その町では、名物となる朝市が毎日賑やかに開かれていた。朝早くから安くて新鮮な食物を求めて集まる住民たちはもちろん、近隣の町村や観光客なども噂を聞きつけて集まる盛況ぶりであった。瑞々しい果物や野菜、質が高いと評判なブウサギ肉や、近くの海からとれた魚介類も全てずらりと並べられるメインストリートは、初めて見た者を感嘆させる圧巻の一言である。
毎朝主に果物を売るとある男も、いつものように声を出して呼び込みを行っていた。朝日に光沢を放つ赤いリンゴは特に美味しそうで、道行く人々は味の特徴を伝える呼び込みの声に足を止め、思わず一個二個と次々に購入していった。本日も順調な売れ行きに男は満足した笑みを浮かべていた、そんな時だった。
小さな男の子が、瞳を輝かせてこちらを見つめている事に気付いたのは。

「……お?坊主、このリンゴが欲しいのか?」

客の訪れもちょうど緩やかになった時であった。人ごみに紛れてしまいそうな7歳ぐらいの男の子を、それでも見つけられたのはちょうど人の波が途切れたから、というだけでは無い。おそらくどんなに忙しかろうと人が多かろうと、その男の子を一瞬だけでも見つけられたことが出来ただろうと男は思った。それほどまでに明るい、まるで生きた炎のような朱い色の髪を持った男の子だった。
少し遠くから眺めていた男の子は、男が自分に声を掛けてきたことに気付いて駆け寄ってきた。

「おっさん、おはよ!このリンゴ、すっげえ美味しそうだな!」
「おう、おはようさん。当たり前よ、うちの店自慢の商品だからな!甘くて美味いぞー」
「そっかあ!」

男の子はきらきらと瞳を輝かせてリンゴを見つめる。男は辺りを見回した。ざっと見た所、この男の子の親らしき人物はいないようだ。

「お前さん、親は一緒じゃないのか」
「ん?いやー、保護者みたいのがいるんだけど、向こうで買い物しててさ」

男の子の言葉には少し違和感を覚えたが、大人がついているのならば、と、未だリンゴを眺め続ける綺麗な緑の瞳に微笑みかけた。

「坊主、食いたきゃおねだりしてきな。果物屋のお兄さんが特別安くしますぜって言ってたってよ」
「いやおっさん、さすがにお兄さんって歳じゃねーよ。それにあいつ、おれのおねだりが効くような奴じゃないしなあ」

はあ、とため息を吐く男の子は、少しだけ見た目の歳より大人に見えた。口も達者だし、やれやれと息を吐き出すその仕草が、あまり子供っぽくはないなと感じたためだ。そのすぐ後に羨ましそうに再びリンゴを見つめるその瞳は、純真な子供そのものであったのだが。
首を傾げながらも、男は仕方がないとため息を吐いた。さっきの男の子のものと似たような溜息だったが、男の子はまだ見ぬ保護者とやらに、男は未練がましそうな男の子に向けたものだ。

「ったく、しょうがねえなあ。ほれ、受け取れ」
「え?わわっ!」

男が数の減ったリンゴの中から一つを手に取り、男の子へ向かって放った。今日は売れ行きが好調だったため、一個ぐらい哀れな子供に恵んでやろうと言う気分になったのだ。驚きながらも無事にリンゴをキャッチした男の子は、いきなり手元に現れる事になった赤と男を忙しなく交互に見つめた。

「え?えっ?おっさん、おれお金持ってねえよ」
「いいから、いいから。お前さん初めて見る顔だし観光客だろ?この町自慢の朝市により良い思い出づくりをってな。お兄さんからのプレゼント、遠慮せずにもらっとけ」
「お、おっさん……!ありがとう!」

感動に身を震わせた男の子は、お利口さんにぺこりとお辞儀をして見せた。通行と店の邪魔にならないように端の方へ移動すると、さっそくリンゴを眺め回してガジリと一口齧る。しゃくしゃくと良い音を立てながら咀嚼した男の子は、頬を幸せそうにリンゴ色に染めてうっとりと笑った。

「っはあー、うめえー!おっさん、これすっげえ美味いぞ!」
「ははは、そうかそれはよかったぜ。お兄さんの店一番の売れ筋商品だからな!」
「おおさすがおっさん!」

リンゴを口いっぱいに上手そうに頬張る男の子の姿は、傍から見ていても微笑ましいし、この上なくリンゴが美味しそうに見える。男の子を見て店の前で立ち止まる人たちもちらほらいるぐらいだ。こりゃいい客寄せになるなあと男は感心した。リンゴひとつで店の宣伝をしてもらっているようなものだ。色んな意味で良い事したな、と男が満足げに思っていた時だった。
目の前を、真紅が横切った。

「っち、こんな所にいやがったか」

見事な赤の長髪を朝の空気に靡かせて一人の青年がしかめっ面で男の子へと歩み寄っていた。男は青年の姿を見て一瞬で悟っていた。この青年こそが、男の子が言っていた「保護者」なのだろう、と。年齢差故に全く同じとまではいかないが、男の子と青年の顔はそっくりだった。親子ほどの歳の差ではないし、歳の離れた兄弟だろうか。
男の子はリンゴをもぐもぐ頬張りながら、青年へ向けて手を挙げてみせた。

「お、アッシュ!買い物終わったのか?」
「終わったのか?じゃねえ!勝手にうろちょろすんなとあれほど言っておいただろうがこの屑が!」

天真爛漫な男の子を、青年は絶対零度の目つきで睨み付けている。男は震え上がった。あの眼は修羅場をいくつも超えている眼だ。そんな鋭い視線を、年端もいかない子供に向けるなんて、と戦慄したのである。しかし男の子はけろっとした顔で頭を掻いてみせるだけだ。

「だってつまんなかったんだもん。ちょっとぐらいいーだろ、あんまり離れないように見物してたんだしさあ」
「距離的には離れていなくても、こんな人混みではぐれたら見つけるのに苦労するんだよ、んな事も分からねえのか!」
「人混みなんて、関係ないじゃん」

ぺろりとリンゴの汁がついた指を舐めて、男の子は笑顔を見せた。何も知らないたまたま目撃してしまった男でさえドキリとするような、深い意味の込められたたおやかな笑顔だった。

「アッシュなら、おれがどこにいたってすぐに見つけてくれるだろ?」

言葉だけ聞けば、それは何の根拠もない愚かな信頼だった。しかし男の子は、まるでそれは当たり前のことなのだと告げるようににこにこと笑っている。対する青年も、先ほどまでの剣幕を忘れてしまいそうになるほど、穏やかに頷くのだった。

「……ああ、そうだな」

男の子の幼い言葉を、静かに頷いて肯定する青年。一瞬だけ男は、周りの喧騒を忘れ去った。この赤毛の兄弟は、飲み込まれそうなほどの深く不可思議な空気を纏っていた。
かつて男が味わった事の無いそんな雰囲気も、青年が振り下ろした拳骨で全てが吹き飛ぶこととなる。

「が、それとこれとは別だ」
「いってえええ!殴る事はねえじゃん!鬼!悪魔!オカメインコ!」
「ほお?もう一発食らいたいみてえだな……」
「ぎゃーっ!暴力反対!」

途端にぴーぴーやかましく囀り出した男の子と、貫くような不機嫌そうな視線を取り戻した青年に、傍から見ていた男はあっけに取られた。今の空気は早朝に見た幻覚だったのかと思わず考えてしまいそうなほど、二人の雰囲気は最初に見た通りのままである。男は目を擦っていた。
と、そこで青年がようやく男の子の手に見知らぬ物体が存在する事に気付いたらしい。訝しむような声を出した。

「……おい、そいつはどうした」
「あ、これ?そこのおっさんのお店のリンゴ、めちゃくちゃ美味いんだぜ!」
「今日は金を持たせていなかったはずだが、どうやって支払った」
「支払ってねーよ、タダで貰ったから」

あっけらかんと答える男の子に、青年はくわっと目を見開いた。リンゴを美味しく頂くその頬に両手をかけて、柔らかなそれをびよんと左右に引っ張ってみせる。

「てめえはまた!リンゴを盗みやがったのか!背が縮む時に金の払い方も忘れてきちまったのかド屑!脳みそまで7歳児以下に退化したか!」
「いひゃいいひゃい!ひふぁうはら!ぬすんへふぁいはらぁ!」
「お、おい兄ちゃん、そいつは俺が坊主にあげたもんだ、別に盗られた訳じゃねえよ」

あまりにもよく伸びるほっぺたに一瞬見とれた男だったが、すぐに慌てて助け舟を出した。今初めて男の存在に気付いたようにはっと振り返ってきた青年は、男の言葉を聞いて男の子から手を離す。ぺちんと元に戻った頬を摩りながら男の子が涙目で青年を見上げた。

「ってー……!いきなり人を盗人呼ばわりはひどいんじゃねえの?!」
「ふん、前科がある方が悪い」
「それは!……まあ、はい、すんません」

理不尽な仕打ちを受けたというのに、男の子は視線を彷徨わせてぶつぶつと謝っている。過去に何かやらかしたことがあるのかもしれない。青年はふてぶてしくふんと息を吐き出すだけであったが、一回だけ男の子の柔らかそうな頭にぽんと触れてみせた。今のが詫びのつもりなんだろうなと、初対面である男でも分かったぐらいだった。
男が思わずニヤニヤ笑っていると、バツが悪くなったのか青年がぶっきらぼうながらも軽く頭を下げてきた。

「こいつが世話になったみたいで、すみません。あのリンゴの代金ですが……」
「あー、いいって、店先で美味そうに食ってくれていい宣伝にもなったし、それでチャラって事で」
「……ありがとうございます」

今度は深いお辞儀。さっきの男の子に対する態度とはまるきり違いすぎて、男は内心戸惑ってしまった。きっと根は礼儀正しい青年なのだろう。礼を述べた後、青年はリンゴを半分ほど食べ終わった男の子へと向き直った。

「呑気に食ってないでそろそろ行くぞ、ルーク」
「……っ!」

呼びかけられて顔を上げた男の子は、何故かびくりと動きを止めた。見送る体勢でいた男は不思議に思う。何故男の子は今、まるで信じられないものを見るような反応を示したのだろう。青年は別に珍しい事をやっている訳では無い。ただごく普通に名前を呼んで、手を差し伸べているだけだというのに。
そんな、男にとっては当たり前だとしか思えない青年の姿を、男の子は目を丸くして見上げて。じわじわと、リンゴを食べている時の何倍も幸せそうに、ゆっくりと微笑んだ。小さな手が差し出された青年の手を恐る恐る握りしめたのは、その少し後のことだった。

「それでは」
「リンゴ、ありがとなおっさん!またなー」

青年に腕を引かれて、リンゴを振り回して手を振ってくれた男の子は朝市の通りを歩き去って行った。男はしばらく仲良く並んだ二人分の背中を眺めてぼーっとしてしまった。はっと我に返ったのは、それぞれ僅かに色の違う赤い頭が完全に見えなくなってからだった。

「はあ……随分と不思議な奴らだったなあ」

不思議だったが、不快では無い。むしろさっぱり晴れやかな気分になった男は、残った果物を売り切ろうとさらに声を張り上げて呼び込み始めた。まるで今の、大事そうに互いの手を掴む赤毛の兄弟たちの幸せをおすそ分けしてもらったような、ほかほかした気持ちでその日を過ごす事が出来たのだった。





「なあ、アッシュもこのリンゴ食ってみる?美味いぞ、あともう少ししかないけど」

アッシュの大きな手に引かれて歩きながら、ルークは食べかけのリンゴを頭上へ差し出してみた。ちらと顔を向けてきたアッシュは、あと一口二口で食べ終わりそうなリンゴの有様を見て眉をしかめてみせる。

「いらん。自分で食い切れ。そもそもそういう事はもっと早く言い出せ」
「夢中で食べててさ、思いついたのが今だったんだ。んじゃ、最後の一口いただきまーす」
「はあ、その小せえ体相応のオツムをしているようだな」
「誰が脳みそまで小さいだ!!この歳にしてはでっけえし!多分!」

リンゴを有難く食べ終わって、ちょうど目に留まった飼育されているブウサギに向かって芯を放る。宿で食べた朝ご飯に加えてリンゴのデザートまで食べ切ったルークは満腹になった己の腹を片手で押さえながら、もう片方の手を見つめた。しっかりと繋がれている大人の手と、子供の手。視線で辿っていけば、前を向くしかめっ面がそこにあった。同じような顔でも見ていて飽きないその横顔を、しかし今ではほとんど見上げる角度からしか眺める事が出来ない。それを少しもったいないと思う。

「……歳、か……」

思わず零れ落ちてきたのは、自分でもびっくりするぐらいどこか寂しげな声だった。もちろん隣でそれを聞いていたアッシュは、しばし沈黙した後ふんと鼻で笑う。

「むしろ今の姿の方がお前の真実の姿だろうが、7歳児」
「む、むむむ……!でもその人生7年間を常にプラス10歳で生きてきた歴史があってだなあ!」
「安心しろ、17歳の身体だった時もお前は変わらずガキそのものだったからな」
「ぐぁーっ否定しきれないのがよりムカつくーっ!」

完全に馬鹿に仕切った態度のアッシュに、ルークは歩きながら器用に地団太を踏んでみせる。以前からこうやって何かと馬鹿にしてきて下さっていた被験者様であるが、ルークが今の姿になってからはさらに子供扱いに拍車が掛かっているような気がする。この、手を繋ぐという行為もそうだ。はぐれないようにと、移動する時アッシュは何かとルークの手を引いていこうとする。ルーク自身はまだ今の7歳児の体に慣れないせいで手を繋ぐのも少し気恥ずかしく思っていた。……しかし決して、嫌な訳では無い。
それにルークは知っている。何かとチビだのガキだの見下した態度をとるアッシュが、心体共に7歳になったんだからいいだろと普段はそっけなく切り捨てるアッシュが、この世界を巡る旅の途中にルークの体を元に戻す方法をこっそり探してくれている事を。最初の頃一度だけ、「元の体に戻りたいか」と尋ねられた問いに頷いた、あの日から。

本来ならばレプリカであるルークは、こんな小さな7歳児の体すら得る事などなく、自身の音素の全てをオリジナルであるアッシュに返して消えているはずの存在だった。ローレライを地上から解放したあの日、アッシュを生まれて初めてその手で抱き締めたあの日でルークの全てが終わるはずだった。事実それからしばらくルークの意識も記憶も無い。ただ、どこか分からないあったかい場所でふわふわと漂いながら眠っていたような気がするだけだ。あれはあれでなかなか幸せな一時だった。ただ一つの約束だけが心残りであったけれど、それ以外は全てやり遂げて、精一杯生きて、借りていたものも元の持ち主に返す事が出来て、充足感に満ちていたのかもしれない。そんな、人としての短い生を終えたはずのルークを再び人としてこの世界に呼んでくれたのは、他の誰でもないアッシュだった。
ルークは今でも色鮮やかに思い出す事が出来る。ぼんやりとしていた意識が急にどこかへ引っ張られて、はっと目覚めた時のことを。呆然と瞬きをして、ものが見える事。ひゅっと空気を吸い込んで、息をしている事。己の名を呼ぶ声で、耳が聞こえる事。震える声で名を呼ばれて、自分がルークと言う名前を持っていた事。それら全てをゆっくりと実感していき、そして目の前にアッシュがいる事に気付いたのだ。あんなに美しい翡翠の色を見たのは、ルークの短くも濃い人生の中で初めての事だった。アッシュが涙を流す姿も、また初めて見たものだった。
「ルーク」、と、返したはずの名前で元の持ち主だったはずの人にそう呼ばれ、ルークは再びルークとなった。それが数十日前の事。お前は一番に何がしたいんだ、と問われ、自分の手で救ったこの世界をもっと見たいと答えた時から今までずっと、ルークとアッシュの二人きりの旅が続いている。必ず帰ると約束をした仲間たちに会いたい気持ちもあったのだが、突然生き返ってしまって心の準備も出来ていないし改めて世界を見たいというのも本当の事だ。こんな子供の姿で皆の前に出ていくのは恥ずかしいと言う理由もあるがそれが一番では決してない。断じてない。

「……まだ、慣れないなあ」

思わずぽつりと独り言を吐き出す。今までの事を思い出して、涙を湛えたアッシュに大事そうにそう呼ばれた時のことや、先ほど自然に名を呼ばれて手を差し出された時のことなんかを思い浮かべてそう溢していた。昔のように劣化レプリカと呼ばれることは無くなった。屑とは罵られるが、アッシュの口癖のようなそれも明らかに頻度が減っている。代わりにルークと呼んでくれるのだが、その事はめちゃくちゃ嬉しいのだが、ただただ慣れないのだった。きっとこれからも共に過ごせばどんどん慣れていくのだろうが、少なくともまだびくびく反応してしまうのが現状だ。
きっと、多分、嬉しすぎて。幸せすぎて、現実が信じられなくて、それで過剰に反応してしまうのだと思う。これは夢か、と。そんなまさか、と体と心が叫んでいるのだ。つまりは、心臓に悪い。アッシュ本人は特別意識して呼んでる風では無く、ごく自然体に呼んでくるのでなおさらだ。予測しきれないのがたちが悪いと思う。昔はあれだけ頑なに呼んでくれなかったくせに、ルークがいない間一体何があったというのだろう。
そう、ルークは知らない。アッシュがルークの消えた世界で先に目覚めて、どうやって生きてきたのか。何を考え、どうしてルークを取り返そうと思ったのか。どうやってルークを蘇らせたのか。どうして今も、ルークがしたいように共に旅をしてくれているのか。その全てをルークは知らない。それとなく尋ねてみた事もあるが、明確な答えを貰った事は一度も無い。ほんのちょっぴり気になるのは確かだが、ルークはそれ以上聞かなかった。ルークにとって、自分がもう一度こうして生きている事、アッシュと一緒に旅ができる事そのものが幸せで重要すぎて、どうしてなどという疑問なんてどうでもいいという思いがあるためだった。
だって今はただ、アッシュが傍にいて、こうして手を繋いで名を呼んでくれるだけで、この上なく満たされているのだから。

「じきに慣れるだろ。目線の高さ、リーチの差なんかはまだしばらく違和感が伴うだろうがな」

ルークの独り言に律儀に答えてくれるアッシュは、どうやらルークが7歳の子供の体にまだ慣れないという愚痴を零していると思ったらしい。本当はその事じゃなかったけど、それも確かにまだ慣れないので、ルークは素直に頷いておいた。

「アッシュも一回おれと同じぐらいの体になってみろよ、色々不便だぞ」
「俺はすでにもう10年以上前に通った道だ。大人しく受け入れろチビルーク」
「もーっだからチビチビ言うなっつーの!」

ルークが頬を膨らませば、ふっと笑ったアッシュが繋いでいない方の手を伸ばし、頭をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き混ぜてくる。やめろーと言ってはみるものの、おそらくルークが頭を撫でられて喜んでいる事などアッシュには回線がつながっていなくてもお見通しであろう。ご機嫌取りの時なんかにここぞと撫でて下さるのである。それで見事に機嫌が直る自分も自分だよな、とルークは他人事のように笑った。

「宿に戻って荷物を整理したら、さっそく出発するぞ。これから向かう先へは馬車が出ていないようだが、数回野宿すれば次の町に辿り着けるだろう」
「ん、りょーかい」

ぶんぶんと握りしめたアッシュの腕を振って答えたルークは、ふと、今までにない心境になった。ただの自分の気まぐれなのか、それとも自分自身でも気付いていない所でずっと気になっていたのか、ルークにも良くは分からなかったが。再び目覚めてから今までを回想していた流れで、一つだけアッシュに尋ねてみたいと思ったのだ。

「なあ、アッシュ」
「何だ」

声を掛ければすぐに答えてくれる声。かつては似ていたはずのその声も、大人と子供に分かたれた今ではまったく違う声質になってしまった。それをルークはほんの少しだけ寂しいと思っても、こんな事なら蘇らなきゃよかったなどとは決して思わない。生きたいと願っていた、それでも諦めざるを得なかった以前があったから。さらに誰よりも認めてほしかった人に助けてもらった命だから。ルークはこの先、生きたくないとか死にたいだとか思う事は絶対にないだろうと思う。生のある今が幸福だから。
では、じゃあ、アッシュはどうなんだろう。

「アッシュは、どうして、」

自分の命を再び手にする事が出来て嬉しいルーク。ではアッシュは。オリジナルの場所を奪った邪魔者なはずのレプリカを。消えて己の中に還ったはずの存在を、どうして、わざわざ。ルークが目を覚ました瞬間、あれだけ幸せそうに、やっと取り戻せたのだと涙を流して喜んでいたのは、どうして。
どうして、アッシュは。

「どうして、おれを呼び戻したんだ?」

どうして、返したはずの「ルーク」をもう一度、おれなんかに。

言葉にしなかった想いは、もしかしたら伝わってしまったのかもしれない。突然の問いに最初軽く目を見開いていたアッシュが、みるみるうちに不機嫌そうな表情へ変わってしまったからだ。ビビるルークだったが、質問は取り消さない。手を掴まれているためにこれ以上離れる事も出来ずに、さあ来いとへっぴり腰で答えを待ち受けた。
宿へ向かっていた足を止めて、しばらく二人の間に沈黙が訪れる。賑やかな朝市からはすでに抜け出していたために幸い周りに人の姿は無い。睨み付けてくるアッシュを、ルークは負けじとばかりに見返した。知らない人が通り掛かれば喧嘩かと勘違いしそうな視線の飛ばし合いは、ふっとアッシュが身体から力を抜いて終わりを迎えた。

「んなの、決まってるだろうが」

目元を和らげ、しかし剣呑な顔は崩さずに、アッシュは堂々と答えた。当然だろうと言わんばかりに、胸さえ張って答えた。

「俺がそうしたかったからだ」

は、とルークの口から間の抜けた息が漏れる。大変単純明快な答え。もっと言えば唯我独尊的な、勝手な答えだ。そこにルークの意見や気持ちは存在しない。アッシュがそうしたかったからそうしただけだと、その目は本気で語っていた。
相変わらず自分勝手な。そんな風に憎まれ口を叩きかけたルークは、あれっと気付いた。アッシュは自分がそうしたいと思ったから、ルークを蘇らせた。他の誰でもないアッシュがそう思ったから。他人やルーク本人がどう考えようとどう願っていようと、例えルークが嫌だと拒否したって連れ戻していたという事だ。全てはアッシュの都合で。
つまり。アッシュがルークを蘇らせたかったのだ。
アッシュが、ルークを求めて、欲したから、手に入れたのだ。
アッシュが、ルークを。

「……えっ」

気付けばルークはぼっと赤面していた。辿り着いてしまった答えは、今のルークにとってあまりにも刺激的すぎた。しかもそれが本当に正しい答えなのかもわからない。アッシュは変わらずいつもの不機嫌そうな表情でルークを見下ろしているだけだ。
でも、気のせいだろうか。握りっぱなしのアッシュの手が、いつもより熱く感じる事。緊張するように汗をかいている気がする事は。

「……分かったらとっとと行くぞ」
「……はい」

歩き出したアッシュの歩幅は、まるで急いでいるようにいつもより大きかった。半ば引き摺られるように歩き出しながら、ルークは熱の集まった顔をあげられない。子供の頭では、これ以上の答えには辿り着けそうにない。

(……ま、いいか)

正しい答えは、これから探していこう。アッシュと旅する二人の道で、ゆっくり成長しながら導き出そう。もう急いで17歳にならなくても良い。等身大のルークのままで、そんなルークを受け入れてくれるアッシュの傍で、生きる事が出来るのだから。いや、元に戻れる機会があれば戻りたいけれども。
よし、と頷いたルークの低い視線からは、残念ながら見る事が出来ない。前を行くアッシュの耳元が、うっすら赤く染まっている事が。

「……子供にはまだ、この答えは早すぎる」

そっと呟いたアッシュの正しい答えは、俯いて幸せそうに笑う小さなルークの頭上を、まだまだ越えていくばかりなのだった。




  ふたりぶんの、陽だまりに





15/12/15