その日は快晴だった。降り注ぐ太陽の光によって空気が温められ、冬の衰えを感じさせるぽかぽかとした気持ち良い日であった。人が賑やかに行きかうこの町にも、その光は等しく注がれている。そんな表の様子を窓からたまに覗き見ながら、宿の厨房を借りて料理に勤しむ一つの赤い頭があった。
辺りには、濃厚な甘い香りが漂っている。鼻歌を歌いながら上機嫌で動かすその手元には、どんどんと丸く形を変えていくいくつもの茶色の塊があった。甘い匂いはもちろんここから発せられている。柔らかく、しかし形を崩さないそれらはいわゆるチョコレートである。


「よし、もう少しで完成だな」


自らの手で作られていくチョコレートを見つめるその新緑の瞳には愛しさすらあった。それは、己が生み出したそのチョコレートへの愛ももちろんあったが、頭の中にはただ一人の人物が浮かび上がっているのだった。このチョコレートは、その愛しき人へ贈るものなのである。
出来上がったいくつかのチョコレートの塊の中から、作ったその手が一つ拾い上げる。そうして味見のつもりで開けた口の中に入るはずだったそれは、後ろから伸びてきた腕に手ごと捕えられ狙いを外されてしまった。チョコレートはそのまま、すぐ後ろにいた別な口の中へ入っていく。


「おい、まだラッピングもしてないのに食うなよ。お前のために作ったんだから、急がなくても全部お前のものだっての」


困ったような怒ったような顔で振り向いたその目はしかし笑っていた。もぐもぐと十分にそのチョコレートの味を堪能した口元が、その顔を見つめながらにやりと笑う。


「ようやく一人でも人間が食べられるようなものを作れるようになったか、ルーク」
「はいはい、これも全部つきっきりで愛ある指導をしてくれたアッシュ様のお陰ですよーっと」


軽口を叩き合った後、顔を見合わせたルークとアッシュは同時に吹き出していた。ひとしきり笑った後、背中から両腕を囲うように回していたアッシュの手がさり気なく再びチョコレートに伸びて、すぐにルークに軽く叩かれる。


「だから食うなっつーのに」
「ふん、どうせ俺の腹に入る事になるんだろうが、後でも先でも同じ事だ」
「同じじゃない、最後まで全部俺の手で仕上げたいんだよ」


ルークの言葉に、しぶしぶとアッシュの手が引っ込む。しかし二個目をすぐに食べたいと思ってくれるほど気に入ってくれたのだと、ルークはにやにや笑顔が止まらなかった。背を向けた状態なので顔は見えていないはずなのだが、その雰囲気で分かってしまったのだろうか、アッシュがからかうように頭に触れてくる。


「そんなに自信作か」
「自信作っていうか、単純に嬉しいんだ。まともにこうやって甘いチョコレートが作れる事が。……前までは我ながら、酷い出来だったし」


包丁を使う事さえ忘れてしまうほどであった以前の自分を思い出して、ルークががっくりと肩を落とす。そのまま慰めるようにお日様色の頭を撫でてやりながら、アッシュは言う。


「まあ確かに、当時のお前と比べたら驚くべき進歩だな」
「うーっ、事実なんだけど改めてアッシュにそう言われるとムカつくなあ」
「誰のお陰だと思っていやがる」
「さっきも言った通り、アッシュのお陰だよ」


身体ごとアッシュに振り返ったルークがにこりと微笑む。ルークの言う通り、チョコレート一つまともに作れないルークを徹底的に鍛え上げたのは、他ならぬアッシュであった。ヴァンとの決着をつけ、奇跡が起きたのかローレライのおかげなのかは定かではないが二人揃ってこのオールドラントに生還する事が出来てから早幾年。世界を見つめるために二人でこっそり屋敷を抜け出し旅をするようになってからずっと、アッシュはルークにチョコレートだけではなく料理を次々と教えてくれたのだった。かなりのスパルタだったが、お陰でルークは並み以上の腕を手にする事が出来たのである。


「いやあ、俺でもやれば出来るんだなあ」
「当たり前だ、俺が教えてやったんだから、ある程度は出来るようにならなければ……な」
「な、何だよその間は。出来るようになったんだから良いだろ!」


身の危険を感じたらしいルークがじりじりと後ずさるが、チョコレートが並べられた台がすぐ真後ろにあるので叶わない。慌てるルークの様子をどこかおかしそうに眺めていたアッシュだったが、ふとその瞳が遠くを見るように陰った。


「……俺も、お前とほぼ同じ気持ちだ。こうしてお前が作ったチョコレートを食う事は、二度とないだろうと思っていたからな」


思えばあれが初めての事だったかもしれない、二人並んでああも真面目に同じ事に取り組んでみせたのは。あの時は自らの身体の終わりをひしひしと感じていて、未来の事なんて何一つ希望を持つ事さえ出来なかった。しかも二人揃ってだ。だからこそこうやって再び同じように同じ場所に立っている今この時が、何よりも掛け替えのない奇跡のように思えるのだ。
アッシュが考えている事を回線が繋がっている訳でもないのに正確に読み取ったルークが、そっと頭を寄せてくる。


「俺達って本当、馬鹿だったよな」
「ああ」
「特に俺なんて、自分の中の気持ちに一切気がつけなくてさ。世界で一番チョコを渡したい相手はアッシュだってはっきりと思っていたのに、その意味には最後まで気付けなかった」
「俺もそうだ。お前の事を誰よりも、何よりも気にしていたはずなのに、そんな自分の思いから最後まで逃げていた。気付くのを恐れていたんだ」


顔を上げたルークと、じっと見下ろすアッシュの視線が正面で交わる。その視線は熱を帯びていた。今この胸に浮かぶありったけの想いを込めて、互いに互いを見つめていた。


「……最後にならなくて良かった」


ルークの唇から零れ落ちたその言葉には、心からの安堵がこもっていた。同時に恐れも含まれていた。


「もしあのまま終わっていたらと思うと俺、どうしようもなく怖くなるんだ。アッシュにチョコをまた食べさせてやるっていうあの約束が叶わなかったらって……」
「ルーク……」


もしかしたらの世界を想像したのだろうか、ルークの身体は小刻みに震えていた。アッシュも少しだけ想像してみて、そしてすぐに止めた。それは恐ろしい世界だった。己の隣に立つべきこの愛しいレプリカが存在しない世界だなんて、それはもう死の世界と同じ事であった。
改めて思う。あの時の叶わないことを承知でとりつけた、「チョコをまた作れ」という約束、それが叶って良かったと。あのほろ苦い時間が最後にならなくて、本当に良かったと。
ルークもアッシュも、同じ思いを抱いている事はよく分かっていた。こうして見つめ合うだけで分かる。目に見えない糸で繋がっている二人は、誰よりも近い存在だからだ。互いに互いを世界で一番想い合っているからだ。
二人の顔は自然と近づいていた。そしてそのまま、思いのまま触れ合う直前のその唇に、


「だからアッシュ、たーんとチョコを食えよ!これ全部アッシュに作ったんだからな!」
「むごっ?!」


数個のチョコが押し込まれた。突然の出来事にさすがに対応できず、口いっぱいにチョコを頬張ったアッシュが呻く。おい今の場面でこれは無いだろうとか、さっきはまだ食うなと言ってやがっただろうとか、投げつけたい文句は無数にあった。しかしそれらは全て、俯いたルークの限界まで真っ赤になった耳を見て消えた。
なるほどこれは所謂、照れ隠しか。


「……良い度胸だ」


信じられない速さで口の中のチョコを咀嚼したアッシュは、ルークの顎を掴んで持ち上げる。躊躇いがちにこちらを向いた朱に染まる頬に、これ見よがしに軽く唇を押し付ける。


「うわっ甘ったるい匂い」
「それを俺は今目一杯口に詰め込まれたんだが?」
「へへっつまってるだろー、俺の気持ち」
「そうだな、それじゃあ今度はお前が味わうか、俺の気持ち」


アッシュの野望は、観念して目を閉じたルークによってようやく達成する。
そうして触れ合った気持ちは、かつて食べた事のあるどんなチョコレートよりも、甘かった。





   愛の手作りチョコレート指南

            あまあま甘味






12/03/15