ルークはまあるい耳と細長い尻尾を持つ赤毛のネズミである。とあるお屋敷の壁と壁の間に住処を持ち、1人で勝手気ままに暮らしていた。この大きなお屋敷は小さなルークにとってとても広大な世界だったし、食べ物は「キッチン」という部屋に毎日たんまりと保管されているので飢える事なんて滅多に無い、ルークは今の暮らしをとても気に入っていたのだった。
ただひとつの、危険な生き物を除いて。

今日もルークはお屋敷のメイドさんたちが忙しそうに働き始める音で目を覚ました。パタパタと廊下や部屋を小走りで駆けるその足音は、ルークにとって便利な目覚まし時計のようなものだ。ぐんと大きく伸びをしてから暖かな寝床を抜け出したルークは、しきりに再び閉じようとする目をごしごし擦りながら何とか水場へ辿り着いた。ポタリポタリと雫をたらすこの頭上を走るパイプは、庭に設置されている蛇口に繋がっているものだった。ある時ヒビが入ってこんな風に僅かな水滴を零すようになったので、ありがたく使わせてもらっている。冷たい水を顔に浴びせパッチリ目を覚ましたルークは、軽く運動をしながら外へと出た。
外の壁と中の壁の間に作られたルークの住処にはお屋敷の中庭に続く入口と、今は使われていない数ある部屋の中の比較的狭いひとつに続く入口と、二つの入口がある。ルークは清らな固いように照らされ並んで植えられた花々が輝く美しい中庭に進み出て、さっそく朝食を求めて歩き出した。こうやってルークの一日は、大体同じように始まるのだ。

程よくお腹を満たしたルークは、今度はお屋敷の中へと続く入口からそっと顔を覗かせた。今度は昼食、あと夕食、頑張れば明日、その次の日までの食料を調達するために動き出したのだ。つまり、ルークが一生かかっても食べきれないような食物がたっぷり置いてある「キッチン」への侵入である。たまに庭師のおじいさんに見つかりそうになるぐらいの静かな中庭とは違って、お屋敷の中はたくさんの人間が行き交っている危険な場所だ。人間はどうもネズミを見ると大抵駆除したくなるものらしい。少しばかり食べ物を貰っているだけじゃないか、ケチな生き物だと常々ルークは思っている。
捕まればどんな事をされるか分からない恐ろしい人間も、しかし動きが素早いルークにとっては敵ではなかった。ルークの本当に敵は、他にいた。そろりと住処を抜け出して無人の部屋を脱出し、キッチンへ向けて出発したルークは、さっそくその宿敵と出会うこととなる。

敵は途中の大きな部屋、足をとられそうなふかふかの絨毯が敷き詰められたその上に丸くなっていた。ぱたり、ぱたりと綺麗な赤い尻尾が機嫌良さそうに動いているのを眺めて、ルークは少しばかりほっとした。機嫌が悪い時に出くわすと本当に大変な目に合うのだ。経験済みだった。耳もピクピクと小刻みに動いている、今日はついているぞと内心ガッツポーズだ。
だがそれは出会ってからの話だ。一番いいのは気づかれること無くこの部屋を通り過ぎることなのだから。ルークは決して音を鳴らさぬように静かに歩き出した。敵は背中を向けている。通り過ぎるのならば今だ。
しかし先ほど言ったように、足元はルークにとっては邪魔臭いほどのふっかふかの絨毯である。大きな人間には大したことはないのだろう、このお屋敷にはいたるところにこの絨毯が罠のように敷かれてある。大体よく使っている豪華な部屋に多い。キッチンには幸い敷かれてはいないが、一面絨毯の罠であるこの部屋を通らないと食物の楽園には辿り着けないのだ。そんな魔の区域を半分ほど過ぎた頃、あんなに注意しながら歩いていたというのに、ルークはうっかり足をとられてしまった。


「ちゅっ!」


思わず声を上げて地面に転がる。転がった先も変わらずふかふかだったので怪我をすることは無かったが、ぱたぱたと動いていた尻尾が動きを止めた。そうして、ギラリと光る緑の瞳がルークへと向けられる。


「……ほう、この俺に断り無く部屋を横切ろうとしていたのか、屑ネズミが」


恐ろしい笑顔を浮かべた敵は丸まっていた体をむくりと立ち上がらせた。ルークより数倍でかい体がゆっくりと近づいてくる。尖がった耳、長い尻尾、それは猫だった。ネズミの天敵である。彼は名をアッシュと言って、このお屋敷に飼われているのだ。


「う、うるせえ!お前こそいつもいつも俺の事追っかけ回しやがって!邪魔すんなよ!」


慌てて起き上がったルークは憎まれ口を叩きながらも後ずさっていた。アッシュは猫なだけあって人間よりはるかに素早い。しかもしつこい。捕まれば散々おもちゃにされる。食べられる心配はどうやら(猫なのに)無いようなのでそれだけは安心だが、何度か捕まってしまったルークはもう二度と捕まってたまるかと決意するほど弄ばれてしまうのだ。体の小さなネズミが猫の遊び道具にされてしまえば身が持たないのだ。だからなのだ。
アッシュは脅すように手から爪を出してにやりと笑った。あれに引っかかれたらひとたまりも無い。まだ引っかかれた事は無いが押し迫ってくる恐怖にごくりと喉を鳴らす。アッシュの長い尻尾がぱたりと床を打った。それが合図だった。
アッシュが飛びかかる、と同時にルークも走り出していた。すぐ後ろにアッシュの両手が振り下ろされる気配を感じる。絨毯のうっとおしい毛を掻き分けながら必死に走った。
素早さでは誰にも負けない自信があるルークであるが、体の大きさが段違いのアッシュが相手ではリーチの差ですぐに追いつかれてしまう。だから捕まらないようにあっちこっちウロチョロしながら逃げるしかないのである。毛の長い絨毯の上だと効果は抜群だ。しかしそこから外に出てしまっては少々難しい事になる。姿が丸見えだからだ。


「やばっ!」


駆けている途中とっさに絨毯から飛び出してしまったルーク。ハッと後ろを振り返れば、にやりと笑うアッシュの顔と、振りかざされる腕が見えた。押さえ込まれれば最後だ。思わず傍にあったテーブルの足へと飛びついて、何とか上へと登ってみせる。


「ちっ、ちょこまかと逃げやがって、屑が」
「逃げるに決まってんだろ!お前が追っかけてくるから!」


テーブルの上にあった花瓶の裏に隠れている間にアッシュも身軽な動きであっさりと登ってきた。しかし、そこからルークに飛びかかろうとはせず、様子を伺うように座り込む。今にも飛び出してきそうなぐらい尻尾をパッタパッタと動かしているが、それでもその場から動こうとはしなかった。その訳はルークが隠れている花瓶にあった。
この花瓶を襲い掛かった拍子に倒しでもすれば、いくらお屋敷で可愛がられている飼い猫という立場でもメイドや主人にしこたま怒られてしまうのだ。それをアッシュも、ルークも経験上よく知っている。その上で花瓶に隠れながらそっと顔を覗かせるルークと、すぐに飛びかかることが出来ないジレンマでイライラしてきたアッシュの目が正面から合う。


「……なあ」


声を上げたのはルークだった。以前から度々疑問に思っていたことを、今の硬直状態を利用して口に出してみようと思ったのだ。答えを得る事が出来れば上出来だ。アッシュはピリピリしながらもルークの話を聞いてくれているようだった。


「ちょっと聞いてもいいか?」
「何だ」


耳をピクピクさせながらアッシュが目を細める。ビクつきながらも質問の許可を貰ったルークは、体半分花瓶から出して、思い切って尋ねた。


「何でお前、俺の事追いかけてくるんだ?いつもいつもしつこいぐらい。別にお前の食い物とってるわけじゃないだろ」


ルークの言葉に、アッシュの尻尾の動きが止まった。あまりにも不自然な止まり方だったのでルークは思わずとっさに身構えていた。怒らせたと思ったのだ。
尋ねていながら、ルークは答えを予想もしていた。小さなものがちょろちょろ逃げるのを追いかけるのは猫の抗い難い習性なのだ、これは仕方が無い事なのだ、とでも言うのだろうと思っているのだった。実際ルークにはそれぐらいしかアッシュがこんなにも執拗に追いかけてくる理由が思い当たらない。昼寝の邪魔をした事も(うっかりやっちゃった事はあるけどわざとでは)無いし、好物を横から掻っ攫った事も(アッシュがチーズが好きではなければ)無い。動きを止めたアッシュの顔を恐ろしくて見ることが出来ずに俯いたまま、ルークはひたすら答えを待った。


「……何故、だと……?」


そうして出てきたアッシュの言葉はいささか呆然としたものだった。おやっと思ったルークがそっと顔を上げてみると、そこには予想もしていなかった表情があった。
あのアッシュが、赤面している。


「……アッシュ?」
「く……屑がっ!別にこの屋敷にきてから初めてお前を見たその時から小っこくてちょこちょこしててつぶらな瞳で丸っこい耳で可愛いなとか一目惚れして追っかけてる訳じゃねえんだからな!」
「は?!」
「つまりあれだ、あれ……猫、猫の習性だ!構い倒したいから捕まえようとしているとかそんな事では全く無い!小さなものがちょろちょろしてると目障りだから体が勝手に動くだけだ!そこの所勘違いするな!」


落ち着き無く振り回されていた尻尾がバシンとテーブルの上にたたきつけられる。同時に言い聞かせるように指を差してきたアッシュを、ルークは呆然としながら眺めていた。しばらく射殺さんとばかりに睨みつけてきたアッシュも、だんだんとさらに恥ずかしくなってきたのか赤面に拍車が掛かってくる。
つまりこれは、あれか。あれなのか。ルークはようやく動き出した頭から、一つの答えを導き出した。


「俺、今、告白されたのか?」


ネズミが、猫に。

ツンデレ告白の代表的言葉を並べ立てられた結果の答えだった、無理も無い。ビックと耳を立てたアッシュはこれ以上無いぐらい真っ赤になりながら、とうとう我慢できなくなって飛び上がった。


「ち、違うって言ってるだろうが屑がーっ!」
「うぎゃーっ!」


ルークが慌てて飛びのいた場所にアッシュが着地する。そこにあった花瓶はもちろんアッシュの勢いに呆気なくテーブル下に落下し、派手な音を立てて割れてしまった。しかし頭に血がのぼった今のアッシュにその音が聞こえているはずも無く、テーブルから飛び降りようとしているルークへと躍りかかる。それをかわすために空中へ飛び出しながら、ルークの頭の中には再び疑問が沸き起こっていた。
今度はアッシュにではなく、自分自身への問いである。


「そういえば何で俺は、いつもアッシュに追いかけられてるんだ……?」


食べ物のたくさんあるキッチンへ行く道は一つではない。行こうと思えば人気の少ない中庭からぐるりと迂回すればいいし、天井裏を安全に移動すればすぐに着く。いざとなればキッチンに住処を移動させてしまってもまったく問題はなかったのだ。
それなのに、わざわざアッシュのいる部屋の中を移動し、見つかり、こうやって追いかけられている自分は。


「……っ!」


自然と沸き起こった答えをボンッと顔を赤くしながら空中に霧散させ、ルークは床に着地した。すぐ後ろに迫る大きな気配を感じながら、とりあえず逃げるためにルークは走る。その辺にある壁の隙間に逃げ込めばアッシュは追いかけてこられない事を知りながら、真っ直ぐ伸びる廊下へと駆け出した。
それが、答えだった。





   仲良く喧嘩しな!

09/01/25