流行にはとんと興味の無いアッシュであるが、ひとつだけ例外があった。風邪である。
「くそ……今年もこの季節か……」
昨
日から少し喉に違和感を感じていたアッシュだったが、翌日見事に熱が出た。最近教室の中は風邪気味の生徒のくしゃみや咳であふれ返っている。そこからどう
やらうつされたようだ。毎年毎年律儀にこうして風邪をもらってくるアッシュは最早慣れたもので、家に常備してある風邪薬を飲み今日一日毛布の中で大人しく
する事とした。
小雨がしとしとと降る少し肌寒い天気だった。静かな雨の音を、アッシュはぼんやりする頭でうとうとしながら聞いていた。この雨のせ
いだろうか。それとも熱のせいだろうか。いつもは感じないはずの感情が自分の胸の内にある事にアッシュは気づいた。もうこの暮らしも慣れたはずだ。元々一
人でいることが心地良かったはず。それなのに何故。
こんなに、孤独を感じるのだろうか。
「……っは、馬鹿馬鹿しい」
風
邪を引くと人恋しくなるとはどこで聞いた言葉だろうか。アッシュはごまかすように毛布を頭から被った。とにかく寝てしまうに限ると思ったのだ。眠ってしま
えば、こんなもやもやした気持ちなど感じることは無い。風邪だってすぐに治るはずだ。風邪さえ治ってしまえばこんなことを思う事だって、無いはずなのだ。
本格的に寝入るためにアッシュはじっと目を閉じた。しかしそういうときに限って、邪魔が入ってくるものなのである。
「おーっすアッシュー!元気かー生きてるかー!」
頭
に響くほどの元気でうるさい声がアッシュ一人のはずだった部屋に響いた。玄関からだった。当たり前のように合鍵を手に持ち遠慮なくアッシュの玄関を家主の
許可なく開けられるのは、今のところ世界に一人しかいない。どたばたといつものうるさい足音が近づいてきた所でようやくアッシュがだるそうに目を開けれ
ば、そこには元気の有り余った翡翠の瞳がアッシュを覗き込んでいた。
「うわー思ってたよりずっと具合悪そうだなー、大丈夫か?」
「……何しにきた、ルーク」
「ひっでえ、人がせっかくかんびょーしに来てやったのにその言い草!」
季節はずれの台風のようにアッシュの部屋になだれ込んできたルークは、毛布に包まるアッシュの前へと遠慮なく座り込んで額に手を伸ばしてきた。雨の中を歩いてきたせいかひんやりとした手のひらがちょっぴり心地よい。
「熱も結構あるじゃん、薬ちゃんと飲んだか?」
「どこかの誰かさんと違って、薬は常備してあるからな……」
「う、いっ今はちゃんと置くようにしてるっつーの!まあ飲んだならいいや」
すっと手を離したルークは水、水と呟きながら歩いていってしまう。おそらく台所に行ったのだろう。冷たくてでもどこか暖かい手が離れていってしまったことに一抹の寂しさを感じながら、それを表に出すことなくアッシュはルークの背中を見送った。
以前、同じようなことがあった。しかし立場は逆であった。ルークが風邪を引いて、アッシュがそれを看病しに行ったのだ。そのことをふと思い出して、アッシュは不思議な気分になった。あの時のルークは、こんな気持ちで自分の背中を見ていたのだろうか。
ルークは姿が見えなくてもうるさい。ガチャンバタンと少々不安になる音を立てながらも、割と早く戻ってきた。桶を探していたらしい。水をたっぷり入れた桶とタオルを持って、再びアッシュの脇に腰を下ろす。
「これで頭冷やして寝とけばすぐに治るって、俺が直々に絞ってやんだからありがたく思えよ!」
「……ちゃんと絞れよ」
「ばっ馬鹿にすんな!」
憤慨したルークは、それでも力いっぱいぎゅうぎゅう絞ったタオルをアッシュの額に乗せてくれた。気持ちよい冷たさに思わずため息をつけば、ルークが満足そうな笑顔でうなずく。
「そうだアッシュ、風邪の時は果物食べなきゃいけないんだぞ、食べたか?」
「いや……」
果物を必ず食べなきゃいけない訳では無いと思うが、しかしルークはそう思っているらしい。アッシュが軽く首を振ればそれはいけないと再び立ち上がった。
「そうだろうと思って果物、持ってきてやったぜ!ちょっと待ってろよ!」
元気良く飛び出していったルークは、今度はすぐに戻ってきた。その手にアッシュを不安にさせる道具を持ちながら。
「さーアッシュ、待ってろよ!俺がすぐに準備してやるから!」
「待て、ちょっと待て……!」
ルークが右手に持っているもの、それはりんごだった。赤く熟れてとても美味しそうなりんごだ。熱のせいであまり食欲の無いアッシュもこれなら食べてもいいかなと思える果物だ。しかしルークが左手に持っているものがアッシュの胸を騒がせる。それは、果物ナイフだった。
「まさか、今からそれを使うのか」
「だってこれを使わなきゃ皮剥けないし、切れないだろ?アッシュまさか丸かじりが良いなんて言うんじゃねーよな」
「そっちの方がいっそましだ……」
「どーいう意味だよっ!」
ルー
クの不器用さをよく知っているアッシュだからこそ、ルークが果物ナイフを扱うことがとんでもなく心配なのだった。ハラハラしながら血まみれのりんごを待つ
よりは丸かじりで食べたくもなるだろう。しかし今体力の無いアッシュには、やる気満々のルークを止められるわけがなかった。
「いいからお前は寝とけって。俺がうさぎさん作ってやるから」
「………」
「あ、そんな目で見るなよ!風邪にはりんごでうさぎさんだって母さん言ってたんだからな!」
最早つっこむ気も失せたアッシュの前で、ルークが勇ましく果物ナイフを構える。その構え方からすでに危なっかしいものであったが、何を言っても無駄だろう。今のアッシュに出来ることといえば、この家のどこに救急箱があったかを思い出す事ぐらいだった。
片手にりんごをしっかると掴んだルークは、そこに果物ナイフを真ん中に添えて、力を入れて一気に真っ二つに切った。横たわっていたアッシュは思わず起き上がった。
「よし成功!」
「成功、じゃねえ、ちゃんとまな板の上で切れ!」
「大丈夫大丈夫、それよりちゃんと寝とけってアッシュ」
ざくりざくりと大胆に切っていくルークに、そのたびにアッシュは反応して飛び起きたり手を伸ばしたり忙しかった。いっそ見えない場所で切ってくれと言いそうになったが、それはそれで姿が見えないことで気になりまくるに違いないので、やっぱりやめておいた。
しかしアッシュの心配をよそに怪我をすることなく何とかりんごを切っていくルークは、とうとう皮をうさぎの耳の形に切りそろえ、ひとつ完成させることが出来たのだった。出来上がった一個を掲げ、満足そうにうなずくルーク。
「出来た……!見ろアッシュ、俺にも出来たぞ!うさぎさん!」
「そうだな……」
アッシュはといえば、心配のしすぎで疲れてぐったりしていた。そんなアッシュを具合が悪いのかなと勘違いしたルークは、さっそく出来上がったうさぎさんりんごを食べさせてやろうと近づけてくる。
「ほいアッシュ、あーん」
「!!」
「どした?早く口開けろよ」
平
然と直接食べさせてこようとするルーク。そういえば、ルーク自身が風邪を引いた時は、アッシュに食べさせてくれとねだってきた。きっとルークの中では風邪
の人間にはそうする事がほとんど義務のようになっているのだろう。驚きと照れで頑なに口を閉じていたアッシュだったが、このままじゃルークは諦めてくれそ
うにないし、実際もう自分で起き上がって食べるのは正直だるい。食べさせてもらうのが一番だろう。
しかしそれでも、アッシュにりんごを食べることを躊躇わせる何かがあった。
「………」
「何だよ、りんごは嫌いじゃないだろ?それともそんなに俺が切ったりんごが食えないのかよ」
「いやそういう訳では……。……食う」
言
えなかった。ルークが自分のために一生懸命に切ってくれた、少しいびつだがきちんと切られているうさぎさんりんごを食べるのが、もったいないと思ってし
まったなどと。言ったら絶対に碌な反応は返ってきやしない。大人しく口を開ければ、ルークがりんごを放り込んでくれた。噛み締めればすぐにりんごの甘酸っ
ぱいさわやかな味が口の中に広がる。
「どうだ?美味いか?」
「……ああ」
「そりゃよかった!まだ切るから、どんどん食えよ!」
うなずいたアッシュにパッと笑顔を見せたルークはさっそく次のうさぎさんを作る作業に取り掛かった。どうしてそこまで必死にりんごを切るのだろうと思っていたアッシュは、らしくもなく顔に出ていたらしい。手元に集中しながらもルークが照れくさそうに話してくれた。
「……だって俺、アッシュみたいにお粥作ったり出来ないし、気の利いたことは思いもつかないし出来ないし。こうやってりんご切ってやる事ぐらいしか出来ないからさ。……それでも不器用だから形が歪だけど」
「ルーク……」
「ごめんなアッシュ、風邪で苦しんでるのに俺、何にもしてやれなくて」
一個一個、ルークなりに一生懸命に切って出来上がっていく不恰好なうさぎさんたち。それしか生み出すことの出来ない自分を歯がゆく思っているようだ。りんごを切り終わって降ろしたルークの手に、アッシュは自分の熱い手で静かに触れた。
「お前が熱で倒れたとき、俺が看病に行ってどう感じた」
「えっ?……えーと」
突然尋ねられて驚いたルークだったが、考えてみた。一人布団に潜り込んでいた時、アッシュが来てくれた時の事を。アッシュの姿を見ただけで、驚くほど安心した事を。
「アッシュが来てくれて……嬉しかった」
「そういう事だ」
「へ?」
「何もしなくてもいい。ただそばに他の誰かの存在があるだけで、人ってのは安心出来るもんなんだよ」
アッシュの言葉に、自然とルークは触れるアッシュの手を握り締めていた。自分を見つめるルークの顔に、アッシュはふっと笑いかける。
「分かったらそこにいろ。……俺は寝る。りんごはその後だ」
それだけ言うと、アッシュはそのまま目を閉じてしまった。本当に一眠りするつもりらしい。しばらくアッシュの様子を見ていたルークがハッと気がついたのは、アッシュが動かなくなってからだった。
「後でって、それじゃりんごが萎びちゃうよ……ってもう遅いか」
ルークの手を握るアッシュの力は緩まない。それだけアッシュがルークを求めてくれている証拠なのだ。頑固でなかなか甘えたがらないアッシュが今、手だけでも全力で甘えてくれているような気がして、何だかこそばゆく感じる。ルークは一人でにやにやと笑った。
「これじゃ動けねーし、りんごにラップもかけらんねーじゃん。……ま、いいか。後でまた新しいの切ればいいし」
これは俺が食べちゃおう、と開いている手でうさぎさんりんごを齧る。爽やかな果肉の味に、握り締めた手と、少しだけ照れたほっぺたの熱が引いていくような気がした。
きみとぼくは同じ熱
09/11/30
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