一心不乱に集中していた脳内に、何か軽い音が響いたのを感じてルークは顔を上げた。ノートから視線を外して初めて、自分がとてつもなく疲労していた事が分かる。肉体的な疲労ではなく脳みそを使いすぎた精神的なものである。おまけにずっと座ったまま同じ体勢を取っていたからか肩や腰まで痛みを感じる気もした。つまりルークは、とても疲れていた。今までずっと問題を解くのに夢中になっていて、自分の疲れさえ感じる暇も無かったらしい。
「……あれ?」
ルークは目を瞬かせた。今ルークの目の前に、さっきまでは無かったものが存在している。自分のマグカップだった。少なくともルークがこの居間で勉強を始める時には無かったはずだ。しかもそのマグカップから立ち上る温かそうな湯気が、中の飲み物が注がれてからさほど時間が経っていない事を教えてくれる。もちろんルークが用意したものではない。
とりあえずマグカップを手に取ってみたルークは、そこで思い至った。先ほど頭の中に侵入してきた音は、このマグカップがテーブルの上に置かれた音だったのではないか、と。
温かなカップに口をつけてみると、苦いものが苦手でまだコーヒーが飲めないルークには嬉しい、ミルク入りのココアだった。頭が疲れた時には甘いものがよく聞くとは誰が言っていた言葉だったか。
一口、音を立ててごくりと飲み込んだルークは、全身にココアの温かさが染みわたるような気がしてほうと息を吐いた。
「美味い」
「そうか」
転がり落ちた独り言に、返事がかえってきた。ルークが驚いてさらに顔を上げれば、そこに返事の主がいた。ルークと色違いのマグカップに口をつけながらテーブルに広げてあったテキストを勝手に手にとって眺めている。ルークが取り返そうと手を伸ばしたが、ひょいと届かない所まで移動させられてしまうだけであった。
「返せよ!」
「礼も無しか」
「頼んだ覚えはねえよ!でもありがとうございました美味いですっ!」
律儀に礼を言ってみせるルークに、向かいのアッシュはふんと鼻で返事してみせただけだった。その手に持つテキストを返す気はさらさら無いようだ。テーブルに身を乗り出してまで取り返す気力は無い、ルークは諦めて再びココアを飲み始めた。やっぱり、美味い。
まったりとルークが身体と頭を休めている間に、アッシュはテーブルの上にあるテキストやノートを次々と覗いていた。その表情がちょっとしかめっ面なのは、ルークの解答に難しい顔をしている、訳ではなく、多分ルークの文字を解読するのが困難だからだろう。文字の綺麗さだけはいくら鍛えようとしてもまったく改善されなかったのだ、ルークはすでに諦めていた。
「このサンドワームがのたくったような文字はもう少しどうにかならねえのか」
「うるさいな、俺が読めればいいんだよ、俺のノートなんだから」
「読めるのか」
「……ぼ、ボス級の風格がする文字って事でいいだろ!ていうか勝手に読むなよ!」
ようやくアッシュの手からノートを取り返すが、そのほとんどをすでに見られてしまった。しかし見られて困る事と言えばその文字の汚さだけである。その手にノートを取り戻す事が出来てホッと息をつくルークを、アッシュはなおも見つめていた。何か言いたげな表情だった。
「……何だよ」
あまり良い予感はしなかったが、一応聞いておいた。するとしばらく黙りこんだアッシュは、待つのに飽きたルークが問題を1、2問解き終わった後に、おもむろに語りかけてきた。
「いつまで続けるんだ」
しかしルークにはその言葉の意味が理解できなくて、思わず手を止めてアッシュを凝視してしまった。
「はあ?何が?」
「いつまでそれを続けるんだと聞いている」
「だから、それって何だよ、何の事だよ」
「勉強だ」
アッシュの表情は大真面目だった。だからなおさらルークは困った。ここで笑っていたりしてくれたら、ボケているのかと分かって突っ込みやすい所だったのだが。……いや、ここでこんなボケをかますアッシュというのもあまり想像は出来ないか。
とにかくアッシュの言葉がまったく理解不能すぎて、長時間の勉強で疲労していた頭は一気に臨界点を突破してしまった。左手に持っていたペンをバシーンと叩きつけて、ルークはアッシュへと身を乗り出した。
「アッシュお前どっか頭ぶつけてきたんだろ、そうなんだろ!だからさっきから意味不明な事ばっかりしてくんだろ!」
「俺のどこが意味不明だ」
「全てだよ!ココア入れてくれたのは嬉しかったけど!いきなり俺のノート読みだしたり理解出来ない事言ってきたり!お前はそんなに俺の勉強を邪魔したいのか!」
「そうだ、と言ったらどうする?」
ここで初めてアッシュがにやりと笑った。ルークは最早呆れ果てる事しか出来ない。
「おま、今までは散々勉強しろ勉強しろって俺に言ってきたくせにその言い草って!」
「今まではお前が屑な成績のくせに机に向かう事が一切無かったからだろうが」
「屑って言うな!反論出来ないだろ!」
確かに前までのルークの成績はひどかった。それなのに遊び呆けてばかりいたのでその時のアッシュの言葉はとても理解できる。だがしかし、一生懸命勉学に励んでいる今、勉強するなと言われる筋合いは無い。まったく無い。
「じゃあ今の俺を褒めるぐらいしてみろよ、言われた通り勉強してるだろ?」
どうだ褒めろと言わんばかりに胸を張って見せるルークだったが、アッシュはそれを眺めながらマグカップに口をつけるだけであった。その視線に褒めようという意欲は微塵も感じられない。それどころか、酷い事をズケズケと遠慮なしに言ってくるのだ。
「人として当たり前の事をしている所を何故褒めなければならない」
「ひどっ!俺だって頑張ってるのに!」
「むしろ気持ち悪い」
「頑張ってるのに気持ち悪いとか言われた!」
「今まで手をつけようともしなかった癖にいきなり勉強なんてし始めたら、誰だってそう思うだろうが、屑が」
じろりとアッシュに見られて、ルークは少しだけ言葉に詰まる。今まで勉強をやろうともしなかった事は本当で、最近になって急にやり始めたのも本当だった。だからアッシュの言葉にとっさに返す事が出来なかった。
「今更、付け焼刃の知識を身につけてどうするつもりだ」
まるで責めるような口調と視線だった。実際、アッシュはルークを責めているのかもしれない。何に対してなのかは、はっきりとルークには分からなかったが。
乗り出していた身体をすとんと下ろしたルークは、自分の手元を見下ろした。そこには、お世辞にも綺麗にまとまってはいない、しかしルークが懸命に努力した結晶であるノートが広がっている。今までのルークだったら、このノートをこんな風に文字で真っ黒にするなんて事、考えもしなかっただろう。
「……それでも、前よりは確実に成績上がってるし。もしかしたら届くかも、って、先生も言ってくれたし」
ぼそぼそと独り言のように言えば、アッシュのため息が聞こえてくる。
「まだ「もしかしたら」の範疇だろうが。落ちる可能性の方がずっと高いんだろう」
「う……。そ、そんなはっきり言うなよ……」
「事実だろうがこの屑」
アッシュの言葉が心に痛く沁みる。しょぼくれるルークを見つめながら、アッシュは静かに言った。
「そんな受かるとも分からない学校を受ける意味なんてどこにある。……ルーク、今すぐ志望校を変えろ」
「っ!」
ルークは勢い良く顔を上げた。その表情は怒りに満ちている。バンとテーブルに拳を打ち付けて、ルークはアッシュに噛みついた。
「アッシュにそんな事言われる筋合いは無い!例え望みが薄くても俺は諦めて無いし、そのために今頑張ってるんだ!俺がどの学校を受けるかは、俺が決める事だろ!」
二人は今年受験生だった。そこでルークが志望校として決めた学校は、今までの成績では無理だと先生にはっきり言われるぐらいのレベルの場所だった。ルークが他の全てをかなぐり捨てて勉強をし始めたのは、その日からである。
ルークが睨みつけてくるのと同じぐらい強い瞳で、アッシュも睨み返してきた。普段から目つきが悪いアッシュに睨みつけられるととても怖いのだが、今は怯えている場合ではない。
「俺があれだけ言ったにも関わらず今まで勉強をしてこなかったてめえの自業自得が今の状態だろう」
「うるさいな!確かに、今までの俺はすっげえ馬鹿で将来の事何も考えて無かったけど、だから今頑張ってるんだ!」
「そこまでしてレベルの高い所を受ける意味はねえだろうが!」
「意味はある!」
とうとう音を立てて立ち上がって、ルークはアッシュへと指をつきつけて、言った。
「お前が受けるだろ!」
ルークとしては至極当たり前のことを言ってやった気分だったが、アッシュは頭を押さえて呻き出した。どうやら、頭が痛いようだ。
「ど、どうしたんだアッシュ、頭痛がするのか?いきなり?」
「てめえの馬鹿さ加減に呆れてんだこの屑!」
「いでっ」
顔を覗きこめばその額に思いっきりデコピンを食らう。痛がっていると今度はアッシュが立ち上がってきた。
「何で俺が受ける学校をわざわざ選ぶんだ、家に帰りゃ四六時中顔を合わせるだろうが!」
「べべべ別にアッシュと離れるのが寂しいからとかそんなんじゃねーもん!俺が受けたいだけだもん!」
「嘘つけ単細胞!その顔に一人は心細いと書いてあるんだよ!」
アッシュはぐわしっとルークの顔を両手で引っ掴んできた。とっさに目を瞑ったルークだったが、想像していた衝撃は襲ってこなかった。このまま振り回されたり放り出されたりするのではないかと思っていたのだ。しかしそんなものはとうとう来る事無く、感じたのは目元を辿る優しい指先だけであった。
「……クマ」
「へっ?」
「前までは明日テストがあろうとさっさと寝やがっていたくせに、柄にもなく夜中まで無駄な努力をしているからだ、屑が」
「あー……」
最近夜更かしをすることが多くて、目元にクマが出来ている事はルークも分かっていた。だがそんな事に構っている余裕が今のルークには無い。大体気にもしていなかったのだが、アッシュにとってはとても気になるものだったらしい。
ポイッとルークの顔を放したアッシュは、そのまま腰を下ろして顔を背けてしまった。つられてルークも座り込む間に、自分のマグカップを取り音を立てて飲み下す。
「例え無理が祟って身体を壊したりしやがっても、それはてめえの自業自得だからな。俺は一切面倒を見ねえからそのつもりでいろ」
相変わらずそっぽを向いたままだったが、結局はアッシュはルークの事が心配であれこれ言ってくるのだ。それがルークにも痛いほど分かった。当たり前だ、もしアッシュがルークと同じように無茶な事を続けていたとしたら、アッシュと同じようにルークだって心配するからだ。そして出来ればそれをやめさせたいと思うだろう。
分かっている。分かっているけど、ルークはやめない。来年の春、アッシュと一緒に登校するためだ。今現在と同じように、二人一緒に、同じ学校へ。
「アッシュ」
「……何だ」
「俺、頑張るからな。だから、待っててくれよ」
アッシュとてルークと同じ受験生だ。しかしその成績は天と地ほどの差がある。お前は余裕だよと先生にお墨付きをもらっているアッシュならば、きっと受かるだろう。後は、ルークの出来次第だ。
アッシュは飲み干したマグカップを持って立ち上がった。そして部屋を出て行く前に、一度だけルークを振り返る。
「俺は待たねえよ。それでも追い付きたければ、死ぬ気で這い上がって来い」
そうして歩いて行ってしまったアッシュの背中をルークは黙って見送った。脇に置いてあったすっかり冷えてしまったココアを一口飲んで、こっそり笑う。
ルークは知っていた。アッシュが先生に今よりもレベルの高い学校を受ける事も可能だと言われている事を。そして、それをしない理由を。
「這い上がるさ。お前が待ってくれてんだからな」
一息ついたルークはよし、と気合を入れなおして再び問題へと取りかかった。こちらへ手を差し伸ばして待ってくれている、掛け替えのない大切な人がいる未来へ進むために。
そのためならばルークは、いくらでも頑張れるのだ。
ふたりで歩むために
10/07/26
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キリ番「493800」来栖さんから、「受験勉強を頑張る赤毛」リクエストでした。