数日間の公務を終え、久方ぶりに屋敷に戻ってきたアッシュは静かに廊下を歩いていた。本来我が家に帰ってきた際胸の内に宿るのは安堵の気持ちだろう。しかし今のアッシュを支配しているのは、むずむずとかイライラとか、そういった安堵とは程遠い感情であった。原因は、アッシュの背後にあった。アッシュが屋敷に戻って来てからずっとついてきている、こちらをじっと見つめる視線のせいであった。
しばらく無視するようにつかつかと歩いていたアッシュであったが、短気な彼がそう長い事このうっとおしい視線を放っておけるはずもなく、すぐに振り返る事となる。


「っおいこの屑!俺に用があるんなら隠れてないでさっさと出て来い!」
「な……!何でアッシュ、俺が後をついてきている事が分かったんだ!」
「この隠す気もない視線をビシビシ浴びておいて分からない訳があるかっ!」


アッシュが怒鳴れば、そっと物陰から顔を覗かせてくる人影。遠慮がちにこちらを見つめるその顔は、アッシュと瓜二つとはとても思えないほどの情けない表情をしている。その情けない顔は何だ仮にも俺のレプリカならもっとしゃきっとしろこの劣化野郎!と怒鳴りたい気持ちをアッシュは寸での所でグッと堪えた。あまりにもひどい罵り方は止めろ、と周囲から止められているのだ。アッシュ自身も止めようという心積もりは一応ある。
何せこの目の前のレプリカ、二人でこの世界に戻って来てからは、一応自分の弟、という事になっているのだ。世間的には。


「あー……えーっと……お、おかえり」


間を持たせるためにとりあえず放たれた挨拶には返事をせずに、アッシュはただじっと先を促すようにルークを見つめる、というか睨み付ける。ルークは物陰から出てきたものの、今すぐにでも逃げ出したいといった雰囲気で視線をあちこちにさまよわせている。そこまでためらう何かがあるのならいっそ近づいてこなければよかったのに。アッシュは溜息を噛み殺しながらルークに話しかけてやった。


「それで、何の用だ」
「……べ、別に、何か用がなきゃお前に話しかけちゃいけないのかよ」
「んな事は言ってねえだろうが。いつもなら出迎える事なんてしねえし、たまたま顔を合わせてもうざいぐらい絡んでくるお前がこそこそ隠れてこちらを窺っていれば誰だって何かあると思うだろう屑が」
「う、ううっ」


何一つ反論できずにルークは汗を流す。怯むように一歩後ずさるので、逃がさないようにアッシュも一歩近づいた。それを見てルークは逃げられないと悟ったのか、そわそわしていた仕草を幾分か落ち着ける。少しだけ覚悟を決めたのか、諦めがそうさせたのか。俯いた顔から視線を寄越され、上目づかいに恨みがましそうに見つめられた。


「何かさ、最近のアッシュ、しつこくね?」
「ああ?」
「いや、俺が言えたもんじゃないけど。昔のアッシュなら、俺がこうしてる間にさっさと怒って行っちゃってたと思うんだ。アッシュ短気だし。けど最近、つーか帰ってきてから、かな……顔は怒ってるけど、俺がどれだけもだもだしてても今みたいに待っててくれている、気がする……それこそしつこいぐらいに」


一体怒らせたいのか何なのか、微妙に失礼なことも織り交ぜながらのルークの言葉に、今度はアッシュの方が口を閉ざす。文句か何かを言いたかったが、何も言えなかった。図星だったからだ。
ルークの言った「帰ってきてから」とは、二人揃ってこの世界に帰ってきてからの事を言っているのだろう。アッシュも自覚していた。自分のルークに対しての態度が、その時を境に変わっている事を。それは無自覚な部分もあったし、意図して変えている部分もあった。さっきあまり暴言を吐かないように意識していたのもそうだし、ルークが言った通り話しかけられた時はなるべく相手をし、ルークがいくら躊躇っても自分でもしつこいと思うぐらいその言葉を待ち、引きずり出そうとしていた。アッシュ自身がそうしようと決めていたからだ。それをルークに伝えたことはないが、やはり感じ取っていたらしい。
戸惑うようにこちらを窺うルークから視線を外し、たっぷり迷ってから結局アッシュは口を開いた。


「……後悔、したからな」
「えっ?」
「お前は最初に会ってから今まで多少は変わったが、本当に俺のレプリカなのかと疑いたくなるほどのドジでノロマで鈍感でイライラする劣化屑野郎だった訳だが」
「うわあ最近聞かなかった暴言をここぞとばかりに言いやがってこいつ」


思わず拳を握りしめる、アッシュと似たり寄ったりの短気なルークをちらと見つめて、アッシュは言った。


「そんなどうしようもないお前でも、それでも、あの時……もっとまともに話が出来ていれば、もう少しマシな最期を迎えられたんじゃねえかと、思ってな。結局何がどうなったか、こうしてここに戻ってきちまったが、俺は本来死んでいる身だ。情けねえ」
「アッシュ……」
「今だから言える。俺はあの時、独りでみっともなく生き急いでいた。そこから解放された今、せめてもっとマシな生き方でもしてみるかと思ってな。そうしてみればまあ、たまに殴りたくなるほどむかつく時もあるが、お前と話すのは……そんなに、悪くない。それが分かった」


それは、アッシュの本音であった。昔はこいつとは絶対に分かり合えないと思っていたのに、自分でも驚くほどの変化であった。こうやって色々丸め込まれて屋敷に共に暮らすようになり、主に母の策略で区切られているとはいえほぼ同じ部屋に住むようになってからルークと話をする機会は格段に増えたわけだが、その日々はびっくりするぐらい平穏であった。公爵の仕事をぼちぼち手伝い始めて屋敷を空けるようになってから、我が家に帰るのが待ち遠しくなってしまうほどに。
昔の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか。ふざけるなと斬りかかられそうだ。ひっそりと心の中で笑っていると、ぽかんと突っ立っていたルークがどこか感慨深げに声を上げる。


「アッシュはすごいな……変わろうとしてるんだ。俺なんてまだ色々と混乱してて、何もできてないのに」
「ふん、何もしてねえってのは違うだろう。実を結んでいるかはともかくお前もお前で何かしら変えようともがいてるんだろうが。前よりもうぜえぐらい俺に絡んでくるし、あれだけ嫌いだと豪語していた勉強も日中ずっとやっているようだしな」
「ぐっ……そうだよそうだよ、俺だって何か出来ないかと思って手さぐり状態だよ!お前とだってもっと色んな事話したいし、父上の仕事の手伝いとかもっとしたいし、でも実を結ばないんだよ!はあ、マジで何で俺の頭こんなに物覚え悪いんだよ……あ、でも」


そこでルークは、最近アッシュに見せる事が多くなった、花の綻ぶような柔らかな明るい笑顔を浮かべた。


「アッシュともっと仲良くなろうってのは、実を結んでるかな。正直俺、今日までアッシュとまともに話せてるってだけで嬉しかったんだぜ?アッシュがなるべく俺を追い返さないように、あんまりきつい言葉使わないようにしてくれていることは、何となくだけど感じていたし。それなのにそうやって直接言葉で聞いたらその、嬉しさ通り越して逆に恥ずかしいぐらいだ……何なんだよ今日のアッシュ、お前のツンデレどこに置いてきたんだ?ちょっと長めの公務のせいで寂しかったとか?」
「何だとこの屑」
「ぶぁっ?!いひゃいいひゃい!ほ、ほほをつねるのはやめれー!」


意外と触り心地の良い頬を抓って離してやれば、涙目で睨み付けられる。抓ったせいで若干赤く染まった頬と共にその表情を眺めていると胸の内の奥底から湧き上がってきた得体のしれない気持ちに内心アッシュが首をかしげていると、ルークが睨み付けるのをやめてぽつりと呟く。


「……俺も早くアッシュに追いつきたいよ。せめてお前の手伝いぐらいは早くできるようになりたい」


その言葉には、ルークの悔しさが滲み出ていた。心から思っている事なのだろう。アッシュは仕方がないと言いたげに溜息を吐き、俯くその頭を乱暴に掻き混ぜた。


「あまり焦るな7歳児。確かにお前は馬鹿だが、焦って何も身につかないままじゃ馬鹿のままだぞ」
「な、7歳って言うな!もう少しは歳を取ってる!はず!あと撫でるなっ!」


撫でるなと言いながらその手は払わなかった。ので思う存分髪をぐちゃぐちゃにしてやってから手を放す。ルークの頬はどこか嬉しそうに染まっていたが、その眼は不満を訴えていた。


「あんまり子ども扱いすんなよ。言っただろ、俺は早くアッシュに追いつきたいんだ。いつまでもお前の後をついていくのは嫌なんだよ。アッシュだって、俺がいつまでも使えないままじゃあ迷惑だろ……?」
「別に。どれだけお前が成長したって使えないままかもしれねえしな」
「ひでえ!」
「それに、俺は追いつくなとは言ってねえ、焦るなと言ったんだ。お前が追いつくまでフォローしてやるのは俺にとって別にやぶさかでない。……公式には一応、お前の兄という風になっている事だしな」
「あ……」


ルークが何かを思い出したような声を上げる。アッシュが視線で尋ねかければ、逃げるように視線をそらされた。まただ。アッシュが屋敷に戻ってきてから後をつけていた理由に関係してくることなのだろう。今度こそ問い詰めてやろう、と意気込む前に、ルークが躊躇いながらもちらっとアッシュを見てきた。


「何だ」
「……それ」
「それ?」
「アッシュが公式じゃ俺の兄っての、別に嫌じゃないんだけど、まだ慣れなくてさ……」


もじもじと手元をいじりながらのルークの言葉に、そうだろうなと心の中で同意しておく。アッシュとてルークの事は一人の人間として一応認めているつもりだが、弟なんていきなり出来ても今まで一人っ子だったのもあってどのように接したらいいのか分からなかった。まあ最近は先ほどやったように頬を抓ってみたり頭を撫でてみたり、それなりに扱っているつもりであるが。「双子の」兄弟という設定のため、そこまで立場的に上下分かれる事はないだろうが、それでも特にルークには躊躇いがあるだろう。


「こうやって屋敷内とかだったら今まで通りでいいだろうけどさ、公式の場に出る事があったら、一応そういう振る舞いをした方がいいだろ?」
「まあ、そうだな」
「だからその……練習、してたんだけど。やっぱ一人より本人を相手にした練習もしておかなきゃなって思って」
「練習だと?」


アッシュが首をかしげる目の前。顔を赤らめながら何事かをパクパク呟いていたルークは、ようやく決心がついたのかよしと拳を握って気合を入れて、真正面からアッシュをじっと見つめてきた。その表情が思いがけず真剣なものであったので、アッシュも姿勢を正して何が来るか身構える。


「えーっと……アッシュ、いつもありがとう。俺の分まで仕事とか頑張ってくれてるし、たまには勉強も教えてくれるし、毎日疲れてるのに手合せにも付き合ってくれて。まあお前手加減しねえからひどい目にあったりもするけど。……それになにより、俺と一緒に生きてくれて。本当に嬉しい」
「な、何だ、いきなり」
「さっきは慣れないって言ったけど、アッシュが兄ってのも、嫌じゃないっつーか嬉しいぐらいなんだ、ずっとそういう関係だったらなって前から密かに思っていたからさ。お前に認められて、こうやって兄弟みたいに一緒に生きている毎日が、俺にとって奇跡のように感じるほどだよ。それぐらい俺は今が、アッシュの傍で生きる今が幸せなんだ。だから、」


ルークは一度息を吸って、吐いて、また吸って、一区切りつけてからようやく、言った。


「ありがとう。これからもよろしくな。……あ、兄上」
「!!」


アッシュの時が止まった。ルークの時も止まった。一瞬だったか数秒だったか、はたまた数十秒ほどそうしていたのか定かではないが、しばらく二人は見つめあったまま廊下の真ん中で立ち尽くしていた。巡回する白光騎士が何事かとこちらを窺っている事にも気づかないまましばらく時間が過ぎる。その間に、二人の顔色はどんどんと朱に染まっていった。どちらも負けず劣らず自分の鮮やかな髪の色にも届くほどに顔が赤らんだ頃、ようやくルークが盛大に息を吐き出した。


「ぶっはっ!あっ兄上って!無理っやっぱ無理!まともな顔して正面から兄上って言えねえ!恥ずい!恥ずかしすぎるっ!アッシュ兄上……いやっ無理っ!やっぱまだ無理だアッシュごめんーっ!」
「あっおい?!」


アッシュが止める間もないまま、くるりと体を反転させたルークはダッシュで視界からいなくなってしまった。あのままどこか物陰に隠れて恥ずかしい恥ずかしいと身悶えするのだろう。取り残されたアッシュは中途半端に伸ばされた自分の片手を見つめたまま、もう片方の手で自分の頬をバシリと叩いた。静かに見守っていた白光騎士がびくりと身を竦める。


「ちっ、あの屑……帰ってきたそうそう爆弾落としやがって、今ので何もかも吹っ飛んじまったじゃねえか……」


これから公爵に公務の事を報告しなければいけないというのに、今の衝撃で全部頭の中が飛んで行ってしまった。さてどうするかと頭を掻くアッシュの表情は、憎まれ口を叩きながらもまんざらではない様子で。


「……兄上、か」


思わず零した呟きは、かつて己は独りなのだと孤独に戦っていた男のものとは思えないほど嬉しそうで、幸せに満ちていた。




   僕らは二つになった





13/06/09