その日、ルークは傘を忘れた。天気予報では昨日から、本日は午後から雨が降る事を散々お知らせしていたというのにこのザマだ。もし家を出た直後や歩いて五分程度にこの曇天を見上げて思い出していれば、すぐに引き返して傘を手にする事が出来ただろう。実際にルークが傘の存在を思い出したのは、ほとんどの生徒がその手に色とりどりのたたまれた傘を持っている事を目にした校門前だったのだ。救いようがない。
それでも今日一日、いや下校時間までこの雲は雨粒を垂れ流す事を待ってくれるに違いない、と根拠のない予想を往生際悪く立てていたのだが。ザーザー音を立てて目の前に広がる雨のカーテンに、案の定全てを裏切られる結果となったのである。下駄箱の屋根の下で、呆然と真っ暗な空を見上げるしか今のルークに出来る事は無かった。


「う、ううっ……!雨の馬鹿野郎ー!」


いくら叫んでも最早取り返しのつかない現状であった。全てはルークが悪いのだ。あれだけ傘を忘れるなと何度も何度も言い聞かせてくれたお天気お姉さんの言葉をすっかり忘れ、今が梅雨時だというのに完全に油断しきっていた、全てルークの忘れっぽさと怠慢が招いた事態であるのだ。それを自分でも嫌というほどわかっていた。それでも叫ばなければやっていられなかったのは、ただの負け惜しみであった。
脇をにやにや笑うクラスメイトが通り過ぎていく。もちろん皆その手には自前の傘を握りしめていて、パンと小気味よく開いては雨の中を濡れずに歩いて行ってしまう。中にはぽんと慰めるようにこちらの肩を叩いていった者までいた。今そんな触れ方をされても馬鹿にされている気がするだけだった。もちろん分かってやっていたのは通り過ぎ様のからかうような笑顔を見れば一目瞭然であった。ちくしょう、とどれだけ悪態をついてみても、からかわれる原因の傘を忘れたのは自分自身なのである。ルークは力なく項垂れた。


「はあー……。……走るか」


敗者であるルークに残されている道はただ一つ。この決して小雨とは呼べない雨量の中を、必死に走って帰るというごくシンプルな道だけだ。数分で帰りつけるような場所に自宅は無いので、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになってしまうことは必至であるが、仕方がない。諦めと覚悟を胸に、すうはあと深呼吸をして挑むように空を睨み上げるルーク。その背中に怪訝そうな声を掛けられたのは、その時であった。


「……何してやがるんだ、屑が」
「あ?!」


その、人を臆面も無く屑呼ばわりする言葉と声には聞き覚えがありすぎた。今から冷たい雨の中に飛び込むという気合を一瞬で全て捨て去って、ルークは勢いよく振り返った。そこには思った通りの仏頂面が睨み付けるようにしてこちらを見つめて佇んでいる。いけすかない顔だった。でも一応、本当に睨み付けられている訳では無い事はルークにも分かっていた。この男はただじっと集中しているだけでその鉄仮面のおかげでガンを飛ばしていると勘違いされるのだ。口が悪いのもルークをからかうための意図が含まれている訳では無く、これが素なのである。それがまたムカつくのだが。
この男の名はアッシュ。ルークとは学年が一緒で、クラスも一緒で、ついでに身長も体重も一緒で、さらに言うと力比べや体力勝負なんかもかなりの確率で引き分けに終わるぐらい運動能力も一緒という、俗にいうライバルであった。アッシュは認めたことは無いけれど。ルークは何かと自分とお揃いになってしまうアッシュと毎日何かと張り合っているのだった。ただし、勉強以外。


「べ、別にアッシュには関係ないだろ!」
「ほう?」


精一杯虚勢を張るルークをじろじろと眺めてから、アッシュはふんと息を吐いた。今度こそ小馬鹿にしたような表情だった。


「屑が、丸わかりなんだよ。朝から今にも雨が降り出しそうな中、間抜けにも傘を忘れやがったか」
「う、うぐぐ!」


反論の類が出来るはずも無かった。その通りでしかない。馬鹿にされたような事を言われればすぐに食って掛かるのがいつもの流れだったが、100%自分の落ち度があると分かっている場面でそれをする事の愚かさと空しさぐらい、ルークにだって分かっているのだ。
言葉を詰まらせ、ふいと横を向いてみせればアッシュも意外だったのか目を軽く見開く。その手には当たり前のように傘が握られていた。真っ黒で味気のない傘はとてもアッシュらしい。ルークは唇をとがらせて、しっしとおざなりに手を振った。


「あーあーその通りだよ、笑いたきゃ笑えよ。んでさっさと濡れずに歩けることを有難く思いながら帰れよ!俺は今どこをどう帰ったら一番雨に濡れないかイメージトレーニング中なんだからな!」
「まさか、降ってくる雨を避けようとか思ってんじゃねえだろうな」
「さすがにそこまで馬鹿じゃねーし!雨宿りポイントを計算してるんだよ!分かったらもう構うなよっ!」


ルークは少々惨めな思いを抱えていた。昨日寝る前までは、ちゃんと傘持っていかないとなーと考えていた事がまたダメージを増幅させている。やけっぱちにそうやって言い放ち、気分を害したアッシュが不機嫌そうな顔をするか、もしくはますます馬鹿にしたような顔をして歩き去っていく姿を予想していた。それを悔しく見送ってから、改めてずぶ濡れの帰り道に挑むつもりだったのだ。かくしてルークの予想通り、パンと傘を開く音がそっぽを向く耳に届いてくる。
しかしそこまでだった。持ち主を雨から守るために開いたはずの傘に、バタバタと雨粒が当たる音がいつまで経っても響いてこない。ルークは首を傾げた。傘を開けばあとは雨の中に足を運ぶだけだというのに、どうやらアッシュは踏みとどまっている。何か理由でもあるのだろうか。忘れ物を思い出したとか、別な知り合いを見つけたとか。気になって視線を戻したルークと、アッシュのほぼ同じ色の瞳がバチリと音を立てて正面から合わさった。ルークは驚いた。視線を向けた途端に目が合ったという事は、アッシュはそれまでずっとルークを見ていた事になるのだ。雨の当たらない下で傘を開いて、今にも外へ歩き出しそうな姿勢で。


「な、何だよ、どうしたんだ?」
「……いや、」


あの、いつもハキハキキッパリとルークの事を罵ってくるアッシュにしては珍しく口ごもっている。視線を僅かにうろつかせ、しかしすぐに覚悟を決めたような翡翠の瞳を向けてくる。雨の中でも翳らないあの意志の強い瞳だけは綺麗だな、とルークはぼんやりと思った。
ぼんやりとそんな事を考えていたから、最初は意味が呑み込めなかった。


「俺の傘は通常より大きい」
「は?」
「だから、人二人ぐらいは余裕で入れる」
「お、おお……?」


突然語り出したアッシュにルークはとっさについていけない。戸惑う姿を見て少し怯んだ様子のアッシュは、しかしすぐにキッと目元に力を入れて踏みとどまった。随分と覚悟して放たれたのだと傍から聞いていても分かるようなぎこちない言葉を、丸い目のルークに言い放つ。


「っだから!……ちっぽけなてめえぐらい、余裕で入れてやる事が出来るんだが?!」
「………。……へっ?」


思考を停止した頭から、思わず漏れたのは随分と間抜けた声。そのまま限界まで目を見開いたルークと、射殺さんばかりに睨み付けるアッシュの目が、かち合ったまましばらく無言の時が流れる。ちらほらと帰路につく他の生徒たちの不思議そうな視線を浴びながら、実際にはおそらく10秒にも満たない時間だっただろう。それでもルークにとっては果てしない時間が経ったかのような心地であった。おそらくアッシュもそうだったのだろう。耐え切れぬように先に動いたのはルークでは無かった。


「……てめえが雨に濡れて風邪を引いて喜ぶ変態野郎なら良い、忘れろ」
「!!!だ、誰が変態だ、違ぇーし!入る!入らせてくれアッシュ!」


今までの躊躇っていた間は何だったのかと問いかけたくなるほどさっさと歩き出してしまったアッシュに、ルークは気付けば追い縋っていた。未だ弱くならない雨足の中を駆け寄れば、アッシュはルークを避けたりはしなかった。言葉通りすっぽりと、大きい傘で雨の脅威からルークの体を守ってくれる。本当に入れてもらえるとは、とルークはまだ信じられない思いで一杯だった。


「……本当にいいのか?」
「……帰り道が途中までほぼ同じですぐ傍に濡れ鼠がいやがったらさすがの俺も目覚めが悪いからな。それだけだ」
「……そっか」
「……もう傘を忘れんなよ、屑が」
「……うん」


ぽつ、ぽつ、と。雨よりもはるかに小さくゆっくりとした言葉が交わされる。教室でこうやって会話をする時は、決まって加熱して激しい言い合いになるのに、どうした事だろうか。今は、雨に囲まれた今だけは、喧嘩ばかりの二人の間に優しく静かな時間が流れている。さあさあと鳴り止まない雨音と一緒に傘の下、共に並んで歩む柔らかな空気が揺蕩っている。それをルークは、不思議と不快に思わなかった。いつもと全く違うアッシュと一緒にいる空間なのに、嫌だとは欠片も思わなかった。とても不思議だった。いつもいつもぶつかってばかりで顔が合えば喧嘩して、何でも張り合ってばかりの関係もそんなに嫌ってはいなかったのに。
軒下に垂れる雨粒のような会話の後、どちらも声を上げない静寂な帰り道。それでも気まずさを覚えなかった時間に、ルークは内心ずっと首を傾げながらも。やっぱりどこか、居心地の良いものとして捉えていた。

その後アッシュは少々遠回りをしてまでルークを自宅の玄関まで送ってくれた。律儀な奴と呟けば、お前とは違うと憎まれ口を返された。ルークは玄関先、アッシュは二人でいた傘の下に一人、そうやって離れたからいつもの調子が戻ったのかなと思った。そう思ったら心のどこかにすっと風が入り込んだような心地がしたが、理由は分からない。
結局ろくな礼を言う事も出来ないまま、ルークはアッシュの少し濡れた背中を見送った。特に左肩、ルークが傘に入った反対側が濡れていたのが、何故か妙に気になった。




翌日。この日もルークは傘を忘れた。最早自分に呆れ果てるほどだった。寝る前あれほど鏡の前の自分に念を押し、夢にも見たのに忘れていた。目を覚ました時間が遅刻しそうなギリギリの時間だったお蔭で、制服に着替えて鞄を持つ事で精一杯だったのだ。傘の存在に気付いたのは昨日より早い登校途中であったが、引き返している時間など残念ながらどこにもなかった。ちなみにその日見た夢の中でルークは沢山のカラフルな傘に囲まれているにもかかわらず、あの地味なアッシュの傘に二人で入って、何故か二人で楽しそうに笑っていた。悪夢だと思った。
ルークはもう未来に期待はしなかった。代わりに過去を呪った。どうして今日も、朝は雨が降っていなかったのか。昨晩から続いて一日中のザアザア降りであれば、いくらなんでもルークだって傘を忘れる事は無い。アッシュの言葉を否定した通り、ルークは別に雨に濡れて風邪を引く事に快感を抱く変態ではないからだ。だというのに本日の朝もまるでルークが傘を忘れるように促すかの如くぴたりと雨は止んで、学校にたどり着いた途端再び降り始めた。もちろん下校時間にも降り止むという奇跡が起きるはずも無く。下駄箱で立ち尽くすルークの目の前には昨日と同じ雨の壁が容赦なく立ちふさがっているのである。


「……まさかてめえ、今日もまた……」
「……言うな、俺だって反省してるんだから……」


隣には傘を持ったアッシュが立っていた。完全に呆れ返った顔だった。当たり前だろう、ルークだって目の前に自分がいれば同じ顔をしている。どれだけ馬鹿にされても今回ばかりは何も言えそうにない。
雨を目の前にして全力で落ち込んだルークは、ちらっとアッシュを見た。アッシュは傘を広げて今にも帰る間際で、ルークの視線に気づいて顔を向けてきた。見つめる瞳は呆れたまま。ムカつき以上に申し訳なさを感じながら、ルークはへろへろな声を上げた。


「アッシュぅー……。その、すっげえ頼みにくいんだけど……」


正直、断られるかと思った。昨日のは明らかにアッシュの気まぐれで、引き続き今日も、というのは無理だろうと。何せ本日の休み時間も、何かと口喧嘩を繰り広げたばかりなのだ。だから余計に頼みづらい。無視して帰られても仕方がないと思った。
しかしアッシュはルークを無視して歩き出さなかったし、断ると即答する事も無かった。情けない表情のルークに重い重い溜息を吐き出した後、仕方なさそうに傘を差し出してくれた。


「今日だけだ」
「マジで!いいのか!昨日も入れてもらったのに今日まで……実はアッシュ、人が良い?」
「あ?」
「何でもないですありがとうございます!」


褒めたつもりだったが言葉が悪かったのか照れているのか、殺気まで漂ってきそうな目で睨まれて慌てて首と手を振った。ぷんと顔をそむけてしまったアッシュがまたさっさと歩きだしてしまったので、置いていかれないようにすぐにルークも隣に並んだ。傘は昨日と同じように逃げなかった。
そうしてまた、二人きりの無言の時間が訪れる。辺りは降り止まない雨粒に囲まれていて、ルークたちと同じように帰路につく生徒たちの姿までもがよく見えない。まるで傘で遮られたこの二人だけの空間だけが、周りの世界と切り離されてしまったかのよう。水を蹴飛ばす二人分の足音を聞きながら、やはりルークの心に気まずい気持ちは生まれない。うっとおしい湿気のまとわりつく中を、それでも急いで帰ろうなどという気が起きない。歩みもきっと、一人で帰る時よりずっと遅かった。無意識だった。
ルークは横目でアッシュを見た。真っ直ぐ前を向いているアッシュのその顔も、いつもより穏やかに見えた。気のせいか、いつも浮かぶ眉間の皺も少ない気がする。アッシュも、ルークと同じような気持ちを抱いているのだろうか。少なくとも心から不快には思っていないだろう。ルークは時たま友人たちに鈍いと称されるが、何だかんだと毎日顔を合わせているアッシュの機嫌まで読み違える事は無い。アッシュは基本的にいつも仏頂面だが、その時の気分というのは雰囲気か何かでとても分かりやすい男なのだ。
怒鳴り合っているばかりのアッシュとの、怒鳴り合わない僅かな時間。今日もアッシュは、ルークを玄関先まで送ってくれた。やっぱり喧嘩腰の言葉を二、三回交わして、礼も言えずに背中を見送る。やっぱり左肩が濡れている。
そこでルークは、やっと気付いていた。




さらに翌日。またしてもルークは傘を忘れた。しかもこの日は朝から小雨まで降っていた。
忘れた、と言うには語弊があるかもしれない。ルークは今日の朝ちゃんと傘の存在を認識していた。ぱらぱらと小ぶりではあったが、決して無視は出来ないほどの雨量だったのだから当たり前だ。玄関の扉を開けて空を見上げ、ちらと玄関の脇に差してある自分の傘を見つめさえしたのだ。それなのにどうした事か、ルークは傘を持つことなく外へ駆け出していた。別に走らなくても遅刻にはならないだろう時間だったにもかかわらず、だ。息を切らせて学校まで走るしっとりと濡れたルークの頭の中に浮かんでいたのは、ただ一つの光景だった。
アッシュと並んで一つの傘に入って帰る、あの静かで安らかな時間だけであった。


「てめえは心の底から馬鹿なのか……」


当然アッシュには呆れられた。呆れを通り越して無表情の域にさえ達していた。ルークは今日も反論出来ない。朝から雨が降っていたのに傘を忘れましたなんて言われてしまえば、今までのルークだってきっと同じ顔をしている。しかし今日のルークは何も言わずにアッシュの目の前に立って、利き手である左手を差し出していた。


「傘、貸せよ」
「は?」
「俺が差すから、アッシュの傘貸せよ」


そうやって言い放てば、こいつはとうとう気でも狂ったのではないかという目で見られた。さすがに少し心外だった。


「とうとう脳みそにカビでも生えたか。自分で傘を忘れておいて人から強奪しようなどと……」
「違う、誰も奪うなんて言ってねえだろ!ほら、貸せってば!」


半ば強引にアッシュの手から連日見慣れた傘を取り上げ、頭上に差す。真っ黒な傘の花が空に向かって咲いた。怪訝そうな腕を引っ張って傘の下に入れ、よしと気合を入れたルークは意気揚々と雨の中へ繰り出した。今日は一日中さらさらと小雨が降り続く天気で、未だ止む気配は無かった。
傘の下へと強引に誘導されたアッシュは、納得がいっていない様子だったがそれでもルークの左側に並んでくれる。しっかりと傘の柄を握りしめ、隣のアッシュの温度を感じながら、しばらくルークはそのまま通い慣れた道を歩く。そうして壁やカーテンに例えられないほどの薄い雨たちを見つめながら歩いて数分後、唐突に声を上げた。


「やっぱりだ!」
「あ?!いきなり耳元で大声を上げるな屑が!」


不覚にもびくっと肩を跳ねさせたアッシュが憤慨した様子で振り向いてくる。その顔を見つめ返したルークはもっと憤慨していた。昨日ようやく気付いた事実を、身を以て確認できたからだ。


「やっぱりアッシュは人が良すぎるんだ!」
「なっ?!」
「ほら見ろこの肩!アッシュが濡れないように頑張ったら俺の肩がめちゃくちゃ濡れた!」


勢いよくルークが指差す右肩は、確かに水分によって濡れている。今が小雨だからこそ色が変わって濡れているなと分かる程度であるが、これが昨日やその前みたいにもっと激しい雨だったならば、短時間でももっとぐっしょりと濡れてしまっていた事だろう。そしてルークはそんな肩を、昨日とその前にばっちり見ていた。視線は、今はまだ濡れていないアッシュの左肩に固定されていた。いつも右側にルークを入れてくれる右利きのアッシュの、誰もいない方向の左肩だ。


「アッシュも濡らしてただろ、こうやって!俺は昨日もその前も濡れなかったのに!つまりアッシュ、俺が濡れないようにわざわざ傘を傾けてたんだな!」
「………!」


ぎくり、と音が聞こえてきそうなほどアッシュの身体が固くなる。図星を突かれた姿とはこの事か。
ルークは怒っていた。何故自分がこんなにも怒っているのか訳が分からなかったが、アッシュが自分に内緒でこっそり濡れていた事実がどうしても許せなかったのだった。その怒りはもちろん今の今まで黙っていたアッシュに向かっているし、アッシュ一人が濡れている事実に気付く事無く呑気に傘に入れてもらっていた鈍い自分に対しても向かっていた。こんな公衆の面前で己の顔を殴る訳にはいかなかったので、とりあえずこの湧き上がる衝動は全てアッシュにぶつける事とする。


「アッシュ、この傘人二人ぐらい余裕で入れるって言ってたじゃねえか!全然余裕じゃねーし!何で言わなかったんだよ!」
「そ、それは……。……ってめえこそ!」


口ごもったアッシュは、少しの間を空けて負けじと睨み返してきた。口喧嘩では常に負け気味のルークが怯んだ間に鋭く指を突きつけてくる。


「傘、何で忘れやがった!昨日はまだしも今日まで純粋に忘れていたとか有り得ねえ!わざと忘れやがったんだろう!」
「えっ!い、いや、そんな事、」
「雨が降る中傘を忘れる屑がどこにいる!てめえはそれほどの世紀末屑だとでも言うのかこの屑が!」
「く、くずくず言うなよー!」


痛い所を捲し立てられて、ルークの視線があちらこちらに逃げる。しかしアッシュは一切逃がす気は無いようで、じりっと少しだけ距離を詰めてきた。ただでさえ狭い傘の中、最初から逃げ場などどこにもない。傘を放り投げて駆け出せばそれも出来ただろうが、選択肢自体がルークの頭の中に存在しなかった。
だってこの傘を、放り投げられる訳がない。己の傘さえも捨ててこの身を濡らしながら朝登校してしまったのは、今握るアッシュの黒い傘を持つためだったのだから。ルークはもう分かっていた。そんな訳の分からない行動を取ってしまった、自身の心の正体を。


「……、だって……」


震える唇から零れ落ちた声は同じように、躊躇いと恐れに揺れていた。


「だって、傘忘れないと……アッシュと帰れなかっただろ」


紛れもない本音。自分でもどうかと思う。でもそれでも、あのアッシュと共に喧嘩する事無く過ごす、ごく僅かな雨の時間。普段の自分たちとはまったく正反対な非日常を、これほどまでに求めてしまった。面と向かってなんて言える訳がないから、ただひたすら傘を忘れ続けると言う強引な方法を取って。ルークのその言葉や態度のどこにも嘘が見当たらなくて、アッシュも目を見開く。
降り続ける雨の音だけが満ちる傘の下。絞り出したアッシュの声が紛れたのは、それから少しした後の事。


「……んな訳、ねえだろ」


すぐには、一体何を否定した言葉だったのか分からなかった。きょとんと瞬くルークに言い聞かせるように、アッシュはことさらゆっくりと同じ意味の音を紡ぐ。


「別に傘があったって、一緒に帰ればいいだろうが。出来ない訳が無い」
「え……。でも、アッシュ、嫌じゃないのか」


尋ねながらルークは、とても今更な事を言っていると思った。隣を歩く事さえ嫌だったらきっと、こんな狭い傘の下の世界に二人きりでいてくれる訳がない。思った通り、ルークの心情を映しているかのような表情でアッシュが見てくる。


「心から嫌ってる奴を傘に入れてやるほど俺は心が広くねえし酔狂な人間でもねえよ」
「そ、そっか……」
「……それに……」


そうか、少なくとも心から嫌われている訳ではないのか、と薄々分かっていた事実を改めて確認できて心が軽くなるルーク。そのほわりとあたたまった耳に、もっと熱い何かが飛び込んできた。


「俺の肩が濡れた訳ってのも、大体てめえと同じような理由だろうな」


ハッとルークはアッシュを見る。アッシュはルークを見ていない。どういう意味、と出かかった言葉は、結局喉の奥に飲み込んで消える。聞かなくても鈍いルークでも何となく分かってしまったし、はっきり聞いてしまったら何かが音を立てて崩れてしまうような気もした。ただ、決して視線を合わせないように前方を見続ける翡翠の瞳が、ほんの少しでもこっちを向いてくれればいいのにとだけ思った。
どうしてこんなにアッシュに焦がれるのだろう。数日前までは、こうして同じ傘の下に入る前までは、普通の喧嘩友達だったのに。二人きりで言葉を交わさず心を交わして歩く時間が、あんなにも心地良いものだと知ってしまったから。もう少し一緒にいたいな、明日も今日みたいな時間を過ごしたいな、と考え出したらもう駄目だった。
アッシュも、そうなのだろうか?ルークと言い争う事無く共にいる時間を欲して、傘に入れてくれたのだろうか。何度も傘を忘れるルークを、それでも入れてくれたのだろうか。自分の肩を濡らしてまで。何も言わずに遠回りしてまで自宅の前まで。ルークが言葉を発せないまま、アッシュが軽く前方に顎をしゃくった。


「おい、いつまでここに突っ立っているつもりだ。帰るぞ」
「あ、うん」


そこでルークはようやく、自分たちが一つの傘の下で足を止めてずっと立ったままだった事に気付いた。容赦なく歩き出すアッシュを、傘の外へと出さないように慌ててついていく。再び聞こえ出す二人分の水分を含む足音。耳慣れた音。一人分では無く二人分ちゃんと聞こえるそれに、何故だか楽しい気持ちが沸き起こる。何だろうこれは。昨日見た夢を思い出す。あんな満面の笑みで声を上げて笑うなんて事は出来ないが、気分だけで言えば似たようなものかもしれない。
何なんだろう、これは。この気持ちは。


「なあ、アッシュ」
「何だ」
「俺の傘を持ってきても一緒に帰っていいって、本当か?」
「本当だ」


尋ねれば、すぐに返される肯定。どんよりと曇る空の下、雨はまだまだ止まない天気の中なのに、ルークの心はますます明るく晴れ渡る。


「それじゃあ、雨が止んでも一緒に帰っていいか?」


少しの不安にドキドキしながら尋ねてみれば、ちらりと向けられる緑の瞳。雨の中でも綺麗に輝くその色に、心臓が跳ねたのは何故だろう。


「俺が駄目だと言ったらてめえは諦めるのか?」


答えの代わりに尋ね返されてとっさに、勢いよく首を横に振る。そうすればアッシュはにやりと笑った。よく見る笑顔だった。普段から何かとルークを小馬鹿にするアッシュが、それでも根はルークと同じぐらい負けず嫌いだから、挑まれた勝負事にはよく乗ってきてくれて。負けないぞと息巻くルークに張り合う時によく見る顔。いつもの顔。良くぞ言ったと、それでこそルークだと語っているかのようなその表情に。


「……へへっ」


ルークは安堵していた。いつもと違う雨の世界の中で、いつもと同じように笑ってくれるアッシュに。雨のないいつもと同じ時間にも、いつもと違うこの離し難い関係を続けてもいいのだと、まるで言ってもらえたような気がしたから。


「よーし、明日は絶対傘持ってくるから!もう絶対お前の肩は濡らさねえからな、アッシュ!」
「分かったから大人しくしろ傘持ち!てめえが暴れると肩だけでなく頭まで濡れるだろうが屑が!」


いつものような言葉の応酬が、いつもと違って柔らかい。その事実が何よりも、ルークにとって嬉しくてたまらない。笑い出したくなるような気分のルークが、釣られて柔らかな笑みを浮かべる隣の顔に気付くのに、きっとそう時間は掛からない。人二人が何とか入れる傘の下、ルークとアッシュは肩が触れ合うほどの距離に並んで歩いているのだから。


雨が変えてくれた二人の関係は、それでも根っこは変わらないまま、水を吸って大きく広がっていくのだろう。
育て育て、と呼ぶように天から降り続ける雨粒は、二人の傍からまだまだ止む気配は無い。




   雨に咲いた。

15/06/09