身を切られるような寒さを感じ、リィンはハッと目を覚ました。途端に目に飛び込んできたのはいつもと変わらない寮の自室であったが、まるで知らない天井を見つめているような気分になったのはやはりその寒さのせいだろう。皮膚から浸食し身体の奥から凍えさせてくるこの冷たさは一体何なんだ。故郷のユミルの冬でさえこのような寒さを感じた事は無かった。
ゆっくりと身を起こしたリィンが次に感じた事は、その眩しさであった。閉じたままの窓から、信じられないほどの白い光が差し込んできている。最初は、まさか朝寝坊をしてしまったのだろうかと思った。このまばゆい光は到底朝日によるものとは思えなかった。いやそれにしても、昼間の太陽にしたってこのような白い光は発さないだろう。では一体この光は何なんだ。
全ての疑問を解き明かすべく勢いよく窓を開けるリィン。驚きに開けたその口から、一塊の白い息が空気に溶けた。
「雪だ……」
第三寮の二階から覗くトリスタの町は、白銀の雪に全てを包まれていた。このまばゆさも、この寒さも、目の前の光景で全てに納得がいく。随分と積もっているのだろう、白以外の色が見えない地面には、まだ一つの足音もつけられてはいないようだった。降り止んだばかりなのかと、リィンは窓から身を乗り出した。
「リィン」
その時下方から自分を呼ぶ声を耳にして、リィンは視線を巡らせる。さっきまで誰も見えなかったのに一体誰だ、と見回す瞳がとらえたのは、二つの真紅の光。それが一人の人間の瞳だと気づいたのは、いたずらっ子のようにその赤がにんまりと細められてからだ。
ああそうか、あの白に近い銀髪が雪に紛れて見えなかったのか。リィンは納得して声をかけようとした。
「クロ……っんぶ?!」
「ックク、成功成功、大成功!」
言い終わらない内に顔面を襲う恐ろしいほどの冷たさ。愉快そうに笑い声をあげる一つ上のクラスメイトの声が耳につく。とっさにぶるぶると首を横に振って白く染まった目の前を散らすと、同時に気付いていた。今、顔に思いっ切り雪をぶつけられたのだ。もちろん、ご機嫌に笑う赤い瞳の持ち主が犯人でしかない。
「っクロウ!いきなり何するんだ!」
「いやいや、ここまで積もったらこうして雪で戯れるっつーのが礼儀ってもんだろ、普通」
「人の顔にいきなり雪をぶつける言い訳にはなってないぞ、それ……!」
「何だどうした、悔しいか後輩?悔しかったら、やり返してみろよ」
固めた雪玉を片手に、にやりと見上げてくるクロウ。その挑発的な態度にムッとしたリィンは、開けた窓もそのままに部屋を飛び出していた。
誰もいない廊下を駆け階段を下り、寮の扉を開け放つ。途端に襲い掛かってくる雪の白を反射した光と、静かな冷たさを纏った空気。雪の町は静まり返っていた。目の前に立ちふさがる静寂を壊してしまう罪悪感に一度足が止まるが、深く積もった滑らかな雪の上に一筋だけ伸びる足跡を目にして、思い切って外に飛び込む。クロウは少し離れた道の上に、こちらを振り返った姿勢で待っていた。
「いやあ、よく積もったよなあ。いつの間にこんな降りやがったのかねえ」
感心するように町を見渡すクロウの吐く息も白い。すこぶる元気そうな先輩の姿に、寒くないのだろうかとリィンは思った。自分は、とてつもなく寒い。起きたばかりのせいなのか、今日のトリスタが異常気候なのか、とにかく寒くて仕方がない。まるで心臓が凍り付いているかのように体の芯から冷え切っている。おかげで上手く体が動かなくて、雪の中リィンは少しだけよろけた。
「おっどうした?あんまり雪の中を歩くのに慣れてねえか?」
「っいや、そうでもない。俺の故郷ではよく雪も降るから」
「あーそういや、ユミルだっけ?温泉あるんだよな。いいなあ、オレ様も美女と一緒に混浴でこの疲れを癒したいぜえ」
「……。クロウ、疲れているのか?」
疑問に思った言葉を素直に口に出せば、一瞬きょとんとこちらを見つめたクロウが、次の瞬間爆発したかのように笑い出した。よほど面白かったのか、肩を震わせてひーひー言っている。
「おっお前、どんだけお人よしなんだよ!今さっきまで俺に雪ぶつけられて怒り狂ってたっつーのに、次の瞬間には「疲れているのか?」だってよ!っはーさすが真面目クン!良い子偉い子!」
「それ、まったく褒めてないよな」
「当ったり前だろうが、今は俺の心配してる場合じゃねえだろ?」
呆れた目で見つめるリィンの数倍呆れた目をクロウが向けてくる。その手に握られたままだった雪玉がぽんぽんと宙に放り投げられてはクロウの手に戻っていく。クロウがまるで手品師みたいに手先が器用だという事を、リィンは初対面の時から嫌と言うほど知っていた。だからこそ、その動きに警戒した。雪玉を見つめて身構えたリィンの判断は間違っていない。クロウの顔に笑みが広がる。
「いい反応だ。……それ!」
「っ!」
もうあの冷たさを顔面で受け取るような真似はしない。不意に放られた雪玉を軽く動いで避けてみせたリィンの視界から、すぐさまクロウはダッシュでいなくなってしまう。
「な、なにっ?!」
「鬼さんこちら、手のなる方へーってな!」
元々逃げるつもりだったらしい。ざくざくと音を立てて駆けるクロウの後を、リィンも雪を蹴散らしながら慌てて追いかけた。極寒の中の理不尽な鬼ごっこの始まりだ。
すぐに捕まえてやると意気込んだリィンだったが、クロウの逃げ足はその気合を上回っていた。結局トリスタ中を二人で駆け回る羽目になる。何も跡がついていない美しい真っ白な雪の上を二人分の足跡で汚しながら、リィンは必死でクロウを追った。幸いその子供じみた鬼ごっこを他の誰かに見られることは無かった。
不思議なのは、その寒さである。普通これだけ走り回ったら温まった体が少しでも肌に感じる寒さを和らげてくれるはずなのだが、リィンの芯はいつまで経ってもその痛いほどの冷たさに襲われたままだ。むしろ走れば走るほど、クロウを追えば追うほどその冷たさは増してきているようだ。いつか凍えて固まってしまうのではないかと思うほどだ。一丁前に上がるばかりの白い息を煩わしく思いながらも、前を行く自分より少し大きめの足跡を追う事を止めない。
この寒さの理由を、リィンは知っていた。
「クロウ、待て!」
「待てと言われて待つ奴がどこにいるってんだ!」
愉快そうなクロウの声は、とうとうトールズ士官学校まで辿り着いた。学校内ももちろん隅々まで雪まみれで、そして誰もいなかった。やっとの思いで校門をくぐり、足を止めて肩で息をするリィンを、校舎の前で立ち止まったクロウがやれやれと見つめてくる。
「諦め悪いねえリィン君。お前さんがどんなに走ったって、オレ様にゃ追いつかないぜ?」
「っはあ、はあ……!そんな、事……!」
「何なら降参してみ?負けを認めりゃ足を止めてやるよ」
そう言って笑う顔は、別にこちらを馬鹿にしているものではない。ただ穏やかに、追いつけない後輩を思いやる先輩の温かさが滲み出た笑顔だ。ぎりっと歯を噛みしめ、拳を握りしめたリィンはその笑顔を跳ね避け、強い意志を持った瞳で目の前の顔を睨み付けてやる。
「絶っ対に、認めない!降参なんて、しない!」
「……意地っ張りめ」
一瞬だけ、クロウの笑顔が奇妙に歪んだような気がした。しかし見直す暇も無いぐらいの速さで、踵を返したクロウが再び逃げ始める。息は切れ、また一段と寒さは増したが、リィンに諦める気は一切無かった。後を追って自分も走り出す。鬼ごっこ第二弾が、ここ半年以上で全てを覚えた敷地内で始まる。
クロウの動きは予測不可能だ。校舎に入って二階に上がったと思ったら、次の瞬間には中庭を駆けている。グラウンドに逃げ込んだと思ったら、屋上からあかんべーをして見下ろしている。ギムナジウムに入ったと思ったら学生会館から出てくる。リィンは翻弄されっぱなしだった。それでも足を止める事は無かった。
やがて、あれだけ元気に駆けずり回っていたクロウの動きもさすがに鈍くなってくる。最後の力を振り絞って、リィンは地面を蹴ってその背中に勢いよく飛びついた。どわっと声を上げたクロウが、その手を振りほどけないまま冷たい雪の上に倒れ伏す。一緒に転がって雪まみれになっても、リィンはしがみついた胴体から一切離れなかった。
「っかー、お前がここまで諦め悪いとは思ってなかったぜ……さすがのオレ様も疲れたわあ」
ぜえぜえと息を吐くクロウだが、それ以上に息切れしているリィンは最早喋る事すらままならない。ちらりと顔を上げれば、銀色の頭越しに聳え立つ古めかしい校舎が目に入った。どうやら旧校舎の敷地にまで辿り着いていたらしい。何故か淡い光を放つ旧校舎だけは、雪にまみれていなかった。
「おい、おいリィン、いつまでしがみついてるんだよ、離せって」
軽く手を叩かれるが、リィンは離さない。呆れた溜息を吐いた後、クロウは何とか体勢を変えてうつ伏せから仰向けになった。背中にしがみついていたリィンはそれによって、クロウの腹にしがみついている形になる。どちらにしろ、リィンはその手を放す気は無かった。上半身を起こしたクロウが、己に掴まって離れない黒い頭を見下ろす。
「お前なあ、いつまでそうしているつもりだ?」
「……いつまでも」
「おいおい、冗談はよせって」
「冗談じゃない、俺は本気だ」
決意の言葉とともに腕にもぎゅっと力を込める。困惑したクロウの気配が伝わってきた。いくらクロウが戸惑ったって、この手は離してやらない。頬をクロウの腹に押し付けながら、リィンはさらに力を込めた。
寒い。
「おいこら、リィン。いつの間にお前はそんなに甘ったれになったんだ?」
「甘ったれでも何でもいい。絶対離さないからな」
「おま……」
「……だって、」
腕の力はそのままに、リィンはちらと上を見上げた。困ったような笑みを浮かべて、赤い瞳がこちらを見つめている。その視線はひたすら柔らかかった。年下のクラスメイトを、仕方ねえなあと密かに甘やかしている目だ。この目をリィンは何度も見てきた。甘える事をほとんど知らなかった自分に、ぎこちないながらも甘える事を許してくれた温かい瞳がそこにあった。今ならわかる。この目が自分を甘やかしてくれていたことを、今までは気づきもしていなかったけど。
失った、今なら。
「本当は……本当ならクロウは、こんなに簡単に捕まってはくれない」
吐く息は震えていた。寒かった。本当はこの寒さは体が感じているものではない事を、とっくの昔に知っていた。
「雪の中でどれだけクロウを捕まえたって、本当の俺は……まだ、クロウを捕まえられない」
最初から、気づいていたのだ。だってクロウと一緒に、この真っ白な雪を見た事は、一度も無い。これまでなかったし、そして多分、これからも無い。こうやって二人で鬼ごっこなどしながら笑顔で雪の中を駆け回る事なんて、出来るわけがないのだ。
そんな、雪の季節がやってくる前に、この薄情な先輩は手の届かない所まで行ってしまった。
「なんでだよ、クロウ……どうして、こんな風に俺の前に現れるんだよ……どうしたって、届かないのに……!」
全てを閉ざす雪の中、吐く息はいつの間にか湿っぽい。幻の身体にしがみつく手は震えていた。夢の中のクロウは、リィンがどんなに強く抱き締めても、温めてはくれない。
じっと、震えるリィンを見下ろしていたクロウは、その冷たい手で目の前の黒髪を優しく撫ぜる。
「まったく、泣きべそかきやがって……甘ったれめ」
その感触と柔らかい声に、誘われるように顔を上げたリィンの濡れた目元に、どこまでも冷たい唇が触れた。
「リィン」
ああ。
次にこの声で、この名を聞く時は。
きっと今よりずっと、冷たい世界になるのだろう。
雪の邂逅
13/12/16
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