そいつは夜の闇にまぎれて現れた。気付いた時にはすでに目の前まで迫っていた。きっと気配を消していたのだろう、立ちふさがったそいつからは今、無視して通り過ぎる事が出来ないほどの圧倒的な気配がほとばしっている。家路へ急いでいた足を思わず止めると、低いうなり声のような音が聞こえてきた。猛獣が獲物を狙っているときのような押し殺したものだった。
周りには他に誰もいない。バイトが終わるのが遅くなった夜なのだから当然だ。きっと数時間前まではこの道も、暗いながら多少は賑やかだっただろうに。ぽつぽつと立ち並ぶ街灯から隠れるようにそいつは、光の届かない道の真ん中でこちらを見て、立っている。その闇夜に隠れた姿が今、一歩相手が踏み出してきたことによって浮き彫りとなる。
まず目に入ったのは、その赤。息を飲む。そいつは人間ではなかった。今までどうして見えなかったのかと思うほどの眩しい赤の毛並み。テレビや写真でしか見た事が無いその凶暴な姿は、間違いなくオオカミだ。こんな街中に現れていい生き物では無い。……生き物、ならば。
「……なっ?!」
目の前の光景に、知らず驚愕の声を上げていた。オオカミは瞬きを一つする間にオオカミではなくなっていた。今目の前に立っているのは自分とほぼ同じ身長の、腰まで届く赤く長い髪をした人間。――その頭と尻に、ふさふさ動く人間にはない器官を持った。
目が合う。翡翠色の瞳が細まり、にやりと笑った口元には鋭利な牙がはっきりと見える。血に濡れたような真っ赤な口が、まるで誘い込むようにぱくりと開いた。
そうして、オオカミから人の姿を取ったそいつは、言った。
「トリック、オア、トリート!」
「はい」
間髪入れずにルークは飴を差し出していた。まるで待ち構えていたようなタイミングだが、実際に待っていたのでこの素早い対応が出来た訳である。
オオカミ男、と言うよりオオカミ少年と呼んだ方がよさそうなルークと同じ歳っぽいそいつは、あまりに早いトリートに反応できずに固まる。しばらく闇夜の道に沈黙が流れると、うめき声のような音が聞こえてきた。目の前のオオカミ少年からだった。
「な、んで……何でそんなに早くお菓子を出せるんだよ!」
「いやだって今日、ハロウィンだし」
当然の様にルークは答える。そう、今夜は一年に一度のハロウィンの夜だった。それさえ知っていればお決まりのセリフが飛び出してくるのは簡単に予想できる。肩に下げていた鞄から飴を一個取り出しいつでも差し出せるように準備をするのは、さらに簡単だった。
オオカミ少年はあまりにも普通にルークが答えるので、どこか悔しそうに地団太を踏んだ。怒っている為か、その毛先が金色に逆立っているように見える。
「いや、ハロウィンだって知ってたとしてももっと驚けよ!今の見ただろ、俺の事!オオカミから人間になったんだぞ!普通お菓子差し出す前に驚いて腰抜かすか逃げ出すかするだろ!」
「まあ確かに、オオカミから人間になった時は驚いたけど」
ルークはじろじろとオオカミ少年を見つめた。牙がある。オオカミのふさふさな耳もついている。ぶんぶん振り回されている髪と同じ色の尻尾も見える。確かにオオカミ少年だ。しかしそれだけだ。
「オオカミ男?オオカミ少年?って初めて見たけど、案外普通なんだな」
「はあ?!」
正直な感想を述べたら、オオカミ少年は信じられないと言った声で憤慨した。どうやら彼のプライドをいたく傷つけてしまったようだ。
「何だよそれ、普通だ?!お前普通の人間のくせに生意気だぞ!まるで妖怪や怪物やお化けの類は見慣れてるって言うような余裕綽々なムカつく態度!」
「おっ。お前鋭いな」
ルークはまるで褒めるように、目の前で怒り心頭なオオカミ少年の肩を叩く。
「その通り、俺実は見慣れてるんだ、お前みたいな変わった存在」
「……えっ?」
今まで怒っていたことも忘れた様子で、オオカミ少年は動きを止めた。それほどまでに予想外の言葉だったのか、ぽかんとルークを見つめてくる。
「……マジで?」
「マジで」
「何で?」
「去年のハロウィンからちょっと、とりつかれてて」
「とりつかれて?それ大丈夫なのかよ」
何故かお化けに心配され始めるルーク。今まで誰にも打ち明けられなかった事情を、頭を掻きながらルークは吐き出した。
「大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、一応今の所大丈夫だけどさ。あいつひっどいんだぞ!去年から俺の部屋に居座って気まぐれにいたずら仕掛けてきやがるし!帰れって何度言っても帰らねえし!結局一年ずーっと一緒だったし!今日も一周年記念だからとびきり豪華ないたずら仕掛けてやるとか言ってたし!なあひどくね?!俺あいつのおもちゃだぞ、おもちゃ!」
「お、おう」
「そりゃもう一年経てば少しは慣れてくるけどさ!その、別に心の底から嫌な訳でもねーし、むしろなんかいなくなるとちょっと寂しいかもしれな……って何言わすんだ!」
「い、いや、お前が勝手に言ってるんだろ」
何故か今度はお化けの方が引き始めた。変な奴標的にしちゃったなあという後悔がその表情からちらちら見える。一歩後ろに下がったオオカミ少年に、逃がすものかとルークも一歩踏み出す。
「なあお前もひどいって思わねえ?!ハロウィンのお化け的にそういうのはどうなんだよ、普通の事なのか?!」
「あー、まあ、よほど気に入った獲物じゃないとそこまではしねーかな……」
そこまで言うとオオカミ少年は、くんくんとルークに鼻を近づけて何かを嗅ぎ始めた。風呂にはちゃんと入っているけど、とルークが慌てていると、しばらくルークにくっついてくんくんしていたオオカミ少年は舌なめずりをしながら笑った。
「確かにお前、美味そうだな」
「えっ?!」
「そいつは一年間お前目当てで残った訳か、よっぽど美味いんだなー。興味出てきたぜ」
にやにや笑顔のオオカミ少年。あっまた変な奴に目をつけられた、と気付いたルークだったがもう遅い。オオカミ少年はルークが逃げる前にがばっと肩を組んでのしかかってきた。
「トリートはもう貰っちまったけど、ちょっくら付き合えよ人間!そのとりついてる奴にも会ってみてえし!」
「ええー?!せっかく飴やったのに?!意味ないじゃん、じゃあそれ返せよ!」
「マジで?じゃあ飴返すから今お前にいたずらしていいの?」
「そ、それは駄目だ!」
夜の薄暗い道の真ん中でわーわー騒ぎながら、ルークは仕方なく自宅へと足を進める。もう一匹お化けを連れ帰ったらあいつどんな反応するかな、とか色々考えながら。
かくしてオオカミ少年を連れたルークが辿り着いた我が部屋には、俺こそがこの部屋の主だと言わんばかりの堂々とした態度でベッドの上に寝そべる赤髪のジャックランタンの姿があった。一年間この部屋に居候して慣れた結果だと思われるかもしれないが、この男は割と最初からこの態度だった。
そんな、ルークに付きまとうジャックランタンアッシュは、10月31日へと日付が変わった瞬間に先手必勝でルークに押し付けられたお菓子の山をばくばく食べながら不機嫌そうに出迎えてくれた。
「遅い」
「いや、今朝出かける時から今日は遅くなるって俺言ってたはずだけど」
「今日は何日だと思ってやがる。この俺の日と言っても過言ではないハロウィンに別な用事を入れるとはいい度胸だ、よほどすごいいたずらを仕掛けてほしいと見える」
「いらねえから!これだけ先に菓子をあげてもまだ足りないのかよ、ったく」
大きなため息をつくルーク。こういったやりとりも日常茶飯事のものだ。去年の今日、ハロウィンの夜に前触れもなく押しかけてきたジャックランタンのアッシュは、今の非常にくつろいだ様子を見るにまだまだルークの元から去る気はさらさら無さそうである。
そこでルークは背後の気配を思い出した。お化けの類の奴は強引に押しかけて来る事しかしないのかと文句を言いたくなりながらも、部屋の中に足を踏み入れてアッシュの前に立つ。
「そんな事よりアッシュ、お前のお仲間を連れてきたぞ」
「ああ?お仲間だと?」
「あ……あああーっ!おっお前はっ!!」
紹介しようとしたら、その前に大声をあげられた。オオカミ少年は部屋の入口に立ったまま、驚いた顔でアッシュを指差している。うっとおしそうにそちらを一度だけ見たアッシュは、すぐにルークへ視線を戻してきた。
「おい、俺がいつ野良犬を拾ってきていいと許可した」
「俺が犬を拾ってくることにお前の許可取る必要はないだろ!」
「いや、その前に俺は犬じゃねえええ!このっ相変わらずいけすかねえ奴……!」
憎々しげに睨み付けるオオカミ少年と、何も見なかったかのように無視するアッシュを見て、ルークは軽く驚いた。どうやらこの二人は知り合いであるらしい。しかも、すこぶる仲が悪そうな。
問いかけるようにアッシュを見るが、ふんと顔を逸らして答えてくれそうにない。仕方なく耳をぴんと立て全身の毛を逆立てて怒っているオオカミ少年を見た。
「えーと、もしかしてお前、アッシュと知り合いだったのか?」
「知り合い、なんてもんじゃねえ!こいつは俺のライバルなんだよ!」
「ライバル?」
「違うな。この屑犬が一方的に噛みついてきやがるだけだ、うっとおしい」
「だから俺は犬じゃねえ!相変わらず死ぬほどムカつく奴だな!」
ガルルルと全身で威嚇するオオカミ少年と平然としているアッシュを見ていると、確かにアッシュの言う事にも一理ある気がする。と、口で言うと怒られそうなのでルークは心の中で思っておくことにした。
「ちっ!最近姿を見ないと思ったらまさか人間一人に執着してるとは思わなかったぜ、アッシュ。よっぽどこいつが美味いのか?」
「答える義理はねえよ」
「ふーん?」
あくまでも澄ました顔でやり過ごそうとするアッシュを、じっと睨み付けるオオカミ少年。やがて何か思いついたようにぱっとルークを振り返ってきた。嫌な予感がする。巻き込まれないうちに逃げよう、とした腕を掴まれ、引っ張られてバランスを崩した首元にオオカミ少年がかぶりついてきた。
軽く甘噛みされ、べろりと舐められれば全身がびくりと跳ねた。
「ひいっ?!」
「お、確かに美味い」
「おい屑犬、何してやがる!」
ここでようやくアッシュが大声を上げた。ベッドから起き上がり、よろめくルークを自分の方へ引き寄せる。オオカミ少年はしてやったりと言う顔でにまにま笑っていた。
「へーふーんほほー、そんなにそいつがいいのか?」
「こいつがいいとか悪いとかじゃねえよ、こいつは俺のものだ。お前が勝手に触れていいものじゃねえんだよ屑犬」
「だから犬じゃねえっつってるだろ!」
「いや俺、アッシュのものになった覚えもないんだけど……」
力を抜かしながらも抗議するルークの声はもれなく無視される。狭い一人部屋の中で、ジャックランタンとオオカミ少年が剣呑な目つきで睨み合った。
「放っておけば調子に乗りやがって…大体お前はもうトリート食らってんだろうが、さっさと帰れ」
「えー、せっかく面白いもん見つけたのにこのまま帰るのはもったいねーだろ。永遠のライバルをぎゃふんと言わせられる絶好のチャンスだしな!」
「誰が誰のライバルだって?」
「ギーッやっぱムカつく!こうなったら俺がこの場で噛み千切ってやろうか!」
「はっ、出来るものならやってみやがれ。その前に俺が火炙りにして野良犬の丸焼きを作ってやる」
「だーかーらー俺は犬じゃねええええ!」
人の部屋で無遠慮に言い合う両者。お化けたちの戦いに、正直これ以上巻き込まれたくないルークはそっと移動して、自室からの脱出を試みる。自分の部屋から追い出されるとは何て理不尽だろうとは思うが、今はそんな事を言ってる場合じゃない。
しかしそんなルークのささやかな逃亡は、あっけなく終わりを迎える。背後から両肩をがっしりと、二人分の腕で引き留められてしまったのだ。
「へっ?!」
「おーし今日と言う今日は許さねえ、決着つけようじゃねえかアッシュ!」
「ふん、仕方ねえな。これ以上付きまとわれるのもうんざりだ、そろそろ引導を渡してやる」
「え、えっと、あの、決着つけるならお二人でどうぞ……お、俺は邪魔にならないように退散しとくから……」
だからその肩の手を離してくれ、と暗に伝えてみたルークだったが。アッシュにもオオカミ少年にもはあ?と呆れた顔で見られてしまう。
「獲物が何を言ってやがる」
「えもっ?!」
「お前使って勝負決めるんだから逃げんなよ!」
「使って?!」
汗をダラダラ流すルークの目の前で、二人のハロウィンモンスターがにやりと笑う。
「ハロウィンといったら、そりゃー」
「これしかねえだろ」
「「トリック(いたずら)対決だ!」」
「うっうわあああああ!どっちにもトリートやったのにひどすぎるうううう!!」
せっかく来るハロウィンのために前日からお菓子を用意し、普段もいつお化けに絡まれてもいいようにと飴玉を常備してきたルーク。その努力は本物のハロウィンのお化けたちの前には、まったく意味を成さなかったのだった。
かくしてルークがどんないたずら対決に巻き込まれたのかは、当人たちのみぞ知る。
人喰いオオカミ少年参戦
「うっうっ、この調子だとまた来年のハロウィンには新しいお化けにとりつかれるんじゃねーの、俺……」
14/10/31
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