないのは仕方がないのかもしれねえが、これでも相手選んでんだ。お前みたいに興味もねえ奴に無駄な愛想なんて振りまける人間じゃねえんだよ、俺は」
はあ、と吐き出す息さえ余す事無く相手の顔にかかる距離で。目を見開くリィンを映したまま、クロウが瞳を細める。不思議だった。この先輩の泣き顔も一度も見たことが無いのに、まるでその表情が泣き出す寸前のもののように思えた。
「……たった、一人だ」
念を押すように、言い聞かせるように。唇でさえ触れ合えそうな位置で、リィンの大好きな声が言葉を紡ぐ。
「俺が、ここまで気を配る奴は、いつでもどこにでも駆けつけてやりたいと思うのは。この世にたった、一人だけだ」
――息をすることも忘れて、そうやって見つめ合ってどれぐらい経っただろうか。息苦しくなって、震える吐息をはっと吐き出してからようやく、自分が呼吸もしていなかったことに気付いた。リィンの時が動き出したのを見て、クロウがようやく顔を上げる。痛みを感じるほどの力で固定されていた顎の手も外され、手首を掴んだままの腕も力が抜ける。しかしそこだけは何故か完全に離されることが無く、瞬きして戸惑うように見上げれば、ウインクを一つ返された。にやりと笑う口元を見て、クロウがさっきまで笑う事無く至極真剣な表情で己を見つめていた事に、リィンはたった今気が付いた。
「腹減ったな、行くぞ」
「……えっ?」
「今日は先輩が奢ってやる。感謝しろよー、この万年金欠の俺が人に奢るなんて、めったにねえんだからな」
軽く引っ張られ、突然の展開についていけないリィンは簡単に足を動かす。そうして腕を引っ張られて歩き出しながら、何とか尋ねていた。
「い、行くって、どこへ?」
「あーそうだな、適当にその辺の喫茶店にでも入るか?多分今の時期ならどこにでも置いてあるだろうし」
「え、えっと、置いてある、って……?」
「残念だがな、後輩君。今日お前が食えるメニューはすでに決まってんだよ」
振り返ったクロウは、きょとんと見つめるリィンへ笑いかけた。まるで何かを吹っ切ったような、それはそれは清々しい楽しそうな笑みだった。
「チョコレート」
「……は?」
「2月14日という今日この日に人を呼びつけておいて天然告白ぶっ込んできやがったと思ったら寸止めして一人で勝手に全てを諦めたような顔しやがって……覚悟は出来てんだろうな?この俺が今まで散々お前贔屓してきた事にすら気付いてなかったとか、マジ、有り得ねえだろ朴念仁が」
「は、え?」
「こうなったらもう手段は選ばねえ。俺からのバレンタインチョコを山ほど食わせて、今まで溜め込んでた想いをたっぷり聞かせてやる。もう腹一杯だっつっても今日は許してやらねえ、むしろお前からもさっき言いかけた言葉含めて全部引きずり出してやるからな。はーったく、もっと早くこうしておくべきだったぜ……」
途中から顔を正面に戻したクロウは、半分はブツブツと独り言のようにとんでもなさそうな事を口にしている気がする。未だに事態を上手く飲み込めていないリィンは、とりあえず把握した部分だけを復唱してみせる。
「チョコレート……」
「おう」
「クロウ先輩が、俺に奢ってくれるんですか。バレンタインの日に」
「そういう事だ」
なるほどと頷いたリィンは、己の手首を握る温もりを感じながら、必死に足を動かして目の前の銀色の後頭部へ声を張り上げた。
「お、俺も、奢らせてください!」
「あ?」
「チョコレート……クロウ先輩に!」
何だかまだよく分からないが、どうやらクロウがリィンの事を少しでも特別扱いしてくれていた事だけは分かった。だから自分も、もう少しだけ甘えてみてもいいのかなと、勇気を出してそう伝えてみれば。一瞬だけ立ち止まったクロウがすぐに歩き出しながら、返事をするかのように手首を握る手に力を込める。
「……上等だ」
そうして再び引っ張られながらリィンは。頭よりも先に心が全てを理解したようで、自然と口元に笑みを浮かべていた。嬉しくて、幸福な気持ちが溢れてやまない。どうしてだろうと首だけを傾げさせながら、リィンは足を動かしたまま一度だけ振り返った。まるでこちらを見送るように立ち続ける騎士人形の銅像が、すぐに見えなくなる。
そうしてまた一組の笑顔溢れる待ち合わせの二人が、バレンタインで賑わう騎士人形広場を後にした。
後日、その全てを目撃していた群衆の中の特殊な趣味を持つ少女たちが興奮のあまり何人かぶっ倒れたらしいとまことしやかに囁かれたり、騎士人形広場で片想い相手に告白すると上手くいくという都市伝説が生まれたり、公衆の面前で何やってんだこのバカップルと噂を聞いた友人達にからかわれる黒髪と銀髪がいたりいなかったり、したという。
ビター・スイート・ハート
15/02/14
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