灰色の空を睨み上げながら吐いたため息は、真っ白に溶けて人ごみの中へと消えた。休日の人の多さに、人ごみが苦手なアッシュは忌々しい思いでそれを眺める。青色でどことなくウザい感じの動物の銅像が中央に建つこの広場は、待ち合わせ場所としてよく町の人々に利用されていた。つまりこの広場に人が溢れ返っているのは珍しい事ではなく、それを良く知っているアッシュはだからこそ、どんなにイライラしてもため息を吐くだけで我慢しているのである。
冬の寒々しい曇り空に似つかわしいその重いため息は、この人の多さのためだけではない。外を出歩くために着込んだ腕を僅かに捲くって腕時計を確かめたアッシュは、今日何度目かのため息をもう一度吐き出す。デジタルよりアナログに限ると常日頃思っているアッシュの時計の針は、約束の時間より10分進んだ数字を指していた。


「後10分経ったら腫れ上がるまでデコピンかましてやる……」


そう一人愚痴るアッシュはしかし、今の状況を半ば予測はしていた。何せ今日の待ち人は、待ち合わせの類には大抵遅れて来る遅刻の常習犯なのだ。今回もきっと遅れて来るのだろうと思いながらもそれでも律儀に5分前にはこの場所に到着していたアッシュだったが、案の定である。
だが同時にアッシュは、後5分もしないうちに待ち人は来るだろうとも予想していた。こうして待たされる事が多いアッシュは、相手の行動パターンを大体把握していたりする。自分の嫌な待ち合わせ理由や相手の場合はいくらでも遅れて来るが、こうしてアッシュと待ち合わせする時はどんなに遅くても15分経つ前に慌ててやって来る奴なのだ。それをアッシュは知っていた。だからこそそれを過ぎたら許さねえという心積もりなのだ。

銅像に半分寄りかかりながら広場の入り口に視線を投げたアッシュは、自分のその心積もりが無駄であった事を悟った。アッシュにとって非常に見慣れた色が、ひしめき合う人の群れの向こうに現れたのを発見したのだ。立ち止まったり歩いたりしている人々を避けつつ時々ぶつかりながらも小走りで近づいてくるその色を、アッシュはどこか不思議な気持ちで眺めていた。
先ほど言った通りアッシュは人ごみがとても苦手なので、広場に集うこの大勢の人達の事も、頭上に広がる空の色と同じように味気ない色にしか見えていなかった。しかしアッシュへ向かってくるその色だけは、いくら人ごみに紛れようとも興味の無い群衆に混じる事は無かった。アッシュの瞳はその鮮やかな存在感を見逃す事無く、いつまでもどこまでも追いかけていく。その理由をアッシュは理解していた。していたからこそ、誰にも見えないように一人こっそり自嘲した。
そうしている間に人ごみを掻き分けてこちらへ向かっていた色は、アッシュの目の前にようやく躍り出てきた。肩で息をしながら朱色の前髪を除けて額の汗をぬぐうアッシュの待ち人、ルークは、こんなに寒い空気の中汗をかくほど全力でここまで走ってきたらしい。必死に息を整えたルークは、開口一番に謝ってきた。


「悪いっ遅れた!」
「悪いと思っているなら少しは学習能力を身につけやがれ、俺が何度てめえにこうやって謝られていると思ってる!」
「だって、今日こんなに寒いだろ?だからなかなか布団から出られなくってさ……どうして冬場の布団ってあんなに起きられないんだろうな」


ばつが悪そうに頬を掻くルークは、暖かな布団の中を思い出したのかへらりと笑顔になる。その笑みは寒さもまだ和らがない二月の半ばであっても、春が訪れ元気を取り戻すように輝きを増す太陽を思わせた。指の先まで冷たかった己の身体がその笑顔を見て暖かさを感じている事を自覚しながら、アッシュは表面だけは苛立っているかのように眉を寄せてみせた。


「知るか」
「あっ待てよアッシュ!俺が悪かったってば!」


さっさと歩き始めたアッシュの横に、ルークはすぐに走り寄ってきた。その表情は始終にこにこと嬉しそうな笑顔で、こいつは本当に遅れてきたことを反省しているのだろうかとアッシュを呆れさせた。


「てめえやっぱり悪いと思ってないな」
「悪かったって言ってるだろー」
「少しでも反省している人間はそんな緩んだ顔してねえんだよ」
「あ、これ?だって俺何か今嬉しくってさ」


どうやら笑顔でいる事の自覚はあるらしく、指摘されたルークはより一層笑みを深めた。遅刻した事の反省を上回る上機嫌のようである。視線を投げ掛けて理由を問えば、すぐに答えた。


「だってさ、アッシュから遊びに誘ってくれたのってあんまり無いじゃん?いつも俺からだったから、何だか嬉しいんだ」


そうやって本当に嬉しそうに笑うルークに、アッシュはとっさに開きかけた口を何とかして閉じた。
ルークの笑顔は、アッシュにとって脅威だった。どんなにアッシュが怒り心頭で怒っていたとしても、その笑顔を出されるだけでふつふつと滾っていたはずの怒りは鳴りを潜めてしまいそうになるのだ。知り合い始めた頃はこの間の抜けた笑顔に逆に苛立っていたはずなのに、これは一体どうした事だろう。きっとそれをルークも本能的に分かっていて、こうして始終笑顔でいるのだ。そうなのだ。


「……おい、腹減ったから早く行くぞ」
「え?あっ待てってば!俺もお腹空いたっ!」


アッシュが歩く方向を変えればルークも素直についてくる。その事に充足感を覚えている事に、アッシュは気づかない振りをする事しか出来なかった。




「それにしても、今日は一際人が多いと思わねえ?」


良く行く馴染みの店に入り、注文して出てきた料理を粗方平らげた頃、窓から外を眺めながらルークが何気なくそう言った。食後のコーヒーを飲みながらつられてアッシュも目を向けてみる。外を行き交う人数は確かに多い。


「休日だからだろう」
「それもあるけど……やっぱり明日があれってのもあるんじゃないか?」
「あれ?」


アッシュが眉を寄せれば、覚えてないのかとルークが目を丸くした。


「明日はバレンタインデーだろ!ほら見ろよ、平常時より明らかにカップルの量が多いじゃんか」


言われて見れば確かに、この店だけでもあっちのテーブルにもこっちのテーブルにも座っているのは男と女のカップルだった。休日なので子ども連れの家族が若干いたりするが、その辺は除外する。アッシュはいかにも今気がついたかのように声を上げた。


「ああ、そういやそうだったな」
「そういやそうだったな、じゃねーよ。ったくアッシュは本当にこういう行事に無関心だよなー」
「………」


やれやれとばかりにため息をつくルークに何も言わないアッシュだったが、実は明日が何の日かなんて、ずっと前から心得ていたりする。むしろここ最近はその事ばかりを考えていたほどだ。しかしそれをルークに告げる事はせずに、アッシュはコーヒーに口をつけるだけだった。
まさか、言えるわけがない。


「あーあ、今年もお情けの義理チョコしか貰えないんだろうな。アッシュはいいよなー明らかに本命っぽい奴がいつの間にか下駄箱に入ってるっつー漫画の世界のような貰い方を経験してきてるんだから」
「ふん、好いてるどころか誰のものかも分からねえ食い物を貰ったって迷惑なだけだ」
「それ!世の普通の男子諸君が聞いても妬みしか沸き起こらない勝者の台詞!こっちは羨ましいだけだっつーの!」


頬杖をついて唇を尖らせるルーク。アッシュは思わずそれを思いっきり睨みつけてしまった。どれだけルークが羨ましがろうとも、アッシュにとって見ず知らずの誰かから貰うチョコなんてこれっぽっちの価値もないのだ。それを勝手に妬まれてもアッシュにはどうにもならないし、どうしようとも思わない。アッシュが今の所バレンタインに関して気になる事は、たったひとつしかないのだから。


「……それだけ言うなら、貰いたい本命でもいやがるのか?」
「いると思うか?バレンタイン前の休日にアッシュに誘われて二つ返事で喜んでやって来た俺に」
「ああ、ひどい質問をしちまったみたいだな、悪かった」
「お前全っ然悪いと思ってないだろ!むっムカつくー!」


これ見よがしに鼻で笑って見せた事で悔しそうにしているルークにはきっと、アッシュがルークの言葉を聞いた時に心の底からホッとした事なんて、分かりはしないのだろう。分からせるつもりも無かった。
いいや、例えこの胸の内を全て目の前に曝け出してみせたとしても、きっと理解なんて出来ないだろう。アッシュは心の中で己を自嘲した。この中にいつからか芽生えたこの感情は、およそ普通の人間なら抱く事がないだろうものだからだ。
まったくどうかしているとアッシュは自分に思った。
かつては一生分かりあえない人種だと思っていた、馬鹿で真っ直ぐで純粋な目の前の友人。子どものように怒ったり、かと思えば太陽のような笑顔で笑ったりするその表情を見ているうちに、いつの間にか親友とも呼べるような間柄になっていた。
そんな、半生を共に過ごしてきた同性の友人に、恋をしてしまうなどと。


「お待たせしました、チョコレートパフェをお持ちしましたー」
「あっやっと来た来たっ!」


バレンタイン仕様なのか、たっぷりとチョコが含まれた甘ったるそうなチョコレートパフェを目の前に輝く翡翠の宝石。一番美味しそうな所をスプーンですくって、そのままぱくりと加える緩んだ口元。美味いと呟くとろけそうな笑顔。その全てをアッシュは見ていた。ルークに気づかれないようにひっそりと、しかし脳に刻みこむようにしっかりと。


「でもアッシュ、本当にこれ全部おごってもらっちゃっていいのか?」
「いつも金欠だ金欠だとうるさくわめいているじゃねえか、たまには情けでもかけてやらねえとな」
「ううっいちいちムカつく言い方しやがって……有難いけどっ!あ、それじゃあ」


アッシュが今日という日にどんな思いでチョコレートパフェをルークにおごるのか。そんな事思いもしないルークはスプーンを咥えながら、アッシュが初めて出会った頃から惹かれていたあのチョコより甘い輝く笑顔で、言った。


「このチョコレートパフェはアッシュから俺へのバレンタインチョコって事で!へへ、ホワイトデーのお返しは何が良い?」


一瞬絶句したアッシュは、何とか声を絞り出す事に成功する。


「……知るか」


人の気も知らないで。
呟いた一言は、慌てて飲み込んだコーヒーと共に、アッシュの口の中で消えた。





   ああ、片思い

11/03/02