隣に立つあいつが不意にため息をつくので、俺は何故ため息をつくのか聞いてみたくなった。それは突然自分の胸に湧き上がってきた疑問であった。何故こんな普段は気にもしない事を聞いてみたくなったのかは分からない。いっそ衝動とも呼べるような不可解な気持ちだった。でも不愉快ではなかった。


「何故ため息をつく」


実際に声に出して尋ねれば、あいつは俺を見て、笑いながら言った。


「空が綺麗だから」


理由を聞いても俺にはさっぱり分からなかった。しかし俺は俺が分からない事を聞く前から分かっていたような気がする。それは俺がこいつでは無いからだ。こいつが何を見て何を思いどんな気持ちでため息を吐いたか詳しく聞いても実際に俺はため息をついていないのだから分かるわけが無い。それでも俺は理由を聞いた。ただ知りたかっただけなのかもしれない。

あいつは相変わらず真っ直ぐ空を見続けていた。空の色はこいつの髪の色とそっくり同じように見えた。俺の髪の色とは似ても似つかない。同位体なのにおかしな話だが、俺は気にならなかった。おそらくこの空も、俺の髪の色のように毒々しいほどの赤色よりも、こいつのような溶けるように柔らかい緋色の方が良かったのだろう(そして空にも嫌われる俺の髪の色を、こいつは大好きだと言うのだから相当の物好きだ)。

空を見るあいつの瞳は穏やかな癖してどこか痛々しかった。きっと空を見ながら何かに思いを馳せているのだろう。毎晩うなされている夢の事か、以前犯してしまった取り返しのつかない罪の事か、これから訪れるであろう先の見えない暗い未来の事か。隣に立つだけの俺には分からない。いくら同位体といっても、体の痛みも心の痛みも共有できる訳ではない。俺の痛みは俺の痛みでしかなく、こいつの痛みはこいつの痛みでしかない。当たり前の事だった。こいつの痛みを知る事も分けてもらう事もできない。その手段も分からない。

痛そうに立つこいつは、しかしそれでも誰かの力になりたがるのだ。自分の痛みを抱えながら、他の奴の痛みまで背負おうとする。呆れた奴だ。俺は俺のレプリカの痛みでさえ受け取る手段も分からないのに、こいつは見ず知らずの人間の痛みもほいほい受け取ってしまう。いや、それは少し違うのかもしれない。だって受け取った痛みは他の誰でもなくこいつの痛みでしかないのだから。器用なのか不器用なのか分からない奴だ。しかし受け取ってもらった人間は少なくとも、少なくとも痛みは軽くなっているのだろう。俺のように。



   ふたりがひとつだったなら 同じ鞄を背負えただろう


   ふたりがひとつだったなら 別れの日など来ないだろう



俺は昔から必死になって言葉ばかり覚えてきた。他人に伝える手段は言葉しかないと思っていた。思い込んでいた。そしてそれは確かに半分は正しかったのだ。会ったばかりの人間や、信用できない人間には言葉でしか己を伝える事などできない。当たり前の事だ。俺は生まれた頃から真の意味で独りだったものだから、言葉しかないのだと勘違いしていた。
必死に覚えて、やっと幾つか覚えられた。俺というものを伝えるのにそれは少しも足りなかったのだが。

考え込みながら夕焼けの光に照らされるあいつの横顔を眺めていれば、気付いたあいつが振り返ってきた。俺が何とか言葉にしようと口をあける間に、あいつはただ一度だけ微笑んだ。それだけだった。それだけで俺が今まさに言葉にしようとしたものを軽く越える何かを俺に送ってくる。俺が今まで散々努力して覚えてきた言葉とは、何と無力なものだろう。微笑み1つがあんなに上手に喋るとは。
言葉が出てこなかった代わりに、俺も何とか微笑んでみせた。練習なんてしてなかったからひどくぎこちないものだっただろう。だがそれでもあいつが嬉しそうにますます笑ったので、上手くいったようだった。これもおそらく、俺とこいつの間でしか成り立たない無言のお喋りなのだ。


思えば俺は、任務等で各地に出回り色んな世界を覗く度に自分がどうしようもなくガキに思えて恥ずかしく思っていた。周りは知らない大人たちばかりで、油断をすれば小さな俺など一瞬のうちに殺されてしまうような環境だったから仕方の無いことなのかもしれないが(いや殺されはしなかったか。俺のこの忌まわしい力のお陰で)。今思えばそれこそガキらしい発想だが、それでも当時は必死につま先で立っているような生き方だった。子どものような振る舞いを自分に一切禁じて、大人のように人を見下しながら歩いていた。それがどれほど滑稽な姿なのか、幼い俺には分からなかったのだ。そしてそれは、結構最近まで続いていたのだから目も当てられない。

皮肉な事だ。そんな俺に真っ直ぐ届いたのは、子どものように素直なこいつの言葉だった。


「夕焼け空が綺麗だなあって思う心を、殺しちまうなよ」


いつだっただろうか。今日のような夕焼けの日だったか。俺が柄にも無く沈む夕日をぼーっと眺めていて、それをこいつに見つかって、それが無性に恥ずかしくて慌てて色々罵りながら視線を外した。そんな俺にこいつは、怒るでもなく、笑うでもなく、ただ真剣な顔をして言ったのだ。


「いいじゃないか、そんな心。馬鹿正直に話すことを、馬鹿にすんなよ」


いつもの俺なら喚き返していただろう。何を言っているんだこの屑が、とでも、偉そうに口出しするんじゃねえこのレプリカ野郎、とでも。だがその時の俺は一言も言葉を発する事ができなかった。あの時は訳が分からなかったが、今ならよく分かる。あの時の俺は、恐怖していたのだろう。俺と同じ瞳が、俺と違う光を灯している事に。
そしてその瞳は、恐怖だけでなく別なものも俺の中に生み出したのだ。



   ひとりがふたつだったから 見られる怖さが生まれたよ


   ひとりがふたつだったから 見つめる強さも生まれるよ




固まった俺にあの時のあいつは、今さっきのあいつと同じように微笑んだ。俺が見惚れていた夕焼けよりももっと明るい眩しい笑顔だった。理屈ばかり捏ね回して、すっかり冷えた胸の奥が、その微笑みだけで嘘のように見事に燃え上がってしまった。そうだ、それこそ海を炎の色に染め上げる真っ赤な太陽のように。


俺は憎悪していた。あいつが生まれ俺ではない俺が生きている事に。

俺は恐怖していた。俺ではない俺が生まれあいつが生きている事に。


しかしその日その笑顔を見た俺は、ようやく思い当たったのだ。



ふたりがひとつだったなら、出会う日など来なかっただろう!






今日も俺は真っ赤な空を見ていた。あいつの笑顔を初めて見た空と、あいつと並んで見上げた空と、同じように美しい夕焼けだった。
俺は柄にも無く唄いたい気持ちになった。他の誰でもない、あの日思い知った(そしてそれは遅すぎた)俺の大切な人に唄いたい。聞こえているかは分からない。俺の声は大きくはないし、あいつが今どの辺の空を漂っているのか見当もつかない。そもそも空の上にいるのかも俺には分からないのだ。俺に残されたのは、あいつが確かにこの世界に存在していたというあいつの確かな記憶だけだ。そして記憶の中には、あいつ自身はいない。

届くかどうかも分からない。だからせめて続けたい。
続ける意味さえ分からないが。


1人で見た真っ赤な空。お前もどこかで見ただろうか。

俺の好きなあの微笑みが、夕焼け空に重なって浮かぶ。


俺の脳裏に浮かぶ、ただ一度の微笑み。俺があいつの記憶の中から、俺の記憶の中から貰ったものは、ただそれだけだった。
それだけで十分だったのだ。

ただ一度の微笑みに、こんなに勇気を貰うとは。


ここまで喉が震えるとは。







   真っ赤な空を見ただろうか






07/01/04