アッシュには弟がいた。双子だった。顔は瓜二つであったが、性格は正反対と言っていいほど違う。万年無愛想のアッシュと違って、普段からよく泣きよく笑う人懐っこい子どもだった。アッシュは弟の事が大好きだったし、弟もアッシュの事が大好きだった。それは小さな頃から、生まれた頃から今まで決して変わらなかった。そう、アッシュは今でも弟が好きだ。何者かが弟の笑顔を曇らせる事があろうものなら、そいつを完膚なきまでに叩きのめす覚悟がアッシュにはあった。しかしそれを口に出した事はない。それはアッシュが自分の思いを素直に口に出せるような人間ではなかったのもあるが、それだけではない。今それを口に出せば、他人は愚か両親にさえ正気を疑われると思ったからだ。いや、それよりアッシュを心底心配する事だろう。だって、アッシュの弟は。


「アッシュ」


誰かがアッシュを呼んだ。アッシュは読んでいた本を閉じて声のした方へと振り向いた。そこには昔からの付き合いがある幼馴染が立っている。アッシュが本を読んでいた場所は、普段から物静かな雰囲気を漂わせる落ち着いた公園の中のベンチの上だった。子ども達が騒がないのは、散歩するための道ばかりが敷いてあるこの公園に遊具の類が無いからだろうか。夜になると何か出るともっぱらの噂だからだろうか。どちらにしても、静かなこの公園はアッシュのお気に入りの場所である。そこにアッシュがよく来るのを知っているのは結構少ない。今目の前で穏やかに笑うガイを除いたら、それこそ両手で数えられるほどの人物だろう。


「またここにいたのか。お前、この公園好きだよな」


アッシュはガイからそっと視線を外した。ガイにはその理由がよく分かっていた。かつてこの公園が好きだったのはアッシュだけではない。緑が多いせいで四季折々の顔を見せるこの公園をもっと気に入っていた大事な人は、今ここにはいない。


「何か用か」


アッシュが普段と変わらぬ仏頂面で尋ねると、ガイは苦笑しながら公園を見回した。


「いや、今お盆の時期だろう?……お前も、思い出しているんじゃないかと思ってな」


お前も、とガイは言う。目の前で笑顔を見せるこの青年も、思い出しているという事だ。アッシュは頷かなかった。確かに思い出していた。が、それはガイのように亡くなった者を悲しみと懐かしさと共に思い出している訳ではなかったのだ。

そう、アッシュの双子の弟、ルークは、すでにこの世を去っていた。
生まれつき病弱な体だったのだ。生まれた頃医師が告げた余命は、数年前亡くなった年月より遥かに短かった。それだけで十分生きたと思うべきだろう。しかし病弱ながらも太陽のような笑顔でいつも笑っていたルークは、関わりあった人々の中に温かさと共に確実に根付いていた。だからこそルークが力尽きてしまった時、いつか来る事を分かっていながら誰もが信じられず、そして深く悲しんだ。アッシュもその1人だった。一時期は生きているのか死んでいるのかすら分からないほど無気力にもなったものだ。
ガイの目はルークを思い悲しみに沈むと共に、アッシュを心配していた。それが分かってアッシュはガイと目を合わせられなかった。少なくともアッシュは、死者がこの世に帰ってくるという盆の季節、つまり今、気落ちはしていなかった。


「余計な心配はするな」


アッシュはぶっきらぼうに吐き捨てた。それが照れ隠しだと分かっているガイはにこやかに笑いながら分かった分かった、と言う。それが少し癪に障ったが、アッシュは何も言わなかった。ガイは詰めていた息を吐き出すようにため息をついて、ベンチに背を向けた。


「それならいいんだ。早く家に帰れよ」


ルークが帰ってきているからな。声に出さず背中だけでガイはそう言うと、静かに去っていった。その場には閉じられた本を片手にベンチに座るアッシュが残される。アッシュは心の中で、ガイが背中で語った言葉を否定した。

帰ってきている?違う、ルークは帰ってきてなどいない。何故なら。


「アッシュー」


再びアッシュに声が掛けられた。今度は前後左右どちらからでもなかった。声は、頭上から掛けられたのだ。
アッシュの肩にふわりとした感触が乗せられる。それは実体を伴わない、しかし確かにそこにあった。人の腕だった。アッシュにとってかけがえの無い、何よりも大切な人の腕だった。アッシュは触れないその腕にかすかに微笑みながら振り返った。


「ルーク」


アッシュが呼ぶと、半透明のその顔は幸せそうに微笑んだ。目の前を純白の羽根が舞う。まるで雪のような美しいそれは、地面につく前にふわりと消えてしまった。羽根を散らす光の翼は、アッシュに微笑みかける人物の背中からはえていた。
それは確かに、少ない人生の中多くの人から愛され生きてそして死んでいった、アッシュの弟ルークであった。


「どこに行っていた?」


アッシュが尋ねると、ルークは空中に浮きながら空を指差した。


「今さ、色んな奴が帰ってきてるから色々話してたんだ」
「知り合いがいたのか?」
「うんにゃ全然知らねえ人ばっか。でも色んな話聞けてさ、楽しかった」


ルークが笑うとアッシュも笑った。アッシュの場合、アッシュをよく知る人でなければ判別できないような、かすかなものであったが。ルークはふわりと翼を動かしながら移動して、アッシュの隣に座った。


「さっきガイが来てたのか?」
「ああ、俺がお前を思って思い詰めてねえか、ウザイ思い込みをしていたようだ」
「ウザイ言うなよお前を心配してんだから。それに、思い詰めてたのは事実だろ?」


ルークが意地悪そうに笑うと、アッシュは苦い顔になる。事実周りに心配掛け捲った前科があるのだから何も言えないのだ。

ルークが世界の全てになっていたアッシュは、ルークがいなくなってから何度死のうと思ったか分からない。周りはアッシュが立ち直るよう必死に呼びかけたのだが、かけがえの無い存在を失ったアッシュには何も届かなかった。数日間何も口にせず憔悴しきったアッシュの目の前に現れたまさに天使の言葉以外は。その天使がずばりかけがえの無い存在だったものだから、その声が届かない訳がなかったのだ。

ルークは戻ってきた。アッシュの元へ、他の者には見えない姿となって。この時ばかりは、霊感の異様に強い自分の体質に、アッシュも感謝せずにはいられなかった。昔からそのせいで色んな悪いものに憑かれたりしたものだが、今ならそんな些細な事気にもならない。
ルークが言うには、ルークは天国から抜け出してきた「はぐれ」天使らしい。抜け出してきた、というより、天国に行きかけたのだがあまりに強烈な未練によって天国への門をくぐれなかったというのだ。その未練というのは、こちらに戻ってきて早々アッシュの元に現れた事を見れば一目瞭然だろう。

結局この双子は、互いに離れられない運命だったのだ。


「大丈夫、俺はもうアッシュから離れないよ」


ルークは優しく微笑みながらアッシュを見る。


「アッシュが生きるのをずっと傍で見てる」


そしてアッシュが天寿を全うしたとき、一緒に天国へ行こう。
これはルークが帰ってきてからすぐに言った、アッシュとの約束だった。だからアッシュは遠慮なく生きて、いや生きなきゃ駄目だと言った。このまま死にやがったら絶対置いていくからなと言われてしまえば、アッシュには生きるしかなかった。
アッシュは死ぬ事はできなかったが満足している。当たり前だ、傍にルークがいるのだ。これ以外に何を求めるというのだ。


「……そろそろ帰るぞ」
「うん」


アッシュとルークは手を繋いで歩き始めた(ルークは浮いているのだが)。触る事が出来ないはずのルークの手は、確かにアッシュと握られていた。アッシュはまるでこの世に繋ぎとめようとするかのように力を込めてルークの手を握る。
もう絶対にこの手を離さない。離すものか。

かけがえのない、俺だけの天使。





   俺の赤髪の天使

06/08/13