ルークは外を見ていた。正確に言えば、雨に濡れて薄暗い外ではなく雨粒が叩きつけられている窓を見ていた。パタパタと波紋の広がる窓をボーっと眺めていると、それだけで眠たくなってくる。一回カクンと頭の傾いだルークはハッと目を見開いた。眠気を追い出すように軽く頭を振ると、そっと室内の様子を伺う。
ルークが今いるのは自室のソファの上だった。さらに正確に言えば、自室のソファの上に座って静かに本を読んでいるアッシュの上だった。つまり膝の上に乗せられているという訳だった。最初は恥ずかしかったが今となっては何とも感じない。むしろ触れ合う部分から伝わってくる体温が心地良い位だ。この部屋に自分達二人だけしかいないからこそ出来る触れ合いだった。
じっと本のページに視線を落としゆっくり文章をなぞっている瞳を見つめながら、暇を持て余したルークはこの状態となった今までの経緯について思考を飛ばしてみる事にした。



そう、最初ルークは外にいたのだった。剣の稽古がてら中庭の花壇をいじっているうちに、ついついのめりこんでしまった。そうして気がついたときには空は真っ黒な雲に覆われて、ぽつぽつと雫が落ちてきている状態だった。時期に本格的に降り出すだろう天気だった。
その時点で部屋へと戻ればよかったのだが、ルークは何故だか戻る気がしなかった。空から降ってくる雨が存外気持ち良かったからかもしれない。雨の感触が今となっては懐かしい旅をしていた頃を思い出させてくれたからかもしれない。とにかくルークはこの雨を避ける事が出来なくて、しばらくぽかんと空を見つめたまま立ち尽くしていた。メイドや見回りの兵が通りすがれば直ちに呼び止められたのだろうが、たまたまその時は他に誰も中庭に寄ってこなかった。やはり降り出し始めた雨がカーテンとなって辺りを包み、まるでこの世に自分一人だけが存在しているかのような錯覚さえ起こさせる。しかしそんな事は有り得ない事をルークは知っていた。例え世界が滅びようとも、己の隣には半身が立っているのだから。


「おい!何をしている!」


紛い物の一人きりの世界に亀裂が走った。雨色のカーテンを突き抜けてきた腕がすっかり濡れたルークの肩を痛いぐらいの力で掴んできたのだ。はっと振り返ったそこには、怒りを剥き出しにしたアッシュの顔があったのでルークは驚いた。まるで自分の心の中を読んでいたかのようなタイミングでの登場だった。


「あ、アッシュお帰りー。視察どうだった?」
「うるせえ俺の質問に答えろ!お前はこんな所で何してやがるんだ!」


アッシュがかなり怒っている事を察してルークは内心首をかしげた。どうしてアッシュがこんなに怒っているのか分からなかったからだ。アッシュはルークの頭の先からつま先まで眺めてから、いつもの何倍も眉間に皺を寄せてみせた。アッシュが本当に怒っている証拠だ。


「えーっと……稽古や土いじりしてたらいつの間にか雨が降り出して、気持ちいいなーとか思ってた所だけど」
「貴様は雨に打たれすぎて脳みそにまでカビでも生やしてるのかこの屑が!」
「なっ何だと?!」


これ以上アッシュを苛立たせないようになるべく余計な事は言わないようにしていたルークだったがさすがにカビが生えているとか言われてしまえば怒りもする。思わず声を上げたところで、しかしルークは先を続ける事ができなかった。強く腕を引かれたかと思えば、そのままアッシュに引き摺られてしまったからだ。慌てて足を動かしている間に、アッシュの怒鳴り声が頭の奥まで響いた。


「風邪でも引いたらどうするんだ!」


その声にアッシュが怒っている理由を悟ったルークは、しばらく思考が停止してしまった。はっと気がついたときにはもう二人で共同に使っている自室で、タオルを引っつかんでこちらに戻ってくるアッシュに頬が赤らんでいる事を隠すのが大変だった。
まだ慣れないのだ。だって、世界を旅していた頃は互いに一杯一杯で、特にアッシュなんかルークを憎みこそすれ心配するなどといった事は皆無だったから。喜ばしい事に変わりは無いがやはり戸惑いも大きい。

こうやって無事に二人で戻ってくる事が出来てからアッシュは何かと優しい。怒鳴ったり罵ったりするのは変わらないが、わざわざ雨に濡れるルークの風邪を心配しこうやって頭を拭いてくれたりする。いつだったか勇気を出してその理由を尋ねてみたら「音譜帯で悟りを開いた」と答えられた。音譜帯での記憶がルークには無かったが(アッシュ曰く呑気に寝こけていたらしい)アッシュは地上に戻るまでの間ずっと色んな事を考え込んでいたようだった。その結果がこの妙に優しい手だ。力強く、しかし限りなく優しく頭の水分を拭き取ってくれる体温を感じながら、ルークはむず痒く感じた。やっぱり慣れない。

それでも、嬉しい。


「出来たぞ」
「あ、ありがとう」


タオルを退けてから、アッシュはじっとルークを見つめた。内心ドキドキして仕方が無いルークは、さらに手を頬に触れられて心臓を跳ね上がらせた。しかしそんなルークに気がついていないのかあえて無視をしているのか、変わらない表情でアッシュが呟く。


「冷たいな……」
「へ?あ、雨に濡れたからな」


何を考えているのか分からない顔を見返していると、ふいにアッシュが動いた。まっすぐに部屋の中へ歩いていったかと思えば、そこにあったふかふかのソファに腰を下ろし、ルークに手招きする。何?と無言で首をかしげて見せれば、アッシュは一言だけ言った。


「来い」


そして冒頭の状態に戻る。



(あの過程で何故俺は膝の上に乗せられているのだろう)


遠くに聞こえる雨の音を聞きながらルークはぼんやり考えた。さっぱり分からない。ルークを自分の膝の上に乗せたアッシュはポカンとしている間にその手に難しそうな本を持って読み出してしまったのだ。何となく声をかけ辛くて、今に至る。この状態が案外心地良いせいもあるのだろうが。
でもやっぱり気になるので、ルークはそっと振り返って声を上げた。意外と近いところに顔があってびっくりしたのは秘密だ。


「なあアッシュ」
「何だ」


返事を返してくれたことにほっとして(たまにのめりこみ過ぎるとアッシュは返事も返さないことがある)思い切って尋ねてみる。


「どうして俺アッシュの膝の上なんだ?」


するとアッシュは何を今更という呆れた顔で答えた。


「てめえが冷たかったから、温めてるんだろうが」


こうやって密着していれば温かいだろう。そう言って腰にぎゅっと腕を回してきたアッシュにルークはなるほどと頷いた。確かに今の状態はすごく温かい。体だけでなくて、何故か心の奥底までぬくもりに包まれている心地だ。何か可笑しいような気もしたが、とりあえずルークは納得する事にした。それより腰を取られて余計にアッシュにもたれ掛かる事となったので、心臓がドキドキうるさくて仕方が無い。聞こえていたりはしないだろうか。


「なーアッシュ、でも俺ものすげえ暇なんだけど」
「音読でもしてやろうか」
「や、されても内容さっぱり分かんねえし」
「うるせえ、いいから黙って俺の傍にいろ」
「……はい」


頭ごなしに言われ、しかし優しく頭を撫ぜられ、ルークは頷くしかなかった。
あんなに気持ちの良かった冷たい雨も、今となっては遠い世界の出来事のようだった。それは何故かと考えて、ルークはすぐに答えを見つけ出した。
雨の国には、アッシュがいなかったからだ。





   さようなら雨の国

07/07/14