それは、不幸中のただ一つの幸いだった。あたりにこんもり積もる雪と木々の様子を見るに、ここはおそらく先ほどまで吹雪いていたはずだ。もし少しだけ時間がずれて吹雪の中この雪山に飛ばされていれば、たちまち体温を奪われてあっという間に死んでいただろう。今はただ、あたりを名残の様に粉雪がちらついているだけだ。

「……ま、このままじゃどっちみち野垂れ死にだけどな」

口の端から垂れる血を力の入らない手で拭いながら、クロウは笑った。開いた口の隙間から空気が漏れるような、何とも間の抜けた笑いだった。

例え今風がほぼ止んでいようとも、このまま雪まみれでじっと横たわっていればどのみち助かりはしない。いいや、ここが雪の世界でなくても結末は同じことだっただろうと、クロウは己の体を見下ろす。何とか傍にあった木の幹に背を預ける事が出来たが、体はそれ以上動きそうになかった。戦いの最中に受けた傷は無数にあり、体力もなく、疲労困憊の満身創痍状態だ。何よりクロウにはこれ以上生き永らえるつもりがなかった。
こうなったら吹雪に当たらなかった事さえ不幸だな、と心の中で自嘲する。もしあの瞬間時と場所を選べたのなら、迷わず猛吹雪の中を選んだものを。
……そう、今のこの状況は、完全なる不可抗力によるものである。先ほどまで確かにクロウは、戦場の中死闘を繰り広げていたはずだった。誰がどの陣営に当たるのかも分からないほどの混戦状態の中、ただ一人と刃を打ち合っていた。他の敵や、味方の事さえ頭の中から吹き飛び、目の前の人物だけを意識に入れ己の全てを賭けて戦っていた。不意打ちの一撃を食らったのは、あと一回ぶつかり合えば決着がつくだろうと思われた、一騎打ちの最中であった。

「ックク、……あの時のあいつの顔、傑作だったな」

クロウにそんなつもりは無かった。あまりにもとっさの事だったので、何も考えてはいなかった。それでも気が付けば、脇から戦っていた相手目掛けて振り下ろされた刃をその身で受け止めていた。争いが続く戦場の中あれだけ呆けた顔を見るのは初めての事だったかもしれない。目の前で見開かれた紫と赤の混じる優しい色の瞳は……美しかった。それが、クロウがあの場所で見た最後の光景だった。
笑うように肩を震わせて、しかしすぐに咳き込んで全身の痛みにうめく。身じろぎするだけでもこの痛みだ、立ち上がる事は到底無理だった。視線を落とすと、純白の雪が己の血で汚れてしまっているのが目につく。ああ、と声を漏らして、クロウは空を見上げた。

「一体何が起こって、こうなったんだよ……」

問いに答える声は無い。クロウは一人だった。敵だったはずの少年を庇い、倒れこむ寸前まで別な場所にいたはずなのに、気付けばこの雪の中で倒れていた。今までの事は夢だったのかと一瞬思ったが、すぐに傷の痛みがそうではない事を教えてくれた。では、今のこれが夢なのか。痛みだけがただリアルな、何とも嫌らしい夢だ。雪の冷たささえ、あまり感じない。
首を動かすのも億劫なので、視線だけで辺りを見渡す。見えるのは雪と、背の高い木々と、厚く空を覆う雲しかない。ここは雪山の奥地のようだ。人間はもちろん、生き物の気配など微塵も感じる事が出来ない。どうしてこんな山の中で目覚めなければならないのだと思ったが、考えても分かる訳がないので早々に諦める。
ぼんやりと微かに息をしながら、クロウは己に死が訪れるのを静かに待っていた。こんな見知らぬ土地で一人向かえる最期とは、なかなかおあつらえ向きなのではないかと思った。ろくな死に方をしないだろうとは思っていたが、まさか死ぬ直前にワープさせられるとは。あまりにも奇妙すぎる展開だが、それほど後悔は無い。こんな静かな終わりは、むしろ上出来だろう。
一つだけ、心残りをあえて挙げるとするならば……最後に見た、あの顔。

「あー……あいつ、あの後大丈夫かね……」

打ちのめしたのも追い詰めたのも自分のくせに、心配が口をついて出る。本能で庇ったあとに無様な言い訳はもはや不要だろう。あの時一対一で戦っていた時、手加減も躊躇いもなく殺すつもりで本気の力を出してはいたが、だからといって他の者の手にあの命を渡す事など出来なかった。つまりはそれだけの想いを、己はあの元後輩に抱いているのだ。一度は捨てたと思い込んでいたその想いはしぶとく今まで密かに息づいていて、とうとうここまで引き摺ってきてしまった。リアルに墓場まで持っていくことになりそうだと、クロウはにやりと笑う。こうなったら墓自体は立たないだろうが。
血に濡れた道を歩んできた自分が持つにはいささか不釣り合いに思えるほどの淡くほのかに温かな気持ちを胸に、クロウは目を瞑った。寒さを感じないのはこの気持ちが温めてくれているからだろうか。もう小指一本も動かせない。柔らかな粉雪がゆっくりと体を覆っていく。こんなに安らかな死を迎えられるなんて、と、幸福にも似た思いを浮かべながらクロウは、そのまま。
大好きだったあの瞳の色を思い出しながら、静かに。




「……あ?」

もう二度と何も聞こえないはずだった耳が拾ったのは、雪を何かが踏みしめる小さな音だった。思ったよりも近くで響いたその音に、思わず声を上げて瞼を押し上げる。最初に見えたのは真っ黒な雲が敷き詰められた味気のない空。まだ視力は失っていなかったのか、などと考えながらゆっくりと視線だけ下に向けていけば……ぱちりと、人間の瞳と出会った。
小さな子供だった。なるほど雪を踏む音があれだけ小さいのも納得ができる、おそらく10歳にも満たない男の子。厚手の服やコートでもこもこになっている姿が微笑ましく、こんな殺風景な山の中には不釣り合いに感じた。そんな幼い大きな瞳をまあるく開いて、木の陰からこちらを覗き込んでいる。
急に目が合って、相手も驚いているようだったがクロウはもっと驚いた。止まりかけた心臓が、ショックのあまり大きく跳ね上がったのが手に取るように分かった。さっきまでの穏やかな気持ちは、一瞬のうちに猛吹雪のように荒れ狂う。酸素を求めるように喘いだ口から、声にならない名前が零れた。

リィン。

その子供は、確かにリィンだった。覚えのある姿よりはるかに幼かったが、クロウには分かった。雪の中でより映えるこの薄紫の瞳の色を間違えるはずがない。姿は元の丈より随分と小さくても、あの子はリィンだと本能が告げていた。そんな非科学的な事があってたまるかといくら否定しようとしても、否定しきれない確信をすでに持ってしまっている。
くそったれ。顔をひきつらせながら、クロウは心の中で悪態をつく。相手は空の女神か、運命そのものか。一体どんな恨みがあって死ぬ間際にこんな有り得ない展開を用意したのか。場所の移動だけでなく、よもや時間まで遡ってしまったというのか。

「……あ、あの、」

もしかしてすでに死後の世界なのかも?と考え始めたクロウの耳に、サクッと雪を踏む音と共に小さな声が届いた。勇気をめいっぱい振り絞った様子で木の陰から姿を現した小さなリィンが、震える声でクロウに話しかけてくる。よく見れば体も細かに震えていた。その原因は寒さか、恐れか。

「だ、だいじょうぶですか?それ、すごく、いたそうだけど」

こんなに明らかな不審人物に丁寧に話しかけてくるとは、幼いくせして何と律儀な奴なんだ、とクロウは少し呆れた。声も身体も震わせているくせに、その足は一歩も後ずさろうとはしない。そのあたりの度胸は認めよう。だが。

「えと、その、てあてを」
「……近づくな」
「っ!」

あえて低い声を出すと、リィンのゆっくりとした歩みはびくりと止まった。まだ声が出せた事に感謝をしながら、クロウは努めて剣呑な目つきになるようにじろりと睨む。17歳の彼はいくらこうして睨み付けても怯みもしなかったが、さすがに子供には効いているようだ。幼い顔が、くしゃりと歪む。

「今すぐ元来た道を戻って、家に帰れ。今見ているものは全て忘れろ。そして誰にも言うな」
「で、でも……」
「俺にかまうな。俺は……このままで、いいんだ」

脅すように、言い聞かせるように、ゆっくりそうやって言葉を紡げば、ぎゅっと両手を握りしめたリィンは躊躇うようにクロウを見る。膝までカタカタ震えているくせに、なかなか立ち去ろうとしない。こんな歳から強情なのかよ、とクロウは心の中でため息をついた。
こうなったら仕方ない。最後の力を振り絞ってわずかに体を浮かせる。突然動き始めたクロウにひっと小さな悲鳴を上げた子供へ、自分が出来る最大の表現力を使って、恐ろしげな声を出した。

「これ以上ここにいれば……頭から食っちまうぞ」
「!!」

血の滴る口でニヤ、と笑えば効果てきめんだった。飛び上がったリィンは慌てて回れ右をして駆けていく。小さな背中が雪の向こうへ見えなくなり、キュッキュッという足音が遠ざかる。そうして今までと同じような静寂が訪れて、ようやくクロウは安堵した。息を吐き出して再び幹に体を預ければ、無理をした抗議のように痛みが襲い掛かってくる。文句はあいつにいってくれ、と子供が消えていった方向を見つめた。
どんなこじれた因縁があるのか定かではないが、最後にこうして会えた事は少しばかり嬉しい。同時に嬉しくないとも思う。一人で存在するこの雪の世界は静かすぎた。例えろくに会話していなくとも、自分以外の生き物が存在していただけでこうも見え方が違うとは。
最後の最後でこんな気持ちを思い出させてくれるとは、やられた。忌々しく思いながらも、クロウは自分の口元が緩く笑みを浮かべている事を自覚していた。嬉しい気持ちと嬉しくない気持ち、どちらが勝っているのかは、一目瞭然である。やれやれ、と自分自身に肩を竦めたクロウは、今度こそ二度と開けないつもりで瞳を閉じる。
女神か何かに与えられたとんでもないサプライズプレゼントに、一応感謝しながら。

意識はゆっくりと、落ちていった。





そうしてクロウは、自分が思っていたほど丈夫で往生際が悪い事を思い知る事となる。
死んだつもりだった意識が急速に浮上したのは、鋭い痛みによるものだった。自分が痛みに上げた声を聞いて、まだ生きていたのかと驚く。

「いっつ!」
「あっ!ご、ごめんなさい!」

間髪入れずに帰ってきた声は子供特有の高いものだった。心底慌てたようなその声に不覚にも一瞬だけ呆けて、クロウは隣を見る。意外と近くに薄紫の瞳はあった。クロウが驚きにひゅっと息を吸ったのと、子供のリィンが慌てるように視線を彷徨わせたのは、ほぼ同時だった。

「え、えっと、けが、してたから……てってあてをっ」

慌てふためくせいでろくな説明になっていなかったが、クロウは全てを把握する。逃げ帰ったと思われたリィンはどうやら、道具を取りに戻っていただけのようだ。膝をつくリィンの隣に置かれているものは、見ただけで救急箱だと分かる代物だった。
正直、クロウの傷は子供の手で手当て出来るようなものではない。しかし一番深い胴あたりの傷はともかく、リィンから一番近い腕側の傷は意外としっかり処置されているようだった。もしかしたら森に入る者の心得として、応急処置の仕方などを父親からすでに教わっているのかもしれない。いよいよひどい傷へと手を伸ばしたところで、さすがの痛みにクロウが飛び起きたという訳だ。
何であのままとっとと死んでおかなかったんだ、俺、と相手が内心うんざりしているとも知らずに、リィンは健気な瞳を精一杯向けてくる。

「ほんとうは、おとなにてあてしてもらったほうが、いいとおもうけど……あなたがダメだっていったから」
「……それで、のこのこと一人で戻ってきたって訳か」
「!う、うん」

こくりと頷いたリィンを、クロウはあえてきつく睨む。やはり怖く無い訳では無いらしく、小さな肩がふるりと震えた。こんなに体や態度は怯えているくせに、どうして……どうしてこの瞳だけは、真っ直ぐクロウを見つめ続けるのだろう。

「帰れ、と俺は言ったはずだ。聞いていなかった訳ねえよな」
「あ、う……」
「取って食われちまってもいいってのか?あ?」

少しでも意識を落としたおかげか、それとも受けた治療のおかげか。持ち上げる事に成功した腕で、すぐそばにあったリィンの首に手をかける。少しでも力を入れれば折れてしまいそうな細い首に、知らず眉を寄せた。それがまた恐ろしい表情に見えたようで、リィンの目が恐怖に潤む。クロウの手は血に汚れたままだ。おかげでリィンの肌も汚してしまったが、もはやなりふり構ってはいられなかった。早くこの生き物を遠ざけなければと、そればかりを考える。

「おら、ここだけの手当てでもうお前の息の根を止められるんだぞ俺は。このまま治せばマジで食っちまうぞ。分かったらさっさと帰れ」
「でもまだ、ちが……」
「っうるせえ!俺の目の前からとっとと消えろって言ってんだよ!」

気付けばカッとなって怒鳴っていた。びくりと肩をすくめたリィンは心底怯えきった様子だったが、やはりその場から立ち去ろうとはしない。クロウは途方に暮れた。一体どうしたらこの子供は自分を諦めてくれるのだろう。
……それは、以前から何度も思っている事だった。あいつはどうして、諦めてくれないのか。あんなに何度も諦めろと、もう戻る事は無いのだと訴えたというのに、強い意志の宿った薄紫の瞳は一切諦めなかった。目の前にあるこの瞳と同じ色だ。結局リィンもクロウも一切引かないまま、ここまで来た。

(あいつは俺がいなくなった今も、同じように諦めていないんだろうか)

自分で考えながら、すでに答えは出ていた。答えは……目の前の子供を見れば明らかだ。

「……、い、やだ」

か細い、ともすればこんな儚い雪の降り積もる音にさえかき消されてしまうのではないかという声が、辛うじてクロウの元に届く。さっきまで浮かべていた怒り顔を作る事も忘れて、ぽかんと目の前の顔を見る。涙を浮かべて身体を震わせる子供は、しかしそれでも意志の灯った強い瞳でクロウを射抜く。脳内で、成長した少年の姿が重なった。

「いやだ、かえらない。……かえりたくないっ」
「な……」
「ここにいる!」

ぎゅっとしがみついてくるぬくもりに、訳が分からなくなる。クロウはこの子供の事をそりゃあもう知っているが、子供はクロウと初対面のはずだ。こんな人里離れた山の奥で、血まみれで倒れていて、近寄るな誰にも話すなと脅してくるいかにも怪しい男に、ここまで執着する理由はどこにもないはずだ。
困惑したまま、くっついてくる小さな手を振りほどけずに、クロウはやや呆然と尋ねる。

「……何でだよ、どうしてそこまで俺にこだわるんだ」

目を見開いたリィンは、しばらくうんうん考え込む。銀の頭と黒い頭両方にちらほら雪が積もり始めた頃、ようやく答えが出たのか顔を上げてきた。

「わからない」
「……は?」
「わからない、けど、はなれたくない。はなれちゃいけないって、おもう」

事も無げにそう言ったリィンは、宣言通りぴったりくっついたまま離れようとしない。雪の中で熱を失いかけていた身体に、じわじわと子供の体温が染みてくる。根拠も理由もない、ただその強い想いだけで傍に寄り添う小さなリィン。クロウはもはや、途方にくれるしかなかった。
一体何の因果だ。どんな女神のいたずらだ。いくら逃げてもリィンはクロウを追いかけてくる。時間を飛び越えても許されはしない。忘れようとした想いも、捨てた自分も、全てを拾い上げて突きつけてくる。もう逃れられはしないのだと。いくら巧妙に隠してみせても、全てを合わせて「クロウ」なのだと。

「……ったく、何つー後輩だよ……」

思わずこみ上げてきた笑いは空気に溶けた。どうやら随分とんでもない奴に目をつけ、目をつけられてしまったようだ。抵抗する術を失い、宙を見上げると、ぺたり、と頬に温かな手の平が押し付けられる。何事かと視線を向ければ、今にも泣き出しそうな子供の顔があった。
何、泣いてるんだ。そうやって声を掛けようとしたが、先を越されてしまった。

「いたい、の?くるしいの?」
「ん……?」
「さむいの?かなしいの?おれ、ここにいるから……なかないで」

そう言いながら自分が泣きそうになっているリィンは、小さな手で必死にクロウの頬を拭ってくる。クロウは笑い飛ばそうとした。一体何を訳の分からない事を言っているんだと、からかおうとした。しかしリィンが拭ってくれる反対側の頬を、何かが伝い落ちるのを感じて驚愕する。

「おいおい……嘘だろ」

いくら現実を疑っても、流れ出したものは止まらない。自覚すれば余計に量が増えた。見開かれた赤い両目からぼろぼろと零れる雫に、リィンまでもがとうとう泣き出した。

「っふぇ……なっ泣かないでえ……」
「……泣いてんのはお前だろ、何で泣くんだよ……」
「だって、だってぇ」

しゃくりあげる黒髪を、持ち上げた手でくしゃりと撫でる。ああまだこの手は血で汚れていたはずだとすぐに後悔するが、涙を湛えた薄紫の瞳が向けられると、その美しさにどうでもよくなった。その間もクロウの涙は止まることなく流れ続ける。
こうして涙を流すのはいつぶりだろうか。泣く事なんててっきり、とっくの昔に捨て去った感情だと思い込んでいたのだが。

「まーたお前が、持ってきやがったのか」

リィンの頭をさらにぐしゃぐしゃかき回す。その腕が情けなく震えている事に気付いて、クロウは笑った。泣きながら、笑った。

「最後の最後に、余計なもん全部思い出させやがって、こいつは……」

声まで震えてきた。本格的に泣く体勢に入ったらしい己の体を、笑いたくてももう笑えない。何故こんなに泣けてくるのか、理由はさっぱり思い浮かばないし、探せば山のように出てくるのだろう。それだけの年月を、涙を忘れて生きてきた。
クロウが手を差し伸べれば、心得ているとばかりに開いた隙間へすっぽりと幼い体がしがみつく。あたたかい。雪の冷たさを感じなかったのは、一人の寒さに慣れてしまっていただけなのだと今なら分かる。

「お前のせいだ、リィン」

見知らぬ男のために泣くどこまでもお人よしな子供に寄り添って、クロウは泣いた。

「今更この俺に、死ぬのが惜しいと思わせやがって」

それはきっと、この手の中にある体温を手放したくないと、思ってしまったせいだ。


全てを白に覆う雪の世界。
寄り添い、泣き合う二つの生き物もまた、空の女神から隠れるように雪に包まれる。
小さなリィンを抱きしめながらクロウは、一つだけ後悔していた。
あの慣れ親しんだ大きさのリィンの体も、最後に一度だけこうやって抱きしめてやればよかったと。
お人よしで、強がりで、人に甘える事が下手で、それでも実は少し寂しがり屋の、悪い先輩に懐いてしまった可愛い後輩。
その子の泣き声が遠くから、聞こえたような気がしたから。
行って、何泣いてんだよってからかって、泣くなよって涙を拭って、頭を撫でて安心させて、それから。
それから……。













そこは、さっきまでの静かな白銀の世界とは正反対の場所だった。
元は何が建っていたかも分からないほど崩れ落ちた建物に、まだまだ燻る火の手。あちこちに倒れ伏した者たちのうめき声がそこかしこに響く、まるで地獄絵図のようだった。さっきまでの清らかな光景よりは大分見慣れた、激しい戦闘後の世界。
そんな雑音だらけの空間でクロウは、たった一つの音を拾い上げていた。
泣き声だった。

「っく……クロウの、ばか、馬鹿野郎……!何で、あそこで、あんな……っう、うぅっ」

仰向けに横たわるクロウの胸に顔をうずめ、一人の黒髪の少年が泣いている。脇に落ちた刀はまだ血に濡れており、戦闘が終わってからそれほど時が経っていない事が分かる。周りに立つ者は他にいなく、だからこそ少年はこんなに無防備に泣くことが出来ているのだろう。仲間たちがこちらを探し当て、助けに駆け寄ってくるまで、ここでこうして泣いているつもりだろうか。
今までのはどうやらやっぱり夢らしい、とは、簡単に思えずにクロウは空を見る。理由はこうして空を見上げ、押し殺した泣き声を聞いていられるからだ。つまり自分が今、生きているという事実だ。
普段はめったに泣かない子がこんなに泣いている様子を見るに、今の今までこの身体が息をしていなかったのは間違いない。そんな自分が今更こうして目を覚ましてしまったのは……どう考えても、さっきまでこの腕に抱いていたはずの小さな子供のせいだとしか、思えない。
泣くことに夢中で今自分がうずめている胸が上下に動いている事にさえ気付けていない頭に、クロウはゆっくり手を伸ばす。この生が刹那的なものなのか、そうではないのか、今の所はまだ定かではないが。
生き返ってしまったのなら、実行するのは目覚める直前、後悔していた事しかないだろう。

「なに、泣いてんだよ」

がさがさに掠れていたが何とか声を上げて、くせの強い黒髪に手を置く。しゃくり上げた肩がびくりと震え、すぐさま顔が跳ねあがった。信じられないものを見るような目に、笑いが込み上げる。同時に満足もしていた。これこそが、ずっと見たかった瞳の色だ。
クロウと目を合わせたリィンは、歳の割に大きめの目をさらに見開かせてから、震える声で名前を呼ぶ。

「ク、ロウ?」
「おう」

返事をしてやりながら、まだその頭に置かれたままだった手を動かして、ゆっくりと撫でる。その感触はさっき撫でた幼子のものと寸分変わらず、ああやっぱりこいつだったんだなと実感する。
どこか呆けたその顔を見つめ、せいぜい悪友のしぶとい笑顔に見えるように口の端を持ち上げ、クロウは笑った。

「なに、ぼーっと見てんだよ……この死にぞこないの命を生かしたのは、お前だぜ?リィン」

言葉を失う主人の代わりに返事をするように、再び溢れ出した涙。瑞々しく輝くその薄紫に手を差し伸べれば、相手がどう来るか。クロウは知っていた。

「っクロウ……!」


かくして、まんまとその懐に念願の体温を閉じ込めた死にぞこない。
その緋の目にも、また。





死にぞこないの涙





14/07/23


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