試験が間近に迫っていたある日の夜。毎日真面目に勉強を行っている優等生なアッシュは、今日も机に向かって試験対策を行っていた。本当はわざわざ試験用に 勉強しなくたってアッシュの頭なら楽に乗り越えられるようなものだったのだが、いつもの癖と、他にやる事も無いという無趣味がアッシュを勉強に駆り立てて いた。最近は夏独特の蒸し暑さも過ぎ去り、涼しげな心地よい風が入り込むようになってきて、実に勉強もはかどるのだった。


「……ん?」


しかし、滅多な事では集中力を乱されないはずのアッシュのペンを走らせる腕がその時、止まった。自分自身に何か異変を感じ取ったのだ。それが何であるか、アッシュはすぐに理解する。


「おかしい……こんな時間に眠気が……」


ペ ンを置き目の上に手を当ててアッシュはいぶかしんだ。今の時間は、いつも寝る時間よりかなり早かった。それなのに急に、眠気がアッシュへと襲い掛かってき たのだ。そもそもアッシュはあまり寝つきが良い方とは言えないので、この眠気は明らかに異常だった。少し考えたアッシュは。


「……まあ、いいか」


勉強を続ける事にした。これしきの眠気、我慢強いアッシュにとって抑え込む事は容易なのである。軽く頭を振ったアッシュは、すぐに再び机へと向かい始めた。
しかしアッシュの手は、何分かも経たないうちにまたしても止まる事となる。この場にそぐわない不可解な音が耳に届いたからだ。


「眠たくなーれ……眠たくなーれ……」
「……ああ?」


1 人っ子で1人部屋なはずの自分の部屋に聞こえた人のような声に、アッシュは辺りを見回した。そうして見つけたのは、自分の傍らに蹲って難しい顔をしながら 念みたいなのを飛ばしているっぽい、小さな赤い髪の子どもだった。どれぐらい小さいかというと、その身長はおよそアッシュが握っているペンほどしかなかっ た。それを発見した瞬間アッシュが固まってしまったのは、言うまでもない。


「うーんおかしいな、こいつなかなか眠らないぞ。眠たくなーれ、眠たく……」
「おい」
「ふえっ?!」


なにやら1人でブツブツ呟くそいつにアッシュが声をかければ、驚きに軽く30cmは飛び上がった。飛び上がったままアッシュの顔の前に浮かび上がったそいつは、最大限に目を見開いてアッシュを見つめてくる。


「えっまさか、俺の事が見えてるのか?」
「残念ながらな」
「はあ?!嘘だー!素直そうな子どもならまだしも、お前みたいなしかめっ面のむっつり男に俺が見えるわけねーよ!」
「誰がむっつりだこのチビ屑がっ!」


アッシュが目の前の小さな頭をわしづかんでグイグイ力を入れてやると、そいつはギャーギャー喚きながら暴れ始めた。ちょっぴり涙目にもなっていた。


「いてーっ!いてえよ!悪かったっ悪かったって!はっ離してくれーっ!」
「ふん」


じ たばた暴れる姿も何となく面白かったが、アッシュは素直に手を離してやった。しばらく頭を抑えてフラフラと空中を彷徨っていたそいつは、ダメージから回復 したのかふわりとアッシュの目の前の机の上に降り立った。そしてアッシュを見上げて、おっかなびっくり自己紹介をしてくる。


「俺は睡魔のルーク。お前は?」
「アッシュ。……待て、睡魔だと?」


うっかり自己紹介を返してから、アッシュは自分の耳を疑った。自分はこんな小さな人間が映りこんでいる目だけではなくて、耳までおかしくなってしまったのか。睡魔と名乗るルークは、アッシュの問いかけに得意げに胸を反らしてみせた。


「そーだ!人間達の背後からこっそりと忍び寄り、魅惑な夢の世界へと旅立たせるのが俺たち睡魔の仕事なんだ!」


変な仕事である。その仕事を行う事によってどんな利益が出るのだろうとか考えているアッシュの目の前で、頼んでもいないのにルークはぺらぺらと説明してくれた。


「特に、締め切りやら何やらで切羽詰ってる人間へゆっくりじっくり眠気を送り込むのが大好物なんだ。あの寝たらいけないのに眠たくて仕方が無いっていうギリギリの顔がそりゃもう良くってさあ」
「ほーう」
「そんなわけで、俺は今日アッシュを眠らせに来た訳だ。さあ眠れ!」


ビシッと指を差されて眠れと言われても、はいそうですかと眠るわけが無い。得意げなルークの表情は、平然と見下ろしてくるアッシュの様子にアレッと困惑の色に彩られる。


「眠たくねーの?」
「そうだな……いつもより多少は眠いかもしれない」
「じゃあ寝ろよ!」
「寝なきゃいけない程ではない」


そう言ってやると、ルークが再び驚きに目を見開く。ふわりと浮かび上がって、アッシュの鼻先に指をつきつけてきた。


「嘘?!マジで?眠たくなんねーの?」
「だから、いつもよりは眠いと言っている」
「いやいやいや、今俺は、お前が今すぐ瞼を閉じたくなるように念じてるんだぞ、それなのに何で寝ないんだよ!」


ルークは小さな手でアッシュの鼻を何度も叩いてきた。そんな事を言われても眠たくないものは眠たくないのだ。指でルークをピンと弾いてみせたアッシュは、ポトンと机の上に落ちるルークを呆れた目で見つめる。


「てめえの力が弱いんじゃねえのか」
「何だと?!こう見えても俺は睡魔界のエースなんだぞ、俺が弱い訳じゃねーっ!」


腕 を振り回すルークを見つめながら、睡魔界とやらを想像してみる。しかしアッシュにはそんなファンタジックな世界の欠片も想像できなくて、早々に諦めた。一 度ため息をついてから邪魔されたせいで脇に置いていたペンを再び手に取り、勉強の続きに取り掛かり始めたアッシュだったが、そんなアッシュに慌てだしたの がルークだった。


「えっちょっと何勉強始めてんだよ!俺のこと無視すんなよ!」
「うるせえ、睡魔の癖しやがって邪魔するな」
「睡魔だから邪魔すんだろ!くそーこうなったら、絶対眠らせてやるっ!」


自 分で自分に気合を入れてみせたルークは、黙々とノートに向かうアッシュの肩に飛び乗ってきた。何をする気なのだろうかと頭の片隅で考えながらも無視し続け るアッシュは、ふいに頬に柔らかくて暖かい何かが触れてきた事に気がついた。頭を動かさずに横目で見てみれば、ルークが一生懸命アッシュの頬に抱きついて いたのだった。


「うーっ!眠れーっ!」
「……何をやっている」
「こうやって身体をくっつければ、眠気がダイレクトに伝わる!はずだからっ」


だ から必死にアッシュにくっついてきているらしい。その今まで味わった事のない奇妙な感覚に、アッシュの手は完全に止まってしまった。ルークの言った通り、 さっきよりも確かな眠気がアッシュにも伝わってきている。しかしそれだけでは、毎日夜更かし気味のアッシュをベッドに向かわせるだけの力ではなかった。
しかし。


「………」
「うおっ?!ななっ何だ?いきなり立ち上がって!」


無言で椅子から立ち上がったアッシュにルークが驚いた声を上げる。未だに頬に引っ付いているルークを掴み上げながら、アッシュはベッドへと移動した。


「寝る」
「え?!あ、じゃあ眠気に耐えられなかったわけだな!俺の力で!」
「ああ、ある意味な」


やっ と自分の力がアッシュにも通用した事に喜びを感じているルークは、アッシュに捕まえられている事に気が向かないようだ。その隙を利用して、傍らにあった紐 をルークの胴体に結びつける。反対側は自分の手首に結びつけた。これで、ルークは紐を解くか切るかしないかぎり逃げられない、はずだ。


「しかし俺は寝つきが悪い、お前が離れたら眠気が失せるかもしれねえな」
「えっマジかよ?じゃあ俺アッシュが寝るまでくっついとく!」
「ついでだ、てめえも寝ろ」
「へ?」


ぷかぷか浮かぶルークを紐で引っ張って、アッシュはベッドに潜り込んだ。引っ張られたのか自主的にか、まだキョトンとしながらもルークもアッシュの肩辺りに落ち着く。


「いや、俺睡魔だから別に寝なくても……」
「てめえが一緒に寝たら眠気が俺に伝わりやすいかもしれないだろう」
「そ、そっか……それは試した事がなかった。そうかもしれないな!」


言 い包めている張本人のアッシュがこいつ大丈夫かなと思うほどの素直さで頷いてみせたルークは、ご機嫌で再びくっついてきた。まあいいか、と電気を消した アッシュは、静かに目を閉じる。傍らのルークを通じて、心地よい眠気が全身を包んでくるようだった。思ったとおりだ、とアッシュは内心ほくそ笑む。

始めに言った通り、アッシュは寝つきが良くない。むしろ悪すぎていつも夜更かししてしまうのだ。お陰で夜やる事が無くて勉強に走っていたとも言える。しかしこの睡魔ルークがいればそんな寝つきの悪さとはおさらばできそうだった。
こんなに気持ちの良い思いでベッドに入ったのは、いつ以来の事であろうか。ゆっくりと夢の世界へ旅立とうとしているアッシュの隣で、睡魔の癖に自らもウトウトしながら、ルークが首を傾げる。


「何か、やっぱり変な気がするんだけど……気のせいか?」


ルークが胴体にまきついている紐のお陰でアッシュから逃げ出せなくなっている事に気づくのは、この後朝までぐっすり眠り、朝日とともに起き出してからの事であった。





   俺専用睡魔

09/10/12