小さい頃は確かに恐ろしかった。次々と強く叩きつけられてくる雨粒の音、この小さな離れなんて吹き飛んでしまうのではないかと思わせるようなごうごうと唸る風、時折遠くから響いてくる今まで聞いた事も無い大きな音と、真っ暗な窓の向こうで一瞬光る眩い光、走る稲妻。この世に生まれてから幾許かも経たない頃、その全てが恐ろしくて、嵐が過ぎ去るまで泣き叫んでいた記憶がある。そう、あの頃は確かに、嵐は恐ろしかった。
しかしいつからだろうか。湿り気を帯びた風と、雷雨を湛えた真っ黒な雲が迫り来るのを見て、心を躍らせるようになったのは。一瞬の激しい光で世界を照らす稲光を見て、同じように瞳を輝かせるようになったのは。嵐が好きになったのは。



   嵐の世界



その日アッシュは、今日はついていないと心の中で嘆いていた。露骨に嫌そうな顔をしながら宿のベッドで本を読んでいたが、それを口に出す事は無い。何故なら余計な不満を漏らそうものならすかさずぶーぶー文句を言ってくるであろうひよこ頭が、隣の窓に鼻先をくっつける勢いでかじりついているからだ。


「まだかな、まだ来ないかな……なあアッシュ、いつ来ると思う?」


窓の外を眺めながらのその問いに、アッシュは今に来るだろうと心の中で返事をした。ただひたすら不機嫌真っ只中なので、声を出す事は無かった。
今か今かとそわそわ落ち着きの無い子どもの様な正真正銘子どものルークが待っているものは、今まさに窓の向こうからこちらへと迫り来ている所だった。夜の闇をそれ以上黒く染め上げながら向かってくるそれは、まさしくアッシュをこの落ちつかない宿の一室へ閉じ込めている原因そのものであった。嵐である。
単純な話だった。これから嵐が来るのでアルビオールを飛ばせなくなり、たまたま一泊する予定で立ち寄った町で偶然ルークたちと鉢合わせしたのだ。向こうももちろん同じ乗り物に乗っているのでアッシュ一行と同じ状況であり、あれよあれよという間に一緒に泊まる事が決定してしまったのだった。そしてそうなると、何故かアッシュとルークは一緒の部屋になる確立が極めて高い。今回も例に漏れずそうなっただけの事だ。
だからこれはもはや見慣れた光景なのだ。ルークが上機嫌であれこれと話しかけ、アッシュがつっけんどんに返したり無視したりするこの状況だ。ここに他の男性陣が増えたりミュウがついてきたりするが、今日は二人部屋、ミュウはティアに拉致されていったので、これ以上人数が増えることは無い。


「アッシュ見ろよ、もうあの黒い雲が真上まで来たぞ。遠くの方からゴロゴロって音も聞こえるし、雷が落ちてくるかもな」


ルークもこの状況に慣れたもので、たとえ返事が無くても満足するまで一人喋りかけてくる。主にアッシュはそれを無視して過ごすのだが、外から雷の唸り声が聞こえてくるにつれ、口を開きたくなってきた。ルークに尋ねてみたい事が出来たからだ。自ら尋ねかけるのは少々癪だが、疑問を放っておいて一人悶々とするのも嫌だった。仕方なく、アッシュはルークを見た。


「おい、レプリカ」
「んー?」
「さっきからやたらとそわそわしやがって、うっとおしい。一体何がそんなに楽しみなんだ」


アッシュに尋ねられて振り返ったルークは目をぱちくりさせた。アッシュと一緒に泊まる時のルークはいつもはしゃぎ回って、最終的に怒鳴られてしょんぼりと静かになる事が多いのだが、今日のはしゃぎっぷりはいつもとちょっと違うように感じた。ルークは、明らかに何かを待っている。それもとても楽しそうに。


「何言ってるんだよアッシュ、今から来るものっていったら、ひとつしかないだろ?」


ルークは笑顔で窓の外を指差した。すでに外には強い風が吹き荒れ始めているようで、窓ガラスもガタガタと音を立てている。さっきからの口ぶりにまさかとは思っていたが、やはりそのまさかなのか。アッシュは少々信じられないような気持ちで、それを口にした。


「……まさか、嵐そのものか」
「もっちろん!」
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで突き抜けて馬鹿とはな」
「どういう意味だよっ!」


心から呆れたようなため息を吐いてみせてその実、アッシュは内心驚いていた。ルークはどちらかといえば、嵐を嫌うタイプだと思っていたからだ。そもそもこんなに胸をときめかせて嵐を待つ人間なんて極僅かだろう。不可思議に思っても仕方あるまい。ひどい言い草にこちらを睨みつけてくるルークに、アッシュは自分の思っていた事をそのまま口に出した。


「てめえの事だから外に出られなくてつまんねえとか、雷にガキみたいにビビったりでもするのかと思っていたがな」


割と本気でそう思っていただけに、今のこのルークの反応は予想外すぎた。ルークはああ、と納得するように声を上げる。


「それ、ガイにも言われた。昔はあんなに怖がってたのにどうしてこうなったーってな」
「昔……」
「おお。子どもの頃……まあつまり、俺が生まれたばかりの頃って事になるよな。確かにあの頃は、風の音も雨の勢いも雷の光も、何もかも怖かったよ」


まるで懐かしむように再び窓の外を向いたルークの瞳は、いっそ穏やかだった。嵐を前にこんな表情で迎えられる者はそういないだろう。アッシュは奇妙なものを見るような目でルークを見た。
その時だった。暗闇しか映してこなかった窓の向こうから、閃光が二人の間を引き裂いていった。それは一瞬の出来事だったが、その一瞬で光はルークの興味をアッシュからもぎ取っていってしまった。


「雷だ!」


嬉しそうに窓に取り付いたルークの声に被さるように、轟音が暗闇の世界に響いた。腹の底まで振るわせるその音は、普通の人が聞いたら十中八九身をすくませるような響きだというのに、ルークはそれに嬉々として聞き入った。アッシュの疑問は深まるばかりだ。
先ほどの雷が合図だったとばかりに、大粒の雨が窓を叩き始めた。その量はあっという間に増えていき、一分も掛からないうちに外は豪雨となった。嵐が本格的にこの町を襲い始めたのだ。ガラス越しに覗く外のひどい有様を、しばらくルークはにまにまと笑みを浮かべながら見つめていた。最早本を読む気力すら奪われたアッシュは、そんなルークをぼーっと眺めていた。身支度を整えて後は寝るだけという気だるい時間帯だった。真夜中に響く雨音が子守唄に聞こえてきだしたアッシュの耳に、おもむろに口を開いたルークの言葉が飛び込んでくる。


「嵐ってさ、何か起こりそうな予感がしないか?」
「……は?」


不覚にもうとうとしていたせいで反応が遅れた。ハッとルークの方を見れば、嵐の暗闇の中でも一際明るく輝く翡翠の瞳がこちらを見ていた。しばらく無言で先ほどのルークの言葉を考え込んだアッシュは、理解した途端に鼻で笑った。


「ガキか」
「そうなんだよなあ、きっと俺、ガキなんだよな」


いつもならガキって言うななどと抗議の声を上げているであろう場面で、ルークは笑った。その笑顔はその言葉とは裏腹に、幼い頃を思い出すような妙に大人びたものだったので、アッシュを大いに驚かせる。今までずっと動いていなかった、不機嫌に曲がっていた眉がぴくりと反応するぐらいの驚きだった。


「嵐が来るとさ、外の様子がまるっきり変わるだろ?」


驚くアッシュを気にしていない様子でルークは窓を指し示した。ガラスには次々と雨の波紋が浮かび上がってきている。相変わらず窓は吹き荒れる風によってガタガタとうるさいし、大量の雨が落ちてくる音はいっそ騒音だった。それなのにルークの声は、不思議なぐらいアッシュに真っ直ぐ届いた。回線を開いている訳でもないのに、奇妙な感覚だった。


「屋敷にいた頃、いつからだったかは忘れたけど今日みたいな嵐が来た日に、見飽きた中庭がまるで別世界みたいに荒れ狂ってるのを部屋の中から見ていてさ。まるで俺も一緒に別の世界に連れて行かれたような、そんな気分になったんだ」


ルークの瞳が細められる。きっと当時の事を思い出しているのだろう。アッシュも想像してみた。
自分が生まれてきた意味も分からない知らされない、飼い殺しにされた哀れな子ども。一人あの離れに閉じこもり、嵐の音に驚き窓から外を覗いた幼い瞳が見たもの。狭い世界しか知らない子どもにとって、その光景はまさしく別世界だったろう。不変であった鳥かごに訪れた世界は、例えそれがどんなに凶暴なものであっても、子どもにとっては魅力的な変化だったに違いない。まさしく先ほどのルークのように、雷の音と光に魅入られた笑顔で、外を眺めていたのだ。そんな景色が、一度も見た事が無いはずのアッシュの頭の中にも容易に浮かび上がってきた。


「一回、あんまりワクワクしすぎたせいで何の用意も無いまま嵐の中庭に飛び出した事もあったな。あの時は頭からずぶぬれになって色んな奴に怒られたっけ」
「馬鹿だな」
「だなあ。でもそれぐらい、俺はいつの間にか嵐が好きになってたんだ」


弾んだルークの声は、本当に嵐が好きなのだという気持ちが伝わってくる。さっきから呆れっぱなしのアッシュがさらに呆れる。嵐を見つめるルークの瞳があまりにも爛々と輝きっぱなしだからだ。


「こうやって見てると、本当に何か起こりそうな感じがしてさ。本当は何も起こらないって分かってるんだけどな。……あー、何か俺、今夜は眠れないかも」


ルークのソワソワ具合は治まらない。これは、嵐が過ぎ去るであろう朝焼けの時刻まで目が冴えて眠れず、結局朝方になって眠り寝坊するパターンだ。確実にそうだ。アッシュはここで、勝手にしろと吐き捨てて自分だけベッドに潜り込むべきであった。それを理解していた。
それなのにアッシュの身体は考えている事と正反対に動く。閉じられた本を脇に置き、居心地の良いベッドから立ち上がっていたのだ。


「行ってみるか」
「へっ?」


いきなりのアッシュの発言にルークが呆ける。アッシュは腕をまっすぐ上げて、窓を指差した。嵐を指差していた。


「ガキの頃は行けなかったというその別世界とやらに、行ってみるか?」


ルークはしばらく、アッシュの言葉の意味を考えていた。アッシュはその間、俺は何をしているんだろうと考えていた。しかしアッシュの考えがまとまらないうちに、ルークが声を出してしまった。


「行けるかな」
「さあな」
「何か、起こるかな」
「知らねえな」


そっけない返事を聞きながら、ルークはアッシュを上から下まで不思議そうに眺めてくる。そうして最後に、確認するように尋ねた。


「二人で?」


アッシュは言葉で答えず、部屋の出口へと歩き出した。その背中を見て、ルークが満面の笑みで立ち上がる。


「行く!」


実際に、別な世界に行けた事なんて無いのに。何か特別な事が起こった事も無いのに。ルークは今、かつて無いほどの予感に胸を躍らせていた。旅をしていれば嵐にぶつかる事なんて沢山あるが、そのどれもが、今日ほどワクワクした事など無かった。屋敷で見たあの嵐でさえ、ここまで心を動かしていなかっただろう。
背を向けた窓から閃光が届く。遅れて聞こえた雷の音が、まるで新たな世界の始まりを祝福する鐘のように頭の中に鳴り響いた。何て馬鹿馬鹿しい頭なのだろうとアッシュは一人で笑った。ルークのどうしようもない考えに、どうやら引きずられてしまったらしい。
ドアを開けて振り返ったアッシュが、手招きするように手を挙げる。ルークはそれに答え、狭い二人部屋から飛び出した。音を立てて閉められたドアが再び開くのは、おそらく頭からずぶぬれになった赤毛の頭ふたつが、嵐の世界から並んで帰ってきた時になるだろう。

そう、二人で共に。





11/06/28