「なあジェイド、愛って何だ?」
「何故その質問をよりによって私にぶつけてきたのか、まずそこから確認したい所ですね」


宿で定期的に行われる簡単な診察の後、何気ない口調で爆弾を叩きつけてきたルークの顔を、ジェイドは呆れた目で見つめた。まったく人選が間違っているとしか言いようがない。ルークは大人しく脈を取られながら、ぱちぱちと瞬きをしてみせる。


「さっきアニスが、愛には色んな形があるんだって言ってたんだ」
「どうしてそういう話に至ったのか甚だ疑問ですが、まあ置いておくとしましょう。それで?」
「愛なんて俺良く分かんねえし、ジェイドは物知りだろ?だから聞いてみようと思って」
「私にだってこの世の中、分からないことだらけなんですがねえ。おまけにその質問は専門外です」


はいもういいですよと持っていた腕を返しながら答えると、ルークは不服そうに唇を尖らせた。その表情はまるきり子供のそれで、改めて目の前の生き物がまだ二桁にも満たない歳でしかないことを思い知らされる。一瞬だけ言葉を詰まらせて、ジェイドは何とか取り繕うことに成功した。


「……そういう事は、歳を取るにつれて自然と悟るものです。あなたにはまだ早いんですよルーク」
「んな事ねーし!……それに俺、悟るの待ってたら絶対間に合わないだろ」


むくれてぷいと横を向いたルークの瞳が寂しそうに揺れたのを、ジェイドは見なかったふりをした。代わりに眼鏡を押し上げて、普段は絶対に使わない事柄のために頭を回転させ始める。まったくどうして私がこんな事を、という溜息付きで。最近自分がこの7歳児に甘くなっている事は、とうに自覚していた。理由は考えない。いくら考えても、来るべき未来は変えられない。


「まあ愛とは縁遠い私にも挙げられるような愛といえば、恋愛、友愛、家族愛、そういったものですかね」
「ふんふん……他にもあるのか?」
「さあ、どうでしょうね。あなたはあると思いますか?」


尋ねると、ルークは腕を組んで考え始める。その顔は真剣そのものだった。静かに見守っていると、やがて困ったように顔を上げてくる。


「ある、と思う」
「それはどうしてですか?」
「だって、ジェイドは恋でも友でも家族でもないだろ?」
「………」


これにはさすがのジェイドの面食らった。少しだけ固まって、額に手を当ててはあと重い溜息を吐く。あの死霊使いをこれほどまでに動揺させられる人間はそれほどいない事を、ルークが理解する事はあるのだろうか。


「……ルーク、あなたの思う愛とは何ですか?」
「それを今俺がジェイドに聞いてる所だろ」
「では何故、今、あなたは私にその理解が出来ていない愛がある、という前提で話をしていたんですかね」


あれ、とルークも声をあげて首を傾げた。無意識だったらしい。それはそれで性質が悪い。自分でも不思議そうな顔をしながら、それでもルークは前言を撤回しなかった。


「言葉には出来ないけど、多分これが愛みたいなものなんだろうな、って思うものが俺の中にあるんだ。だからかな」
「その愛めいたものが、私にもあると?」
「うん。ティアにもガイにもアニスにもナタリアにもあるぞ。でも皆、単純に友達って訳じゃないだろ?家族でもないし、こ、恋でもないと思う、うん。じゃあこれは何て言えばいいんだろう、愛だとは思うんだけどな」


真剣な表情で、真っ直ぐな感情のまま、愛、愛、と連呼されればさすがに恥ずかしくなってくる。早くこの話題は終わらせよう、とジェイドは口を開いた。


「私たちに向かうその愛らしきものは、みんな同じものですか?」
「うーん、それぞれ微妙には違うけど……似てると思う」
「ではもうまとめて仲間愛とでも呼んでおけばいいんじゃないですかとりあえず」
「……おおー」


ルークは目を丸くして納得がいったように頷いた。どうやらしっくりきたようだ。


「それ、一番近いかもな。さすがジェイド!」
「いえいえ、お役に立てて光栄ですよ親善大使殿」
「そ、それはもうやめろ」


とにもかくにも、これでルークの質問に答えることが出来た。根本的な「愛」とは何ぞや、という問いには答えていないが、これで気が済んで上手く立ち去ってくれればいい。そう考えていたジェイドの思考は珍しく甘いものだった。


「んー……」
「……どうしました?」


ルークがまた何かに悩み始めた。嫌な予感をひしひしと感じながら、それでもジェイドはルークを促す。
それは、彼なりの誓いであった。かつて何も知らない子供の全てを何も見ずに聞かずに放り捨ててしまった、自分への密やかな約束事。あの時から自分の気持ちを押し込んで随分と吐き出してくれなくなった唇から零れ落ちるすべての音を、零さず拾い上げて受け止めようという。彼だけの誓いだった。
ジェイドがじっと見つめる中、ルークはなおも悩みながら、ぽつりと零した。


「……違う」
「違う?」
「うん……これは違う、別なものだ……」


胸のあたりを押さえながら、翡翠の瞳は虚空を見つめていた。いや、確かに見ていたのだろう。他の誰にも見えない、感じることも出来ない、彼ともう一人だけの繋がりを。ジェイドは目を細めた。


「私たちとは、違いますか」
「うん、違う」
「それがどう違うのか、分かりますか?」
「うーん……」


ルークが持つ語彙は決して多い方ではない。それは単純な頭の良し悪しではなく、たった7年しか生きていないという経験の差である所が多い。そうやって素直にルークの事を分析出来るようになった己をたまに自覚するたび、ジェイドは不思議な心地に陥る。


「……上手く言葉に出来なくて、何となく、なんだけど」


やがて、なおも考えながらルークがゆっくりと口を開いた。


「もっとこう、ずっと大きい」
「ほう」
「んでもって、それだけ重い」
「ふむ」
「それで多分、途方も無く深い。……言ってて自分でも訳分かんなくなってきた」


絶望するように抱えられる赤い頭。そのお日様色の髪を眺めながら、知らずジェイドは笑みを深めていた。


「いえ、逆にあなたがどのような心を抱いているのか、何となく伝わってきましたよ」
「ほんとか?」
「ええ。その誰とも違う愛が一体誰に向いているのか私にはまったくもって見当もつきませんが、それだけ他と違う愛とは、ルークにとってよほど特別なものなんでしょうね」
「とく、べつ……」


その言葉がこの子供にどう響いたのか。噛みしめるように呟いたルークは、考え込むような沈黙をしばし落とした後、どこか落ち込んだように俯いてしまった。おや、とジェイドは思う。ルークのこの反応が少々予想外だったのだ。


「……俺が、」
「ルーク?」
「こんな気持ちになるのは……俺が、レプリカ、だから……なのかな」
「……っ」


思わず言葉を飲み込んだ。同時に己の業の深さを改めて思い知り、打ちのめされる。こんな不可思議な想いを抱くのは自分が相手のレプリカだからなのか、あるいは人間と違うレプリカという存在だからなのか、と恐れるその不安げな表情に、どんな言葉を尽くして懺悔しても足りないだろうと思った。
いっそ叫び出してしまいたい衝動に駆られた心を目を閉じて落ち着かせ、ジェイドは膝の上で握りしめられたルークの手に軽く触れた。頼りなく揺れる瞳を見つめ、強い意志を持ってしっかりと言い聞かせる。


「聞きなさい、ルーク。フォミクリーで生まれたオリジナルとレプリカは、その姿がどれだけ似ていようと同じ人間ではない、異なる意思を持った別の存在です。それはあなたも良く知っているはずです」
「……うん」
「加えて、レプリカは何も知らない赤ん坊のような状態で生まれる。無理に記憶を刷り込んでもうわべだけの、心を持たない人形のようになる事も、もちろん知っていますね」
「そう、だな」
「……それが答えです」


パチ、と瞬きされた瞳が、困惑するようにジェイドを見る。ジェイドは己の今の表情が、いつも貼り付けている笑みよりも随分と柔らかいものであることを自覚していた。


「ルーク、あなたも同じように真っ白な状態で生まれました。今あなたの内にあるものは間違いなく、今日まで生きてきた中で育んできた、あなた自身のものです。それはこの世に生きる全ての人間が持つものと同じものでしょう。オリジナルもレプリカも関係ない。……だから、安心なさい」
「ジェイド……」


呆然とこちらを見つめていたルークの顔に頷いてやれば、くしゃりと笑顔になった。さっき診察を始めて、ようやく見れた最初の笑顔にこっそりと、ほっと息をつく。この存在を追い詰めてばかりの自分が、少しでもルークの救いになれば良いと。


「っへへ、ありがとうジェイド」
「私は別に礼を言われるようなことは話していませんが」
「そんな事ねえって……あっ!今ジェイド照れただろ!こういう時のジェイドはただの照れてるツンデレおじさんだってガイが言ってた!」
「ほほうなるほど、ガイとは一度じっくりとお話をさせて頂く必要がありそうですねえ」
「い、今一瞬でただの鬼畜眼鏡の笑顔になったぞ……」
「おや?ルークも私と一対一の対話をご所望ですか」
「いいいいらねえ!つーか今の状況がまさにそうじゃねえか!怖っ!」
「ようやく気付いてくれましたか、まったく」


今更飛び退くルークをさすがに呆れた目で見ると、あははと誤魔化すように笑っている。今までのどこか暗く重い空気が一変した。これで診察と授業の時間は終了である。お疲れ様でしたと声をかけると、そっちこそーと手を振りながら退室しかけるルーク。その手がドアノブに掛かったまま、しばし止まる。


「なあジェイド」
「何ですか」
「結局愛がなんなのかって、そこんとこは教えてもらってない訳だけどさ」
「おやばれましたか。まあ私にも分からないものだったという事で」
「そうかな。今ジェイドから話を聞いて、俺何となく分かった気がするんだけど」


振り返って笑いかけてきたルークの表情は、あの鬱蒼とした瘴気が晴れて美しい青を覗かせた、あの時の晴れ渡った空を連想させるもので。


「俺があいつのレプリカだからあいつの事こんなに大好きなのかなとか、レプリカの俺が思うこの気持ちは偽物じゃないのかなとか、すげえ不安になってたんだけどさ。今のジェイドの言葉で分かった。……複製品じゃない。偽物なんかじゃない。本物の俺の気持ちなんだよな、これは」
「ルーク……」
「やっぱり言葉では上手く説明出来ないけど、この気持ちが俺の愛なんだなって、はっきり分かる。愛には沢山種類があるんだ、俺のこの気持ちも、愛って呼んでいいんだよな……」


自分の胸に片手を当て、慈しむように言葉を紡ぐルークに、ジェイドは何も声をかけられない。やがてぱちりと我に返るように瞬きした後、ほのかに顔を赤らめたルークは何かを誤魔化すように乱暴にドアを開けた。


「ま、まあそういう訳で、ありがとなジェイド!何か心がすげえ軽くなった気がする!今日はよく眠れるなきっと!ジェイドも早く寝ろよ!じゃっ!」


捲くし立てた後、逃げるように部屋を飛び出し勢いよく扉が閉まり、ルークは去った。眩しい子供が嵐のようにいなくなった室内は一気にしんと静まり返る。しかしジェイドの内心はどうやら、この部屋の静けさだけでは収まらないようだ。まさか己にこれほどまでの感情が残っていたとは、とどこか他人事のように考える。


「……この世に生きる全ての人間が持つもの、ですか……」


零したのは、先ほどルークに話して聞かせた自分の言葉。何とらしくない事を言ってしまったのだろうと後悔しても後の祭りだ。
あの時の自分は、ルークをどうにか慰めなければと考えるあまり、嘘で誤魔化す事さえ考えもつかなかった。つまりはあの時発言した全ての言葉は、嘘偽りのない己の言葉そのもので、そしてそれをジェイドは十分理解していた。理解しているからこそ、逃れられない事実に溜息をつく事しか出来ない。


「こんなもの、この世に生まれた時から己にはないものだと思っていたんですがね……」


目を閉じ、観念する。もうすぐ消えてしまう運命を背負うあの子供が、その時が訪れる瞬間までどうか健やかに笑っていてほしい、と願う、理解不能なこの柔らかい感情は。
……出来れば、それ以上の奇跡が起これば良いと、根拠もないのに願ってしまうこの愚かな感情は。


「……あんなに眩くて真っ白なものを記憶として受け取らなければならない被験者殿に、同情しますよ」


そんな日など、来なければ良い。二重の意味で、ジェイドは思った。




   愛とは。





14/01/23