幼い頃から自分は独りだという意識が心のどこかにあった。
健康診断という名目で辛いだけでしかない数々の実験を受けさせられていたからかもしれないが、それを意識したきっかけは別な事であった。
といっても、特に何があったわけでもない。いつもと変わらぬ日常に、ふと、疑問が生じたのだった。
第7音素の意識集合体、ローレライと同じ固有振動数を持つ、世界に1人しか存在しない己という存在。単独で超振動を起こせる、唯一の人間。面と向かって言われた事は無いが、検査(実験)後意識が朦朧としている間、周りの大人たちが何度も口にしていた真実。それが自分という存在だった。
他の人間とは、違う存在なのだ。
気付けば、他人と己の間に一線を引いている自分がいた。自分は特別な存在なのだ。悪い意味で。己は真に孤独なのだ。誰にも理解されることなどないのだ。
そんなささくれ立った心を僅かでも癒してくれたのは幼馴染の少女、愛情を注ぎ込んでくれる母上、気さくに話しかけてくれる使用人兼親友、そして師として慕うあの人だけだった。心にあいた決定的な穴は埋まる事はなかったが、それでも毎日が満たされていた。
師に連れられて家を出る、あの瞬間までは。
ルークは呆然と立ち尽くしていた。目の前にいる存在が、信じられなかった。まっさらな瞳でただこちらを見つめてくる、自分と同じ顔の存在。
自由になりたいと願った自分を連れ出した師匠が作った存在だった。しかしルークはこんな事聞いていなかった。自分の代わりに、こいつがあの暖かい家に帰されるなんて!
「これはお前のレプリカだ」
後ろに立った師匠が言った。レプリカ。複製品。作られた存在。自分と、同じ。もう1人のルーク。
頭の中はぐるぐると渦巻いて混沌として、口からは何も言葉が出なかった。僅かに開けた隙間からかすかな空気が漏れただけ。ため息にもならない。動かないルークを笑いながら見ていたヴァンは、やがてその頭に撫でるように手を乗せると、踵を返して部屋から出て行った。
「もうすぐダアトに出発する。それまで目に焼き付けておきなさい。これからお前の居場所に帰る、『ルーク・フォン・ファブレ』を」
後から思えばきっとこの時師匠は、ルークがこのレプリカをちゃんと憎むように時間をくれたのだ。確かにヴァンが去って目の前のレプリカと2人きりになったルークは、次の瞬間己の胸の中にカッと熱が集まるのを感じた。それは激情だった。怒りだった。激しい憎しみだった。思わず眩暈がしたほどだった。
こいつが自分から全てを奪うのだ。
そう、全て!
ルークの全てを奪うのだ!
こいつが!
ただの作られた人間もどきのレプリカが!
あまりの感情の激しさにルークが動けずに震えていると、その耳に間抜けた声が聞こえた。それは確かに自分の声だったが、自分の声ではなかった。ああ声まで奪われてしまったのか、ルークはさらに憎しみに彩られる。
目の前の存在が何事か呟きながらもぞもぞと移動している。否、作られたばかりのこのレプリカは赤子同然だ、言葉をまだ持たないのだからただ口から声が漏れているだけであろう。一体何をやらかすのだ。ルークはレプリカの動きに釘付けになった。
それは非常に緩慢な動作であった。歩く事さえ知らないのだ。今なら何の苦も無く殺せるのだろうとルークはぼんやり思う。もしこの手に刃物を持っていたならば、とっさに突き立てていたかもしれない。それが少し、残念でならなかった。
「あー」
気が付けばレプリカは目の前にいた。ルークは思わず半歩下がる。ここまで這ってきたのだろう、うつぶせの姿勢のまま顔を上げ、翡翠の瞳がルークを見つめる。朱色の髪がさらりと床に滑り落ちた。少し自分より薄いか。真っ白になった頭の中でかすかにそう思った。次の瞬間。
目の前に、手が差し伸ばされていた。
「……な、何を……」
うめいて、しかし次の言葉が出ない。ルークは目を見開いて、伸ばされた手を見つめた。こちらに向かって開くその手は、何かを求めていた。まるでおびえるようにかすかに震えるその手をルークは知っていた。まだ小さい頃、真っ暗な闇の中1人で立ち尽くし、自分の他に誰もいない世界に涙した夢の後。無意識のうちに虚空に伸ばされていたその手に重なった。
あの時の自分も左ききだったか。
それを自覚した途端、ルークの中に先ほどとは違う熱がどっと流れ込んできた。
それは憎しみとは違う熱だった。怒りと似ていたがそれでもなかった。それは初めてルークの中に存在する熱だった。他人と自分の間に引いていた線を軽々と飛び越えて、今まさにルークの全身を包んでいたのだった。
そっと右手を差し出すと、伸ばされていた左手にぴたりと重ねた。まるで最初からこうやって重ねるためだけにこの手が生まれてきたかのようだった。
指先から温かな体温を感じた瞬間、ルークはボロボロと涙を零していた。
これは自分だ。
これはルークだ!
心が歓喜していた。しかし幼いルークにはまだそれが分からない。それでも、ずっと探していたものが今目の前にあること、それだけは分かった。
今この瞬間、世界にどうしても独りきりだったルークが、2人いるのだ。
自分はルークだ。目の前のそれもルークだ。『ルーク・フォン・ファブレ』は1人であったが、『ルーク』は今2人いるのだ。目の前にいるのだ!
「……うー」
重ねた手の反対側からもう一方の手が伸ばされた。その手は涙に濡れるルークの頬にぺたりとくっつく。ルークが目の前の顔を見ると、その顔も泣いていたのでびっくりした。
「何でお前まで泣くんだ……」
呟いてから、こいつもルークだからかと納得した。ルークが2人いる。その事にルークたちは涙を流しているのだ。
頬に触れる手を握りこんで、ルークは目の前で涙に濡れる瞳に唇を寄せた。しょっぱかった、当たり前か。すると向こうも自分のまねをしてくるので、ルークはくすぐったそうに目を細めた。
やがて足音が響いてきたのでルークははっと気が付いた。時間だった。ルークと別れる時間だった。
名残惜しそうにぎゅうと両手を握るルークに、キョトンとした瞳が向けられる。それに微笑みかけたルークは、少々抑えた声で、しかしはっきりと告げた。
「『ルーク・フォン・ファブレ』はお前に預ける」
『ルーク』として2人で立つには、お互いにまだ小さすぎた。共に生きる事さえ叶わない。それでもルークは、未来に目を向けて、笑った。
「お前はそこで生きろ。いつか、2人で立てるまで」
強くなろう。この何も知らない真っ白な『ルーク』の分も支えられるように、もっともっと。
『ルーク』という1つの陽だまりに、2人で生きるために。
繋がれた手がするりと離れた。もう一度だけ己と同じ色の瞳を見つめてから、ルークは踵を返した。
もう振り返らなかった。
朽ち果てた城から出ると共に、泣き声が響いてきた。その引き止めるような泣き声に僅かに顔をしかめさせる。
泣くんじゃねえよ。またいつか迎えに来るから。
約束するから。
この日、世界に2つの産声が上がった。
『ルーク』の誕生であった。
ふたりの始まり
06/07/09
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