この、少々こじんまりとした部室に通いだして、もう半年ほどになる。自分で物語を書くという楽しくも難しい作業にも何とか慣れてきた。共に文学部を支える部長のドロテとも、ある一点を除けば大変良好な関係を築いている。エマは現在とても充実した部活ライフをおくっていた。
……そう、とある大きすぎる一点を除けば、だ。
「エマさんの小説には、何かが足りません」
ある日、いつもの部室でドロテと向かい合わせに座っている時、おもむろにそう切り出されたのもまた、その唯一の一点のためだった。
「エマさんの堪能な語彙力も情緒溢れる文章力も申し分ありません。ですが、何か足りないんです、決定的な何かが。何が足りないのか……エマさんは分かりますか?」
「え、えっと……すみません、至らない所はたくさんあるとは思うんですけど、具体的に何が足りないのかはちょっと……」
「分かりました、言いましょう。エマさんに足りないもの、それは即ち……萌えです!」
パン、と軽く机を叩いて、ドロテは身を乗り出してくる。
「萌えですよ、萌え!男の子に対する、あるいは男の子同士の関係性に対する萌えがエマさんには足りません!心の底から込みあがってくる抗いがたいあの熱いパッションが伝わってきません!ああもったいない!惜しい!これほどの実力を持つエマさんが萌えを取り入れればきっと、帝国中に散らばる我らが同胞たちの間で神とあがめられてもおかしくない書き手となり得るのにっ!」
「は、はあ……」
「エマさんは今まで生きてきた中で何か感じた事はありませんか?!男子と男子が無邪気に語り合っている姿なんか見たりして何か感じ入る事はありませんでしたか?!いいえ男子でなくとも、男と男!男と男が同じ空間に存在する所で何か!思う事はありませんか!」
「な、何故男性だけが対象なんですか……?!」
「はっ!ま、まさかエマさん……」
今度は仰け反るように椅子から立ち上がったドロテが、何か恐ろしいものをみるような目でエマを見つめる。
「同じクラスの銀髪の女の子と一緒に勉強している姿をよく見かけましたが……まさか、ソッチの人でしたか?!」
「何の話ですか?!」
「そ、それならばそうと言ってくれればよかったのに……!ベクトルは真逆でも、私はソッチにも理解を示しているつもりです、個人的に萌えはしませんが。そうですね、良いものですよね……女の子同士というものも」
「ちょ、ちょっと待ってください部長!私はその、そういう特殊な嗜好は持ち合わせていませんから!フィーちゃんとも他の女の子とも普通のお友達ですからっ!」
エマが必死に言い募れば、熱くなっていたドロテも分かってくれたらしい。しばらく押し問答を繰り広げた後、落ち着きを取り戻したドロテがどこか残念そうに元の席に座る。
「そうですか、エマさんはまだどちらにも目覚めていませんか……。目覚めていないのにこんな熱き男の子同士の爽やか友情物語を書くとは、ある意味恐ろしい才能ですね……」
「そ、それ、褒められていますか……?」
「まあいいでしょう、エマさんはこれからという訳ですね。私の見立てによりますと、あなたにはコチラの素質がある……後は開花するだけです。そこで!」
再び身を乗り出したドロテの目には、二人分の眼鏡越しだというのに並々ならぬ熱意が篭っているのを直に感じた。思わず後ろに身を引くが、視線は逸らせず結局逃げられない。ある意味恐怖さえ感じ始めたエマに、ドロテの無慈悲な提案がつきつけられた。
「男の子観察をしましょう」
「……はい?」
「幸いこの士官学院には様々な属性の男子がより取り見取りです。常日頃から私も眼福の思いですが……そんな多種多様の男子を観察して何か一つ、エマさんの萌え属性を発見するのです」
「も、もえぞくせい……?」
「ちなみに私は眼鏡属性が大好物で……あっもちろん眼鏡男子の事ですよ?普段はきっちりかけている眼鏡をおもむろに外してレンズを磨く仕草とか、勉強用お出かけ用気になるあの人(男)用と密かに眼鏡を用途別に使い分けていたりとか、不用意に眼鏡に触られて普段温厚な眼鏡男子が怒り狂うギャップとか、友人にからかい交じりに眼鏡を取り上げられてムキになって追いかけっこする最中周りがあまり見えないせいで躓いて倒れかけてとっさに体を受け止めてくれた友人のふいの体温にドキッとしたり友人も友人で目が見えないから至近距離で見つめられてこいつ案外睫毛長いんだなとか感じてドキドキしたり……うひいっ!たまりませんっ!私、男子の眼鏡を押し上げる仕草だけで一晩中語りつくせる自信がありますハアハアハア!」
「部長落ち着いてください!鼻血が、鼻血が出ていますから!」
一人で興奮し出したドロテを何とか宥めすかす。実を言うと今すぐにでも逃げ出したい心境だったがそうもいかない。そうこうしている内に鼻にぎゅっとティッシュを詰め込んだドロテが、誇らしげに腕を振り上げた。
「私一人で熱くなってすみません……ですが、きっとエマさんもこうして共に萌えについて語り合える日が来るはずです!そのためにも、男の子観察を頑張ってください!」
「ほ、本当にするんですか?」
「もちろんです!エマさんが一体どのような属性に目覚めるのか……楽しみにしていますよ」
期待の込められた目でにっこりと微笑まれれば、無下に断ることも出来ず……結局エマは、曖昧に笑いながらゆるく頷く事しか出来なかったのだった。
「はああー……あんな無茶な提案、一体どうすれば……」
やっと暴走気味のドロテから解放されたエマが、しょんぼりと肩を落としながら学生会館を出たのは夕陽が沈み切ろうとしている時間帯であった。とりあえず数日間手ごろな男子を観察してきなさいという指令を断る事はとうとう出来なかった。あの勢いのドロテを止める事は難しい。あの期待の眼差しからして、数日後きちんと成果を確認してくるのは明白だ。下手な誤魔化しは通用しないだろう。萌えとやらが見つけられなくても、言われた通り誰か男子を観察しなければ。
「で、でも、観察だなんて……一体誰を観察すれば……?!」
同性ならともかく、異性を観察なんてもちろん初めての経験だ。……いや。エマはとぼとぼと寮に向かいかけていた足を止める。観察、とまではいかないが、今現在進行形で似たような事をしているではないか。本人にも誰にも悟られないように、重要な任務のために、一人の男子を。その事に思い当たったエマの視線の先に、まるで図ったかのようなタイミングで一人の男子生徒が現れた。
「……あ、委員長、今から帰る所か?」
「り、リィンさん」
動揺を何とか飲み込んで応対する。図書館の方向から出てきたリィンは誰かを探すように辺りを見回し、エマを見つけて近寄ってきた。不審に思われないように何とか笑顔を作って答える。
「ええ、ちょうど今部活が終わったところだったんです。リィンさんは?」
「ああ俺はちょっと人を探していて……。そうだ委員長、どこかでクロウを見なかったか?」
「オレ様がなんだってー?」
のしっと。これまた図ったようなタイミングでリィンの肩に件の先輩の顔が現れる。いや、この人に限って言えば本当に図ったのかもしれない。びっくりしたエマだったが背後から急に圧し掛かられたリィンはもっとびっくりしたらしく、肩をびくつかせてすぐさま振り返る。
「クロウっ!一体どこにいたんだよ、キャロルさんが探してたぞ。今日は本を返す約束をしていたんだろう?」
「あーそうだった。それでお前が代わりに探しに出てきた所ってか?相変わらずのお人よしっぷりだこと」
「そう思うなら余計な仕事増やす前に逃げるなよ……。ほら、返す本はどこにあるんだ?運ぶの手伝うから」
「いやあ、実は又貸ししちまっててよ。あいつ今の時間は第二学生寮にいたっけな」
「ええっ?それなら早くしないと、閉館時間になっちゃうだろ!走るぞ、クロウ!」
「マジで?明日でよくねー?」
「良くない!……あ、委員長、そういう事だから帰りがちょっと遅くなるかもしれないってシャロンさんに伝えてて欲しい、ごめん!」
「え?!あ、はいっ」
風のように現れた二人は嵐のようにあっという間に去っていった。ごちゃごちゃ話しながら遠ざかる背中を、エマは思わず立ち尽くしたまま見送る。そうして周りに誰もいなくなり、ぐんぐん伸びる己の影を一時見つめてから、ぽんと思いついた。
「そうだ……リィンさんだ!」
エマは決めた。男の子観察の対象を、リィンにする事に。何せ今まで似たような事をしてきた対象だ、男子を観察するという変な行動をとってセリーヌに小言を言われる心配もリィン相手ならばあまり無いはずだ。それに、リィンはとにかく男女共通して顔が広い。色んな人と係わる姿を見ることが出来るに違いない。まさにうってつけの人選だろう。この、拭いきれない後ろめたさにさえ目を瞑れば。
「ううっリィンさんごめんなさい……しばらく、観察させてもらいます……!」
一人申し訳なさから虚空に謝る。かくして、エマの男の子観察は始まった。
一日目。
とりあえず基本的に放課後の自由時間を観察時間とする事に決めたエマは、さっそくリィンの観察に乗り出す。出来るだけ気配を悟られないように細心の注意を払わなければならない。何せリィンは、人一倍気配に敏い男なのだ。
そういう訳でエマはメモ帳を片手に、いかにも小説のプロットを作成してますよ風を装って遠くから見つめてみたり先回りして座っていたりすれ違ってみたりと、ありとあらゆるパターンを駆使してリィンを追いかけた。放課後知り合いとすれ違うのは毎日あちこち駆けまわっているリィンにとって日常茶飯事なのか、幸い特に怪しまれる事は無かった。
今日はどうやら、平民クラス一年のコレットが落し物を探している現場に出くわしたらしく、一緒になって地面を見つめながら廊下を歩きまわっている。
(こ、ここで手伝いにいったら、観察にならないし……)
少々心苦しいが、そのまま陰から様子を見させてもらう事とする。落し物は程なくして見つかったようだ。何と財布を落としていたようで、中身そのままで戻ってきたらしいコレットが飛び跳ねて喜んでいる。
「あーよかったあ!ありがとうリィン君、一緒に探してもらったおかげで早く見つかったよー」
「ああ、本当によかった。もう落としたりしないでくれよ、大好きな買い物もできなくなるぞ」
「そ、それはとても困る……!次からはもっと気を付けるね!」
財布を大事にしまって大きく手を振りながら笑顔で駆けていくコレットを、リィンも笑顔で見送る。改めて見ても良い人だ。困っている所にあれだけ快く手伝ってもらえれば、助けられた方は非常にありがたいものだ。本人はとんと自覚していない部分だが。
そのまま校舎から外に出たリィンは、すぐさま別な問題へと巻き込まれた。横から突撃してきたミリアムに引っ付かれてしまったのだ。
「わーんリィン助けてー!」
「うわっ?!み、ミリアム?どうしたんだ」
「怪獣に追っかけられてるの!このままじゃボク食べられちゃうよー!」
「はあ?」
「待ーちーなーさーい!」
どすどすと地響きが聞こえてきそうな勢いで現れたのは、貴族クラス一年のマルガリータであった。確かミリアムとは調理部で一緒のはずだ。その憤怒の形相は、傍から見ているだけのエマですら竦み上がるほどのものである。
背中に隠れてしまったミリアムを庇うように、リィンは窮地に立たされていた。不可抗力で。
「見つけたわよ……もう許さないんだからあああ!」
「ほらリィン、あいつだよ!早くやっつけて!」
「ば、馬鹿な事を言うな。えーっと、マルガリータだったよな、一体ミリアムがどうしたんだ?」
「その子、私が作ったクッキーを全部粉々にしちゃったのよ!変なロボットを使って!」
「ロボットじゃないよ、ガーちゃんだよ!」
マルガリータの言い分を聞いて、溜息を吐いたリィンは後ろのミリアムをじろりと見下ろす。こてんと首をかしげて媚を売るミリアムに、通用しないからと首を横に振っている。
「どうしてそんな事をしたんだ」
「えー、だってさ、あれ帝国軍も真っ青な化学兵器だったよ?バイオテロが起こる前にボクが同じ調理部として、責任もって処分しただけだもん!」
「い、一体どんなクッキーだったんだ……何となく想像できるけど……」
顔をひきつらせながらもリィンは、うちのミリアムがご迷惑を……とぺこぺこ謝った。完全に保護者である。横にミリアムを立たせ、頭を押さえて半ば無理矢理下げさせた甲斐もあったのか、マルガリータもそれ以上憤慨することは無く、
「まったく、また試作品を作り直さなきゃならないわ」
などと呟きながらも来た時と同じ勢いでどすどすと立ち去っていった。陰からハラハラと見守っていたエマもリィンと一緒にほっと胸をなでおろす。そこからしばらく、リィンのミリアムへのお説教が始まった。
「気持ちは分かるが、本人の了承も得ないでいきなり手作りのクッキーを粉々にしちゃダメだろう。そもそも、学院内でアガートラムを出すのは禁止されていたはずだぞ」
「んー、じゃあ素手で割るのはいい?」
「素手でも割っちゃいけません。……気持ちは、分かるけど」
「でもあのままにしてたら確実に生徒に犠牲者が出ると思うよ」
「う、うーん……」
結局、クッキーを作られる前に生命が危険そうな材料を先に処分しようという話でまとまった。説教がいつの間にかバイオテロ対策会議となっていたが、任務に行ってきますたいちょー!と元気よく敬礼して立ち去ったミリアムをリィンはそのまま見送った。そのあと一人で、もっと言い聞かせておくべきだったと反省する背中をエマはそっと見守る。
しかし編入してそれほど経ってもいないミリアムにすらあれだけ頼られるとは、リィンの天性のお人よしがなせる技なのか、ミリアムの人懐っこさによるものなのか。さすがお兄ちゃん属性である。これもいわゆる萌えというものの一種なのだろうかと、エマはとりあえずメモしておいた。ドロテのような熱い思いはこみ上げてこないが、とりあえずだ。
(本当に私も、部長のような夢中になれる「萌え」に出会えるのかしら……)
出会いたいような、出会いたくないような、そんな複雑な気持ちを抱きながらも、エマはリィンの観察を続けた。
今日はこのまま寮に帰る、かと思いきやトリスタ市内の公園で偶然ムンクと出会ったリィンは、成り行きでラジオに投稿するハガキの内容を一緒に考える羽目になっていた。あれだけ真剣に考え込んでいるなんて、どれだけお人よしなんだとさすがのエマも少々呆れる思いだった。
「やっぱり季節ネタを入れる方が読まれる確率が高いと思うんだが……」
「確かにそうだね。じゃあ、最近肌寒くなりました、からの面白ネタを考えて……」
「お前ら、こんな所でなーにやってんだ?」
「あ、クロウ」
そこに再び偶然通りかかったクロウも交えて、ハガキのネタ談義はしばらく続いた。クロウがかなりふざけた提案を出し、呆れながらリィンがつっこみつつその提案を修正し、最終的にムンクがハガキのネタへと昇華させる。この連係プレイでそれほど時間がかかる事もなく出来上がったようだ。それまでリィンとムンク二人で考え込んでいた時間を考えるとあっという間の出来事だった。
読まれる事を期待しててねーと嬉しそうに去って行ったムンクを見送ってから、リィンもクロウと連れ立って寮へと帰っていく。
「ったく、もうじき暗くなる時間帯にあんな下らねえことでじっと悩んでるなよなお人よしめ」
「下らない事じゃない、ムンクにとっては真剣勝負なんだぞ。それにアーベントタイムは俺もよく聞いてるし」
「はいはい分かった分かった。あー頭使って疲れた、早く帰って休むぞー」
二人並んだ背中を見つめていたエマはふとその時、思い至った。クロウは今もしかしたら、リィンへの助け舟のつもりで声を掛けたのではないかと。いかにも「面白そうな事に首突っ込んできた先輩」風を装っていたが、事実クロウが混じった事でハガキの内容はすんなり決まっていた。だからエマは、何となくそう考えたのだ。
さすが先輩なだけあって、フォローが上手いな。エマはその時それだけを思った。
二日目。
昨日はリィンが絡んでいたのが女子多めだったせいかドロテの望む萌えみたいなものにあまり出会うことは無かったが、今日はたまたま男子と出会う事が多い日であった。
まずリィンはZ組の教室で声を掛けられた。エリオットとガイウスが、今日は二人とも早めに部活が終わるから、その後ちょっとキルシェでお茶でもしないかと誘ってきたのだ。
「ああいいな、久しぶりだ。シャロンさんの夕飯が待っているから、がっつりしたものは食べられないが」
「あはは、そうだね、シャロンさんの料理美味しいもんね」
「うむ、それではテラス席で待ち合わせよう」
三人とも割と初期の頃から仲が良かったためか、こうして会話している姿はとても和やかだ。微笑ましい想いは沸き上がるが、これは萌えとはちょっと違うだろう。そもそも同じクラスの男子同士でこんな不純な事を考えるなんて、とエマは机に突っ伏したい気分だった。
いくら後ろめたい気持ちになろうとも、とりあえずは観察を続けなければ。教室を出たリィンがしばらくその辺を歩いて通りすがる生徒と二言三言話す姿を、エマは遠くから追いかける。放課後学院内をぐるりと回るのが最早日課となっているらしく、リィンは行く先々で何かと声を掛けられていた。分かってはいたが驚くほどの顔の広さである。学生会館やギムナジウムにも立ち寄りグラウンドの前を通って、さて校門から出ようかとした所で、急にリィンが立ち止まる。気付かれたか、と一瞬ひやりとしたエマだったが、リィンの視線は背後に隠れるエマではなく、左の方へ向けられている。と思ったら、突然駆け出した。方向は先ほど見つめていた左、図書館方面だ。
(い、一体何が?!)
すぐさま追いかけたいが、あんまりぴったりくっついていたらさすがにばれる。少しだけ間をおいてから、エマはリィンの後を追った。学生会館の前、ちょうど一昨日エマがリィンと顔を合わせた場所でその背中を見つける。一緒にいたのは、どこか申し訳なさそうに頭に手を置くマキアスと、いつも通りの尊大な態度のユーシスだった。
「すまないリィン、僕も頭に血が上って、冷静さを失っていたようだ。あのまま言い争いが続いていれば、ますますヒートアップしていた所だった」
「いや、俺は何もしちゃいないさ。向こうも部外者である俺が来たことで我に返ったんだろう」
「ふっ、軽く嫌味めいたものを言われただけであの有様とはな。相変わらず余裕のない男だ」
「き、君だって偶然居合わせて僕らを止めるどころか火に油を注ぐような挑発的な事を言っていただろう!」
先ほど向こうに、そそくさと立ち去る白い制服が複数見えた。どうやらマキアスとユーシスが貴族生徒と言い争いをしている事に気付いたリィンが仲裁に入ったらしい。入学したての頃とは違ってもうあちこちに顔が利くリィンにやって来られては、いくら貴族生徒と言えどもむやみに争えないのだろう。さすがリィンさん、とエマは心の中で拍手を送る。
リィンはいつも通り睨み合うマキアスとユーシスの間に立ち、まあまあと宥めている所だった。
「それはユーシスなりにマキアスを助けようとしたんだよ。マキアスが悪く言われて、きっと我慢できなかったんだ。そうだろうユーシス」
「「そんな訳ないだろう!」」
リィンへの反論が綺麗に被る。もし本当にそうだったとしても、こう面と向かって言われては恥ずかしさに否定したくもなるだろう。さすがリィンさん、と今度は別な意味でエマは内心拍手を送った。
とその時、リィンが何かを思いついたように手を打った。こちら側に顔を向けているマキアスとユーシス二人の顔が、嫌な予感に揃って顔をひきつらせたのが遠目からでも分かった。
「そうだ、二人とも一緒にキルシェにいかないか?これからエリオットとガイウスと一緒にお茶する予定なんだ」
「そ、そうなのか……」
「それは別に、構わないが……」
こいつも一緒なのが不満だ、と言いたげな視線を互いに交わしている二人だったが、目の前でまったく悪意のない顔で微笑まれれば断り切れないようだ。しかし妙な所で遠慮するリィンが、今の空気を敏感に感じ取る。
「もしかして何か用事があるのか?……あっ、それともいきなりこんな誘い、不躾だったかな……」
「そ、そうは言っていない!」
「わかった、行こう!行くからそういう顔をしないでくれ!」
「まったく、こちらが一方的に悪者みたいな気分に陥らせてくれるのだから性質が悪い……」
「同感だ……」
「?」
どうやら結局揃って絆されたようだ。エマが何度目か分からない心の中の拍手を惜しみなくリィンに捧げる。これがZ組の重心の力である。萌えと言うよりむしろ尊敬の念さえ沸いてきた。これでいいのだろうか、と思わないでもないエマだったが、とりあえずメモだけはしておく。
その後は何事もなく三人連れだってキルシェへ行き、無事エリオットとガイウスとも合流した。図らずともZ組男子がこれだけ揃うと少々目立つ。この目立ちようなら他にも注目する目はあるだろうから、多少は気を緩めてもいいだろう。エマは傍の広場のベンチに腰を下ろしてほっと息をつく。そうやって油断していた時だった。
「みんな、ちょっと待っててくれ。すぐに戻るから」
「え?うん、分かった」
(リィンさん?)
リィンが席に落ち着く前にどこかへ行ってしまった。とっさに追いかけようとしたが、すぐに戻ると言っていたので無理して追いかけはせず、戻ってくるのを待つことにする。内心リィンが何をしにどこへ行ったのか気になりながらそわそわとエマは待ち続けた。
言葉通り、リィンは割とすぐに戻ってきた。ただしその手に、別な誰かの腕をつかんで、だ。そこにエマは、昨日も一昨日もこの放課後に目にした顔を見た。少々困ったように赤い目を細めながらリィンに引きずられてきたのは、年上の同級生クロウであった。
「そんな突発的な『ドキッ☆Z組男子だらけのお茶会』にわざわざ俺を呼びつけなくてもいいだろーが」
「何だよそのネーミングは。だって、せっかく皆揃ったんだからクロウも呼びたいって思ったんだ。ちょうどその辺にいたんだから、いいだろ?」
「いやお前、人が隠れて昼寝してた所にいきなり押しかけてきて引っ張り出したんだろ……どんだけ人探し得意なんだよ、犬かお前は」
「何となくクロウが近くにいるような気がしたんだ。当たってよかったよ」
「よかったよ、じゃねーから!ったく、何でわざわざこんなむさ苦しい華のない集まりに顔出さなきゃいけないんだっつーの」
ぶつぶつ文句を言いながらも、クロウの顔もまんざらではなさそうだ。こうしてリィンが引っ張ってきたクロウも交えてのZ組男子のお茶会が始まった。わいわい賑やかにそれぞれの飲み物を注文している姿を微笑ましく眺めながら、エマは何かが引っかかっていた。昨日からずっとリィンを観察していて、今の光景に何か違和感を覚えたのだ。
しばらく考え込んで、ようやくその違和感の答えに行きつく。
(そうだ、クロウ先輩を引っ張ってきたリィンさんが、いつになく強引だったからだ)
先ほどリィンは、マキアスとユーシスを誘う際あれだけ控えめに声を掛けていたのに。今クロウを連れてきた時だけは、いくら文句を言われてもその手を離すことはしなかった。これは普段のリィンからすればとても珍しい事の様に思えた。相手を立てて自分は常に一歩後ろに下がっているのが、いつものもどかしく思うほどのリィンだったから。
今も、クロウに何かからかわれたらしくムッとして言い返している。リィンのあんな表情は珍しい。似たような顔を見られるのは、サラに無茶な無理難題を押し付けられた時ぐらいだろう。そんな、普段は他人に遠慮して決して見せないような顔を、クロウ相手ではああも簡単に見せている。
やはり先輩と後輩という間柄がそうさせるのだろうかとエマは考えたが、それだけではないような気がする。確か二人はクロウがZ組に編入してくる前からの付き合いだという話だから、エマの知らない何かが二人の間にあるのかもしれない。
リィンさんにとってクロウ先輩は気を許せる特別な人なんだ。無意識のうちにメモを取りながら、漠然とエマはそう思った。
三日目。
リィン観察も多少はこなれてきたエマだったが、肝心の萌えとやらについてはあまりピンときていない。ドロテのあの圧倒されるような熱情が自分の中から湧き出すとはとても思えなかった。この二日間で分かったのは、リィンがどうしようもないほど人が良いという事。それと……。
(クロウ先輩、か……)
昨日も一昨日もその前もリィンの傍で見たあの銀髪の先輩を思い出す。性格は似ていない、むしろ正反対とでも言える二人だが、だからこそ気が合うのかもしれない。自分の取ったメモを読みながら、ぼんやりとエマは考えていた。考えながらも、きちんとリィンの後を追うのは忘れない。
今日のリィンは中庭へと向かっていた。その途中で、たまたま技術棟から出てきたジョルジュとかち合いにこやかに会話している。ジョルジュもまた、リィンと仲が良い先輩の一人だ。しかしやはり、クロウほどの砕けた応対をする相手は他にいない。あるいは同級生の中にも、あれだけの親しみを込めた間柄はいないのではないだろうか。
(……あれ?)
そこでエマは、さっきから自分がリィンとクロウについてばかり考えている事に気付いた。確かに昨日一番印象に残った組み合わせではあるが。エマは何故か焦った。その事について考えていると、得体のしれない感情が己の中から生まれるような気がする。それが良い事なのか悪い事なのか分からず、エマは戸惑った。
そうこうしている間にリィンは中庭にたどり着いていた。足はギムナジウム横にある池へと向かっている。確かリィンは釣りも趣味としているはずだったから、ケネスと並んで釣りでもしようと思ったのかもしれない。しかしその手前で足を止めたリィンは、何かを見つけたように花壇の方へ声を掛ける。
「フィー、園芸部の活動中か?」
「ん」
ちょうどそこに花壇の手入れをするフィーを見つけたらしい。そのままリィンは当然のようにフィーを手伝い、花壇へ水をまき始めた。己の趣味の時間でさえ手伝いに何の苦もなく変えてしまえるのがリィンである。フィーもそれをありがたいと思っているのか、素直にリィンの手伝いを受け入れて甲斐甲斐しく花の世話をしている。実に和む光景だ。こんな観察を続ける自分が嫌になってくる、とエマは少しへこんだ。
三日も続ければドロテも納得してくれるだろうか、とリィン観察の終わりを考え始めたエマの目の前に、もう一人の人物がギムナジウムから出てきた。真っ直ぐ花壇へと向かってきたのは、己の獲物を手に持つラウラであった。
「フィー。……おお、リィン。そなたもいたのか」
「ああ、ちょうどここにいるフィーを見つけたから、手伝いをな。ラウラは部活じゃないのか?」
「今日は休みだ。だからここで、フィーと待ち合わせていた」
「そう」
フィーもこくりと頷く。どうやら今日は二人で約束していた事があったらしい。ならばと身を引こうとしていたリィンだったが、それより前にラウラが声を上げた。
「そうだ、リィン。何も用事がないのなら、そなたも付き合わぬか?」
「え?何をするんだ?」
「手合せ」
しゃきん。フィーも己の武器を手に持つ。遠くから見ていたエマでさえ嫌な予感がしたのだから、リィンはその数倍感じた事だろう。手合せは良い。良いのだが、ラウラとフィーの手合せはおそらく、とても他人が入り込めないほどの凄まじいものとなるだろう。二人の息が合っているから尚更。リィンも個人としては二人に負けず劣らず腕は立つが、そういう問題ではない。
「い、いや、俺は遠慮しておこうかな……二人の邪魔はしたくないし」
さりげなく一歩後ずさるリィン。しかし隣に立っていたフィーが逃がさないようにがっしとその腕をつかんだ。ラウラも良い笑顔でリィンへと詰め寄っていく。
「なに、遠慮するな。そなた相手ならば我らも手加減をせずに戦える」
「ある程度の手加減はしてほしいんだが……!」
「それにリィンが相手してくれれば、私とラウラのリンクも繋げるし」
「2対1?!む、無理!無理だ!さすがに無理だから!」
必死に抵抗するリィンだったが、ラウラとフィーに挟まれて逃げられるような人間はそういない。そのままずるずると引き摺られたリィンは、中庭にて二人の相手をさせられる羽目となってしまった。
それは、壮絶な光景だった。力のラウラ、スピードのフィー、二人のリンクを繋いだコンビネーション攻撃は、相手に防御する隙はおろか逃げる暇も与えない。エマは震えながらそれを見ていた。辛うじて分かるのは、たまにリィンが豪快にふっとばされている事だけだ。後は目でも追えない戦いだった。というか、一方的な連撃だった。
サンドバッグ。そんな言葉が頭の中に浮かぶエマの背後からその時、怪訝そうな声がかけられる。
「……エマ?一体そんな所で何をしているの?」
「はっ!あ、アリサさん」
グラウンドの方からやってきたアリサが、エマを見つけたらしい。うろたえるエマを不思議そうに見つめながら近づいてきたアリサが、その向こう側で繰り広げられる凄まじい手合せに気付いてあっけに取られる。
「な、何なのこれ」
「えーっと、そのー……」
「あ、アリサとエマだ」
フィーがこちらに気付いて近づいてきた。ちなみに今リィンはラウラの猛攻を何とかしのいでいる状況である。アリサが慌ててフィーに詰め寄った。
「こんな中庭で一体何をしてるのよ!リィンってば、すでにボロボロじゃない?!」
「んー」
下手に答えたらアリサに止められるかもしれない、と考えたらしいフィーがしばらく悩んだ後、名案を思い付いたように顔を上げる。
「名付けて、リィンに思う所がある女子選手権」
「はあ?」
「リィンに何かしら鬱憤がたまってる女子が、一斉にリィンと戦うの。それで、リィンにトドメをさした人の勝ち」
トドメって。顔を青ざめさせるエマだったが、アリサはしばらく無言の時を過ごした。その背中が何故だか恐ろしい。
「あ、アリサさん……?」
「フィー、その選手権って……飛び込み参加も出来る訳?」
「オッケー」
ブイ、とピースで答えるフィー。エマが止めに入る、前にアリサは導力弓を手に、駆け出していってしまった。
「リーィーンー!覚悟ー!」
「ええええ!な、何故アリサまでー?!」
「おお、アリサも参戦するか!よし、皆で全力を出すぞ!」
「ヤー」
その後の惨状は……エマの口からはとても話せない。こんな悲惨な光景を目にしている最中に何かに目覚めたら、きっと人として駄目になるだろうなとおぼろげに考えた事しか覚えていない。
とりあえず最終的にラウラvsフィーに落ち着いたり、ぐったりと倒れ伏したリィンを「頭に血が上ってた、こんなはずじゃなかった」と衝動的に罪に手を染めてしまった犯人のような台詞を吐きながらアリサが半泣きで介抱したり、震えながらもエマがその手伝いをしたりと、まあ色々あった。すべてが落ち着いたのは、空に夕焼けが滲む時間帯になってからの事であった。
「はあ……死ぬかと思った……」
(止められなくてごめんなさいリィンさん……)
何とか持ち直したリィンが今ぐったりと項垂れているのは、人気のない旧校舎の横に置かれているベンチの上だった。アーツ等で受けた傷はすべて回復しきったが、積み重なった疲労は簡単に取れるはずもない。一人休憩しているリィンの姿を、ひたすら申し訳なく思いながらエマが見守る。夕日のせいで余計に哀愁の漂う姿だった。
結局ドロテが期待する萌えとやらに、エマは出会えなかった。ドロテをがっかりさせてしまうだろうかと思う反面、内心ホッとしているのもまた事実だ。一つの事にあれだけの情熱を傾けて夢中になれる事は素直に羨ましいとは思うが、自分があのドロテと同じように男の子を見て鼻血を流すようになるというのは正直言って怖い。いや、ドロテ自身を恐れている訳ではないのだが。
とにかく今日でリィンの観察は終わりにしようとエマは決意した。そのまま悟られないようにこの場を立ち去ろうとした、その時。
「……おいおい、随分とお疲れじゃねえか、一体どうした?」
(……!!)
突然聞こえてきた声に、エマは思わず声を上げそうになった。辛うじて両手で口を抑え込み、そっと声のした方、リィンが座るベンチの方へ視線を向ける。いつのまにやってきたのか、リィンの傍にはクロウが腰に手を当てて立っていた。また出た。ここ数日、放課後必ず見るその姿。つまりはクロウとリィンがほぼ毎日、放課後に何かと会っているという事だ。
何故自分がこんなにもクロウの登場にドキドキしているのか、分からずにエマは固唾を飲んで二人の様子を見守る。さっきまで観察を止めようと思っていた事など、頭から吹き飛んでいた。
「クロウか……。実はさっき中庭で、とんでもない目に合ったんだ……」
「あー、まあ大体の事は通りすがりの奴にさっき聞いたんだが、災難だったな。つーか、はっきりと断らなかったお前も悪いんじゃねえの」
「断ったから!聞き入れられなかっただけだから!」
「普段から何かと断らないままほいほい何でも受けやがるから、そうなるんだよ。ちゃんと自分の事は自分で管理しねえとなー」
お説教みたいなことを言っているが、その言葉はクロウがリィンの事を案じているからこそ向けられている事に、傍から聞いていてもすぐに気付ける。リィンにもちゃんと伝わったらしく、神妙な顔で頷いた後どこか嬉しそうにクロウを見上げた。
「ありがとう、気を付けるよ」
「……ま、今回はそれを差し引いても気の毒だったな。ご苦労ご苦労」
クロウの手が、ぽんぽんと労うようにリィンの頭に触れる。リィンは肩をすくめてそれを受け入れた。その仕草は別に嫌がっているという訳ではなく、むしろ照れくささを混ぜながらもどこか嬉しそうで。その表情を目撃してしまったエマの心臓が跳ねる。リィンがあんな風にくすぐったそうに笑う顔は、初めて見た。
クロウはリィンの隣にどっかりと腰を下ろす。しばらく二人はそのまま、ぽつぽつと話をしていた。流れる空気は非常に穏やかなもので、誰も邪魔など出来ない神聖なものの様にさえ思える。この場から立ち去った方が良い、と頭では判断しているエマだったが、何故だか身体が動こうとはしなかった。もっと二人の様子を見ていたいと、自分じゃない誰かが囁いてくるようだった。
それから幾何かも経たない頃、リィンとクロウの会話は途切れる事となる。こくこくと、疲れ切っていたリィンが舟をこぎ出したからだ。
「こら、こんな所で寝るつもりか?寝るならちゃんと寮に帰ってから寝ろよ」
「うん、分かってる……」
ふわふわした声で一応そう答えたリィンだったが、瞼がよほど重いらしくそのまま目を瞑り、やがて力尽きたようにこてんとクロウの肩に頭を預けてしまう。あーあ、というクロウの仕方なさそうな声が聞こえた。しかしその声は、すぐにリィンを起こそうとはしなかった。
エマはその様子を一部始終見ていた。リィンがこうして外で眠る姿はかなり貴重なものであることを判っていた。あれだけ気を緩めたリィンの姿は今まで見たことが無い。こうしてこの目で見つめている今でさえ信じられない思いだった。ああやっぱりリィンさんは誰よりも一番クロウ先輩に心を許しているのだと、何故か歓喜にも似た思いを抱きながらエマは思った。
先ほどからおかしい。ただリィンとクロウが二人で並んでいる姿をこうやって見ているだけで湧き上がってくる理解不能なこの感情は、一体何なのだろう。エマは自分の胸に手を当てて何とか落ち着こうとする。しかし視線は、二人の様子から一切逸らされようとはしなかった。
「ったく、これだけ疲れてるんならさっさと帰ればよかっただろうに」
大方、早めに寮に戻って休んでいる姿を見られて心配かけたくなかったのだろう、と、クロウは呆れた顔で呟く。確かに先ほど別れる際申し訳なさそうだったアリサや謝ってきたラウラとフィーを思えば、リィンがそうやって考えるのも頷ける。そうしてこのお人よし後輩の内情を正確に読み取ったクロウは、細く長くため息をついた後、安心したようにすうすう眠るリィンへ目をやり。
「ほんと、仕方のねえやつ」
起こさないように優しくその頭を引き寄せ、さらりと髪を撫でた。リィンに触れるその繊細な手つきは、柔らかく細められた赤い瞳は、小さく穏やかに呟かれた言葉は……その全てに密やかな何かが込められたような、甘く切ない光景としてエマの心を貫く。
限界だった。
「……っ!!」
エマはなりふり構わず駆け出した。これ以上この場にいたら、自身が爆発してしまうのではないかと恐怖するほどの感情が次々と溢れてくる。今まで味わった事のない激情に思考が焼ける。そんな真っ白に染まる脳内には、先ほど凝視していた光景が繰り返し流れ続ける。
他人に決して寄りかかろうとはしない、気遣ってばかりのリィンが唯一甘えを見せ、懐く先輩。
誰とでも気安く接し、その代わりに深くは踏み込ませないクロウが僅かに垣間見せた、特別扱いする後輩。
ああ。
エマは息を切らして走りながら、己の頬が上気している事を感じていた。心臓が跳ね回っているのは、走っているからだけではない。とてつもない何かに突き動かされながら、エマはひたすら走った。
走りながら、一種の絶望を抱きながら、エマは理解した。
理解してしまった。
部長。
これが……これが、「萌え」なんですね!
「……で、結局ここ数日隠れてこいつ見てた委員長ちゃんは一体なんだったんだ?」
エマが突然走り去った方向を見ながら、クロウが半眼で呟く。こそこそ見つめているだけで実害はなさそうだったので気にする事無く放っておいたが、その判断をクロウは今ちょっとだけ後悔していた。
何故か背筋を、嫌な予感みたいなものが駆け下りたからだ。
「ま、今はいいか……」
ひとまず今のは見なかったことにして、クロウは傍らで眠るリィンの体温を享受する事に専念する。もう少しして気温が下がり始めたら、さすがに起こしてやらなければならないが。
「もう少しぐらい、いいだろ」
そう、もう少しだけ。
委員長、目覚める。
そして、数日後。
「エマさんっ!私は、私は今猛烈に感動していますっ!この、互いに好き合っているというのに想いを告げられずにただただ愛しさを募らせていく男の子同士の物語!先輩後輩という歳の差もまたその切なさに拍車をかけています!何よりこのお話からは、エマさんの情熱や愛がはっきりと伝わってくるのです!エマさん……見つけたんですね!己の萌えと出会う事が出来たのですね!!素晴らしい……!それで、エマさんの最萌え属性は一体なんだったのですか!先輩後輩ですか!身長差ですか!それとも両片想いですかっ!」
「部長……お願いですから詳細は聞かないでください……それと鼻血拭いて下さい……」
あの「目覚めてしまった」日から滾る心のまま書きつづった小説を読んで幸せそうに鼻血を噴くドロテの前で、エマはひたすら沈み込んでいた。あの時のあの感情は一時の気の迷いと思いたい。思いたいのだが。
「エマさん……一度目覚めてしまったら、もうこの業からは逃げられませんよ」
「うわーんっ!」
良い笑顔のドロテにぐっと親指を立てられ、エマは己の顔を覆った。目覚めてしまったエマがこれから更なる境地に至る事になるのか……それは女神のみぞ知る、のかもしれない。
14/09/21
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