ある凍えるような寒い日に突然、屋敷からルークが姿を消した。「ちょっと旅に出ます心配しないで下さい」とだけ書かれたメモを残して。屋敷内はおかげで偶然それを一番に発見してしまったガイが発狂してどこかへ飛び出そうとしてすぐに白光騎士団に捕まって引き摺り戻されたり、公爵が白光騎士団に加えて陛下に兵士を借りてさっそくルーク捜索隊を結成しようとするのをメイドが必死に止めたりで大騒ぎだった。
そんな中、一人ゆっくりとため息をついて、人知れず出かける準備を始めたのはアッシュである。騒動の影に紛れて準備を済ますと、静かに玄関へと足を運ぶ。そのまま外へと出ようとしたアッシュは、しかし手前に微笑みながら佇む母親を見つけて足を止めた。


「ルークを探しに行くのですね、アッシュ」
「はい、すぐに戻ります」


だから心配しないで下さい、という言葉を飲み込んで、アッシュは少々意外そうにシュザンヌを見つめた。こういう時一番心配して取り乱したり倒れたりしてしまいそうな儚い印象を持つ目の前の人物が、まったく平常どおりでニコニコと笑っているからだ。少しも心配そうじゃないその様子に、さすがのアッシュも不思議に思ったのだった。
息子の表情を正確に読み取ったシュザンヌは、口元に手を当てながらおかしそうに笑った。


「大丈夫、ルークはきっと無事です。それが分かっているから、心配はしませんよ」


だって、と、母は慈愛に満ちた瞳でアッシュを見つめた。


「あなたが取り乱していないのだから」


誰よりも深い繋がりを持つ二人には互いの半身に何かが起こった時はすぐに分かってしまう。その事をシュザンヌは知っていた。そしてもしルークの身に危険が迫っていれば、アッシュがこんなに平常心を保ってはいられないだろうという事も。見抜かれたアッシュは罰の悪そうな顔で視線を逸らすと、ではいってまいりますとボソボソ呟いてからまるで逃げるようにシュザンヌの横を通り過ぎて、外へと消えていった。その後姿をシュザンヌは微笑ましそうに笑いながら、静かに見送った。





「あの、本当にいいんですか?何ならおいら、帰ってみえるまで待ってますけど」
「いい。宴会の途中に二回も往復させられて、お前も疲れてるだろうが」
「いやあ、おいらちょうどお酒も飲んでませんでしたし、一回目はノエルと交代で操縦しましたから」
「……どうせ帰りは遅くなる。明日ゆっくり自分の足で帰るから、心配すんじゃねえよ」


必死に言い募るギンジを何とか追い払い、アルビオールが無事に飛び立つのを見送ると、アッシュは前方へと向き直った。時刻は日が沈んで何時間も経った頃。場所は闇夜に白く輝きわたるセレニアの花が咲き誇る、タタル渓谷だ。この花、この場所にはアッシュも思い入れがあるが、彼にとっては倍以上のものがあるのだろう。アッシュが目を細める中こちらに背を向けじっと白い花びらに埋もれるように座り込んでいる、彼にとっては。
アッシュがゆっくりと近づいていけば、こちらにはまったく気がついていないのか、ぴくりとも反応しなかった。白い息を吐き出しながら、何かに魅入られたようにずっと目の前に広がる光景を見つめている。ここから見えるのは、崩壊したホドのレプリカの残骸と、その向こうに見える黒く塗りつぶされた海だけだ。一体何に魅入られているのかほんの少しだけ興味はあったが、アッシュはそれよりも、自分に黙ってこんな所で一人座り込んで尚もこちらを見ようとはしない片割れが許せなかった。
だから、まだちょっとだけ舌に馴染まない、特別な響きを持つ名前を呼んでやる。


「ルーク」


すると最早アッシュの目前にある肩が面白いぐらいビクリと跳ねて、パッとルークが振り返ってきた。その闇の中でも光る緑の瞳が、驚きに丸くなっている。


「アッシュ?!何でこんな所に」
「その言葉はそっくりそのままてめえに返してやるこの屑が!」
「っだー!いきなり殴るなよー!」


座り込むルークの頭に拳を叩き込んでやれば、抗議の悲鳴が上がった。しかしアッシュはまだ満足しなかった。


「どうして俺に黙って一人でこんな所にきやがった」
「う……」
「答えろ、屑」
「屑って言うなよ」


弱々しく睨みつけてくるルークに、アッシュはそれ以上の眼光で睨みつけてやった。本当に怒っていたのだ。何も言わずに出て行ったルークに。一人になろうとするルークに。その思いが伝わったのだろう、腰を引かせながらも睨みつけてきていた瞳から力が無くなり、何とも情けない表情へと変わった。


「そんなに、怒るなよ」
「怒らせるようなことをてめえがしたからだろうが」
「別に怒らせようとした訳じゃねえし。ただ、俺は……」


ルークは逃げるように視線を逸らした後、また前へと顔を戻した。凍えそうな冷たい空気の中、目の前の景色は音も無くそこに佇んでいる。


「今日、ここにいたかっただけだ」


その表情には、アッシュがいくら怒っても呆れたとしてもここからは絶対に動かないぞという決意がしっかりと現れていて、アッシュはこれ見よがしに深く深くため息をついてみせた。膝を抱えるルークの手にぎゅっと力が込められる。それを横目に見ながら、わざわざ持ってきた分厚いコートを朱色のど頭に被せて自らもその隣にドッカリと座り込んだ。
コートの隙間から心底驚いたような視線が向けられている事を感じながら、アッシュは再び大きなため息を吐いた。白い息が目の前に広がって、そしてすぐに空中へと消えていく。


「おい屑、後でこの責任はきちんと取りやがれ。今年こそは暖かい場所で迎えられると思っていたのにこんな所まで付き合わせやがって」


アッシュの愚痴はブツブツと続く。それをコートを肩に引っ掛けながら聞いていたルークは、別に付き合えと言った覚えは無いとか、だったら先に帰ればいいとか、そんな無粋な事は言わなかった。昔の自分だったら、いつものふざけた調子だったらそうやって反論していたかもしれないが、今のルークは俯いて表情を見られないように必死に隠す事しか出来ない。
どうして俺に黙って一人でこんな所にきやがった。アッシュはそう言った。それはアッシュに黙って、一人でこの場所に来た事に怒っていて、皆がお祝いしている今日のこの日にこんな寒い中無意味にこんな所に座り込んでいる事に怒っている訳ではなかった、のだろうか。
では、事前に今日ここに来る事をアッシュに話していれば。
そうして、一緒に来ないかと誘っていれば。
アッシュは、ついてきてくれたのだろうか。

問うようにこっそりとアッシュを見れば、何を今更と言った目で返された。ルークはそれだけで胸が一杯になって、また俯いてしまう。当たり前のように隣に寄り添ってくれる事が何よりも嬉しい事を、済ました顔で前を見ているこの半身は分かっているのだろうか。


「……前も、寒い中迎えたのか?神託の盾騎士団にいた頃とか」
「大体が任務中だった。運悪くな」
「そっか」
「一年前はドタバタしていて思い出せない」
「ああ、確かに。帰って来たばっかりだったからな」


2人でポツポツと話しながら時間が経過するのを待つ。
2人が1人の「ルーク」としてでなく、ちゃんとアッシュとルークとしてこの世界に帰ってこれてから一年とちょっとが経っていた。今は落ち着いているが、帰って来たすぐの頃の周りはものすごい騒動だった。そのせいで一年前の今日の事は良く覚えていない。みんなでドンチャン騒ぎをしたような気もするが、今の穏やかな心の中に浮かんでは来なかった。
大好きな家族と、仲間たちで騒ぐのは、とても楽しい。しかし今こうして2人だけで他愛もない話をしながら並んで座るこの時間も、とても大切なものだと思う。

ふと、ルークが懐から懐中時計を取り出した。短い針と長い針が、真上を向いたまま重なろうとしている。


「外がこんなに寒いというのを知っているのに何も準備をせずに飛び出しておきながら、それはちゃっかりと準備をしていやがったのか」
「う、うるさいっこれがなきゃ時間わかんねえだろ。それより、もうすぐだぞ」
「そうか」
「なあ、どうやって迎える?ジャンプでもしてみるか?時間ちょうどに拍手するとか……あ?」


ワクワクと指を折って提案していくルークの言葉がその時途切れた。目の前を何か白いものがちらついたからだ。最初、それはあたりに咲き乱れるセレニアの花びらかと思った。しかし風も吹いていない中花びらが巻き上がることは無いだろう。疑問に思っている間にも頭上からちらちらと小さな白いものが降ってくる。辺りをキョロキョロ見回すルークに、アッシュが苦笑しながら真上を指し示した。


「馬鹿が。空だ」
「え?」


首を上げる鼻先にちょこんと乗ってきたのは、雪であった。目を見開くルークの視界一杯に、ゆっくりと降ってくる粉雪が広がった。


「雪だ……!すっげえ!」


思わず立ち上がったルークは天へと両手を広げた。手の平を上へ向ければ、その上に落ちてきた雪が瞬時に消えていく。決して捕まえる事のできない雪たちを、しかしルークは楽しそうに手の平に乗せていく。そんな無邪気な様子を無意識に微笑みながら眺めていたアッシュも、ゆっくりと立ち上がった。
ルークが取り落とした時計を拾い上げると、長針と短針がもう少しで重なるところだった。秒針がカチカチと音を立てて12を目指す。それを確認してから、アッシュは笑顔でまだ頭上を振り仰いでいるルークへ向き直った。


「おい」
「ん?」


声をかけられてルークが振り返ると、目の前に自分を見つめるアッシュの顔があった。あれ、と思っている間に自分と同じ色の綺麗な翡翠色の瞳が視界一杯に広がって、そして。
時計の針がカチリと音を立てて。


重なった。



「……〜〜っ!!」
「あけましておめでとう、ルーク」


ルークがカチンコチンに固まっている間にサラッとアッシュが笑った。普段はほとんど笑わないくせにこういう時にだけピンポイントで笑顔を見せつけやがってくれるのだ。口をパクパク開け閉めして、目をウロウロ泳がせて、真っ赤な頬をペシペシ叩いて、ルークはギブアップするようにコテンとアッシュの肩にもたれかかった。勝ち誇ったように頭を軽くはたいてやると、ううーっと篭った唸り声が聞こえる。


「反則だ……こんな年越しありかよ……」
「何だ、唇だけじゃ不満だったのか」
「バッカ!お前バッカ!そうじゃなくて……あーっもういいっ!」
「おい屑」
「屑じゃねえ……なんだよ」
「まだ聞いてないぞ」


そろそろと顔を上げると、じっとこちらを見つめる瞳があった。待っている。挨拶をされたらちゃんと返さなければならない。ルークは色々なものを諦めて、目の前の半身の体を思いっきり抱き締めた。


「あけましておめでとうアッシュ!」
「ああ」
「今年もこれからもずっとずっと、ずーっとよろしく!」
「当たり前だ」


白い花咲き誇る大地の上、白い雪舞い散る渓谷の間で、白い息を吐き出しながら2人は笑い合った。
やがて今年一番に顔を出す朝日が、辺りを白く照らし出すのだろう。
それまでは誰にも邪魔されない、2人だけの時間だった。




   White New Year's !

07/12/31