くしゅん、とアッシュは一つくしゃみをした。別に風邪気味ではなく、かといってアレルギーの類でもなく、強いて言うなら妙な寒気を感じて出てきたくしゃみだった。何故だかとても嫌な予感がする。誰かが面白半分に自分の事を噂しているような、そんな予感が。
「アッシュ、大丈夫か?風邪か?」
一度きりのくしゃみを聞きつけて振り返ってくる翡翠色の瞳。その顔からは純粋な心配の色しか見いだせなくて、どう答えて良いか分からずアッシュはとっさに
口をつぐんだ。この場で目が覚める前までは心底憎んでいたはずの存在だったはずだ。いや、一度死ぬ前にぶつかり合ったおかげで、何とかその存在を認める事
が出来たのだった。しかしそれがあったからって、今の自分にあの時のどす黒い感情が一ミリも残っていないのはどういう事だろう。黙々と歩きながら今まで、
アッシュはずっと戸惑っていたのだった。
アッシュが己のレプリカと共に目を覚ましたのは、太陽の光が降り注ぐタタル渓谷の一角であるらしい。アッ
シュにはあまり馴染みのない場所だったが、絶対にそうだと自信を持って豪語したのは前を歩いている朱色の頭だった。どうやら随分と思い出深い場所だそう
で、絶対に間違いないと語っていた。そんな訳で道案内もかねて前を歩かせていた所である。一度は死んだはずの自分たちがどうしてこの世界で再び目覚めたの
かは謎だが、とにかく渓谷を抜けなければ何も分からないままだ。
思考に沈んでいた頭をふと持ち上げると、振り返った心配そうな瞳が未だにじっと見つめていた。そういえば問いかけられて何も答えていなかった事を思い出
し、アッシュははっきりしないもやもやとした心を持て余しながら、目の前に立つ己のレプリカ、ルークへ向き直る。その髪は目覚める前まで確かに短く切られ
ていたはずだが、今はアッシュと同じぐらいの長さになっていた。その事にどういう意味があるのかはまだ分からないが、とりあえずルークは久しぶりの長髪に
落ち着かない面持ちだ。
微かに振られる首に合わせて宙に踊る焔色の髪に知らず注目しながら、アッシュは答えた。
「別に、何でもねえよ。いちいちそんな心配そうな顔するんじゃねえ、屑が」
「だってさあ、もし風邪とかだったら大変だろ?こんな渓谷の中だし……本当に大丈夫か?」
「大丈夫だと言っている!ふん……どこかの誰かが変な噂話でもしていたのかもしれんな」
「噂話?……ああ、そういう話あったな!どこかで自分の噂されてるとくしゃみが出るってやつ。何だ、それなら平気だな」
ずっと心配そうにアッシュを見ていたルークの表情は、途端にぱっと明るくなった。単純な奴だ、そう思いながらアッシュの心境には、呑気な己のレプリカに対
するイライラなんて無く、どこかほっこりとした和やかな気持ちしかなかった。自分がルークの笑顔に和まされている。改めて思うと何とも不思議な心地だっ
た。
ご機嫌なルークは安心したように前を向き、再び歩き始める。アッシュはこの場所が一体渓谷のどのあたりなのか皆目見当もつかなかったが、ルークの話による
とおそらくずっと奥の方になるらしい。ルークとてタタル渓谷の全てを知り尽くしている訳ではないので、今の歩みはほぼ勘に頼った適当なものだ。それ故に足
の進みは早くなく、むしろ遅い。考える時間が欲しいアッシュにとってはそれが逆に有難かった。
「くうーっ!ほんと、今日はいい天気だな。魔物も出てこないし、すっごく平和を感じるよなあ」
前方でぐいっと伸びをしながらルークが呑気な声を上げている。確かに非常に平和な時間だった。強すぎない日の光は徐々に傾きながらも二人の頭上へ平等に降
り注ぎ、そよぐ風も大変心地よい。目の前に立ちふさがる魔物の気配も辺りにはなく、ルークがいなければアッシュも同じように腕を空へ伸ばしていたかもしれ
ない。考え事ばかりに没頭していたら、うっかり眠くなりそうな天気だった。
そう思っていた傍から、前方でルークが大きな欠伸をかましている。気持ちは分からんでもないが気が緩みすぎだと思った。いくら魔物の気配がないからと、いつ危険が迫るか分からない。アッシュは少しだけ歩みを速めて、ルークに近づいた。
「おいレプリカ」
「んー?なに?」
「大口開けて間抜け面晒して油断するな屑が、隙を突かれて襲われでもしたらどうする」
お説教のついでに、その後頭部をぺしんと叩く。いてっとつぶやき振り返ってきたルークが文句でも垂れてくるかと思ったが、振り返ってどこか驚いたように見つめてきただけだった。その心底意外そうな反応は何なのだろう。
「何だ、何か文句でもあるのか」
「いや、文句じゃなくて……へへっ」
アッシュがじろりと睨み付けると、何故かルークが笑い始めた。予想していなかった反応に内心びっくりする。睨み付けた相手に笑われるのはあまり無い体験だ。アッシュが少し怯んだのを気配で感じたのか、慌ててルークが弁解してきた。
「ああっえっと、今のはその、アッシュの言葉が嬉しかっただけで!」
「はあ?嬉しかっただと?」
「だって、心配してくれたんだろ?俺の事」
にっこり笑顔でそう言われて、思わずあっけにとられる。己の今の言葉を頭の中で再生させて確認みると……確かに、ルークが言うような意味に取れないでもない、かもしれない。アッシュは足を止めて反論していた。
「ち、違う!今のはあまりにも間抜けた姿だったから、情けなくて腹が立っただけだ!思い上がるなよ!」
「はいはい、分かってるって」
「な、何だその態度はー!レプリカのくせに生意気だ屑が!」
「うわっごめんって!アッシュがあまりにもアッシュっぽくて和んだだけだってばー!」
「どういう意味だー!」
二人で揉めながら進む渓谷の細い道。二人共にこの世から消えたはずのあの時からどれほどの時が経っているのか定かではないが、こうして触れ合う未来が来るなどと思ってもいなかったなと、頭の片隅でアッシュは思った。
それからどれぐらい歩いただろうか。渓谷内をあっちにいったりこっちにいったりしているうちに、日はすっかり暮れ始めていた。元々二人そろって土地勘は無い。このまま野宿は決定的だろうと、アッシュは覚悟した。
「おいレプリカ、ひとまず落ち着けそうな場所を探すぞ」
「そうだなあ。荷物も何も持ってないけど野宿するしかないか……」
憂鬱そうにルークが空を仰ぐ。アッシュもルークも草むらに埋もれるように倒れていた所から一文無しで、服だって以前のものではなく同じ白を基調とした見慣
れないものを揃って纏っていたのだ。何の説明も無いまま唐突に放り出された理不尽ともいえるこの状態、一体何者の仕業なのか。心当たりは一人、いや一意識
集合体しかいない。
「くそ、あの屑ローレライ、覚えていやがれ……!」
「アッシュ―、ローレライへ文句言いたいのは分かるけど早く野宿する場所探そうぜー」
幸い魔物の類の気配は未だに感じなかった。もしかしたら向こうがこちらを察知して避けてくれているのかもしれない。この場所とのレベル差を考えたら十分あ
り得る。おかげで二人はちょっと崖の麓のややくぼんだ部分に腰を下ろして、ほぼ警戒することなく落ち着く事が出来た。足を無造作に投げ出して、ルークが
どっと息を吐いた。
「うはあー疲れた!思えば俺たち、ここまで飲まず食わずで歩いてきたんだもんなーそりゃ疲れるよな」
「ふん、そうだな……」
ルークの言うとおり、目を覚ましてから今まで約半日、何も口にしていない。無我夢中で歩いてきたお蔭で空腹を感じる事無くここまで来たが、体を休めた今はそうもいかない。案の定、隣からぐうと情けない音が聞こえる。
「はあ……腹減った……」
さっきまで元気な姿を見せていたルークが腹を押さえて項垂れる。アッシュも腹は減っているがここまで露骨に態度に出すほどではない。溜息をついたアッシュは、立ち上がりながらルークに言った。
「のたれ死なれても困るからな……仕方ねえ、適当に何か見つけてくるからお前はここで大人しく待っていろ」
「えっ!アッシュ何か探してきてくれんの?」
「俺も腹が減っているだけだ。ついでに何かあればおこぼれを分けてやってもいい、期待はするなよ」
「いやいやありがたい!っと言いたい所だけど、アッシュが行くなら俺も行くっ!」
歩き始めたアッシュの後ろから、ひょいと立ちあがったルークがくっついてくる。アッシュは呆れた顔で振り返った。
「さっきまで情けなく項垂れてたのはどこのどいつだ」
「だってアッシュばかりに働かせられないだろ?せっかく二人揃ってるんだから、二人で頑張ろうぜ!」
隣に追い付いてきて、嬉しそうに笑うルーク。そのまま追い越して何かないかとあたりを見回すその背中を見つめて、アッシュは足を止めていた。
二人で。そう発したルークの声が、奇跡の様に輝いて聞こえたのはきっと、本当にそれが奇跡と同じような事なのだと感じているからだ、ルークも、アッシュ
も。そもそも争い合う事無くこうして二人で並んで歩いている事自体、前に比べたら奇跡のようなものだ。言葉に言い表せない途方のなさを感じて、アッシュは
少しだけ遠い目で空を見た。
本当にこの状況は一体何なのか、この空の向こう側にいるであろう存在に問い質したい。
「……アッシュ、何してるんだー?」
「いや……」
不思議そうなルークの声がかけられて、とりあえずアッシュは気を取り直す。とにかく今は、目の前に転がる問題を片づけていくしかないのだ。
幸いここは緑の多い渓谷の中だ。さほど時間をかける事無く赤い実をつけた一本の木を見つけることが出来た。アッシュの脳内の知識を総動員させ、この実は普
通に食べられる実だろうと見当をつける。そういう思考をしないままルークは大喜びで手を伸ばし、すでにいくつか赤い実をもいでいるが。
「ほらアッシュ見ろよ、なかなか美味そうな実だな!」
そのまま食べるかと思いきや、目の前に駆けてきて両手に持った戦利品を見せてくる。その様子はさながら、狩った獲物を咥えて褒めて褒めてと飼い主に駆け
寄ってくるわんこそのものである。やや小ぶりな熟れた赤い実を手に嬉しそうに笑うルークの腕の中から一つとって、目の前に掲げた。
見れば見るほど、鮮やかな赤色だ。赤、といえば自分たちのカラーでもあるが、この眩しいほどの赤に近い色を持っているのはアッシュよりも色素の薄いルークだろう。そう、自然と考えた。考えながら口に出していた。
「この色、お前に似ているな……って何言わすんだ屑がっ!」
「えっ何が?!」
一人で何か呟いて一人で何かにつっこんでいるアッシュにルークがびっくりする。それ以上にびっくりしているのがアッシュだった。なぜ今素でルークを連想し
てしまったのだろうか。確かにさっきからずっと一緒にはいるが、それにしたって何かがおかしい。ちょっと前まで憎んでいたはずの相手を、こんな赤くて美味
しそうな木の実を見て思い浮かべるなんて。
木の実を手に脳内で葛藤し始めたアッシュを、ルークが怪訝そうに覗き込んできた。
「アッシュ、どうした?その木の実がどうかしたのか?」
「赤くて、美味しそう……じゃねえ!そんな事思ってねえ!」
「え?!いや、俺は赤くて美味しそうに見えるけど?!」
そこでようやくアッシュはハッと我に返った。動揺のあまり変なことを口走ってしまった。ちょっと手遅れのような気もするが、手に持っていた木の実をがぶりと食べて誤魔化そうとする。
「……ん、少し酸味もあるがなかなかいけるな。空腹のあまり幻覚が見えていたようだ、俺としたことが……」
「え、それってやばくね?大丈夫か?」
「ふん、心配されるほどではない。それよりお前もさっさと食え、腹が減っていたんだろうが」
「う、うん。まあアッシュが食えるなら俺も食えるしな!いただきまーす」
抱えた木の実の中から一つを齧り、ふにゃりと笑顔になるルーク。お腹が空いていた分その美味さもひとしおだろう。アッシュも食べかけの木の実を齧り、あっ
という間に食べつくしてしまった。一個がそんなに大きくないのですぐに食べ終わってしまうのだ。アッシュがもう一個手に取っている間にルークも食べ終わ
り、二人で次々と木の実を消費していく。
「美味いなこれ。腹も減ってたし、いくらでも食べられる気がする!」
「おい少し自重しろ、お前のが一つ多く食ってるだろうが」
「いやそんな事ねえよ!アッシュの方がむしろ今の時点で多く食べてるだろ絶対!」
「んな訳ねえだろ!見ろこの大口、俺より倍は食ってる口だろうが!」
「いひゃいいひゃい!っほっぺ摘まむなよ!別に大きくねえし!俺アッシュのレプリカなんだから同じぐらいのはずだし!」
「同じだと、嘘つけ!これだけ柔らかい頬をしておいてどこが俺と同じだ!」
「柔らかい?そうかなあ、じゃあアッシュも柔らかいんじゃねえの?どれどれ」
「おっおいこら、俺のを摘まもうとするんじゃねえ!」
「えーっ俺のばっかり摘まんで逃げんなよー!ずるいぞー!」
木の実の取り合い合戦からいつの間にかほっぺた摘まみ大会になっていた二人の争いは、木の実が全て腹の中に消えてなくなった後もしばらく続いた。
その後、一通り空腹を満たした二人は、先ほど見つけた場所に再び腰を下ろして身を落ち着けていた。先ほどまで暮れかけていた空はいつの間にかすでに夜空へ
と移り変わっていて、辺りは月の光が届く範囲しか見渡せないほどの暗闇に包まれている。草むらからは絶えず虫の声が鳴り響き、その澄んだ音に耳を傾けなが
ら、アッシュもルークもしばらく無言で空を見上げていた。
頭上では眩しいほどの月が出ているにもかかわらず、無数の星々が真っ暗な空で一つ一つ輝いている。死んだら人は星になる、と昔童話か何かで耳にしたことが
ある。その事をぼんやりとアッシュは思い出していた。本来ならば自分も、あの空に散らばった小さな星の一つになっていたのだろうかとも考えながら。
似たような事を考えていたのだろう。折りたたんだ膝に顎を乗せて座り込んでいたルークが、ぽつりと独り言のように話しかけてきた。
「不思議だよな……俺とアッシュが二人で生きて、ここでこうしている事。アッシュと一緒に生きたいとは思っていたけど……そんな未来、絶対に来ないと思っていたのにな」
その横顔はどこか切実で、ルークが本当に今のような未来が来ることは無いだろうと思っていた事が伝わってくる。それはそうだろうな、とアッシュは思った。
今日目が覚めて初めて顔を突き合わせたとき、互いの今までの大体の事情はすでに伝え合っている。そこで生じていたアッシュの誤解も、大爆発の真実も、すで
に解消済みだ。もしも正しく二人の間で大爆発が起きていれば……ルークがアッシュと「共に」こうして生きている事を想像できなかったのも仕方ないだろう。
ルークは空に向けていた瞳を戻して、アッシュを見つめてきた。目が合うと、心から嬉しそうに微笑む。
「なあアッシュ、今っていつなんだろうな。もし俺たちが死んでから、100年とか200年とか経ってたらどうする?」
「何だと?」
「ありえない話じゃないだろ?もうすでにありえない事ばっかり起こってるんだからさ」
ルークの言う通り、ありえない話ではない。時間の感覚はまったく無く、今まで誰にも会っていないのだから正確な時間を確かめようのない今、あれから数日後
なのか1年後なのか、はたまた100年や1000年以上経ってたりするのか、二人には判別のつかない事なのだ。ルークが何を言いたいのか分からず無言で先
を促せば、くすくすと微かな笑いが二人だけの空間に響く。
「そうなったら俺たち帰る場所無いよな。知り合いもみんないなくなっちゃってるだろうし……なあ、そうなってたらさ、」
「……何だ」
「アッシュ、俺と一緒に暮らさない?」
予想もしていなかった言葉にアッシュが軽く目を見張ると、ルークは笑みを深めた。
「いいだろ?だって誰も俺たちの事知らないんだからさ。ここで二人のんびり暮らしてもいいし、どこか町に出てもいいな。俺、アッシュとだったらどこでもいい。アッシュと生きてみたいんだ」
希望を語るルークの瞳は、星と月が照らす夜空よりもキラキラと輝いて見えた。思わずアッシュはその光に魅入る。もしも、の話だ。もしもこの世界が、ルーク
の言うとおり他の誰も知り合いのいない世界であれば。アッシュとルークは互いを知っている唯一の人物となる。その時は……ルークと、二人きりで。
アッシュはしばし目を閉じて、静かに口を開いた。
「……。そうだな、考えておこう」
明確な答えを出さなかったアッシュを、しかしルークは嬉しそうに見つめてくる。もしかしたら、の未来を、アッシュが考えてくれるという、その事実だけで嬉しかったのだ。こんなもしもあるかもしれない未来を語り合う事さえ、以前の二人なら出来なかった事だから。
にまにまと笑うルークがあまりにも嬉しそうだったので、アッシュの方がだんだんと照れくさくなってきた。居心地悪そうに身じろぎして、ルークから必死に目を逸らす。それでもこの場を去ったり完全に否定したりしないのは……それが、答えだからだ。
「へへ……なあアッシュ、お前は住むならどこがいい?俺はエンゲーブあたりものんびりしてていいと思う」
「ああ?そうだな、ダアトの周辺も落ち着いてて割と住みやす……って気が早い!まだあれからどれほど経ったか確認できてねえだろうが」
「そうだよなあ、それが分かってからだよな」
明日になったら分かるかな。そう呟くルークの横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。まるで今の話は完全に夢物語で、そんな未来でもなければアッシュと共にい
れないとでも思っているかのような態度だった。……事実、アッシュはもし今があれから1年後や2年後だったとしても、素直に帰る気はなかった。その空気を
ルークも察しているのかもしれない。
だってもう、アッシュはこの世に居場所がない。オラクル騎士団からは抜けた身であるし、バチカルは……あそこはもう、自分の場所ではない。少なくともアッ
シュはそう思っている。だから正直、こうして生きている現実に喜ぶ前に困惑しているのが現状だった。そんなあいまいな気持ちのまま、ルークと共には行けな
い。ルークにはおそらく、帰りを待つ仲間や場所があるだろうから。そしてルークも、その陽だまりの下に帰りたがっているだろうから。それを止める権利は、
アッシュにはない。
……しかし。本当に今のルークの話はただの夢物語だろうか。ここが、共に帰る場所のない遠い未来の世界だった時にしか、共には生きられないのだろうか。そんな消去法でしか選べない未来なのだろうか。
アッシュは少しの間躊躇って、何かを言おうとして口を開いた。
「………」
しかし言葉を発する前に、その口からは吐息だけが漏れた。ふいに夜の渓谷の静寂だけが入ってきていたその耳に、別な音が聞こえたからだ。それはどこか懐かしくさえ思う、人間の奏でる音だった。
歌が、聞こえる。
「あ……」
驚いたルークが立ち上がる。遅れてアッシュも腰を上げ、聞こえてきた歌に耳を傾けた。その歌は渓谷のどこかで歌われているのか細く小さく、しかし確実に二
人の元まで届いてきた。他に何の雑音もない渓谷内だからなのか、それとも歌自体に何か力があるのか、それは定かでは無かったが。アッシュはその歌を知って
いた。ルークの方がもっと良く、知っていた。
「譜歌だ……」
ルークがどこか呆然と零す。アッシュも何度か耳にしたことがあるその歌は、ルークの仲間の一人の少女がよく歌っていたものだ。古の時代から受け継がれてきた特別な譜歌だ、歌える人間は限られている。何よりこの声に、間違いはないだろう。
「……どうやら少なくとも、あれからそんなに時は経ってなかったようだな」
「うん……」
懐かしい声は記憶のものとほぼ変わりがない。まるで誰かを呼ぶように響く譜歌に聞き入っていたルークの表情が、喜びの色に染まっていく。ルークが喜ぶの
も、この譜歌が誰かを呼んでいるように聞こえるのも、アッシュはその理由を何も言わずとも分かっていた。これはまさしく、ルークを呼ぶ歌だからだ。帰って
来い、ここに帰って来いと、ただひたすらルークを呼んでいるのだ。その歌に答えるように、ふらりとルークが数歩前へ進む。アッシュはその背中を、その場か
ら一歩も動かずに見つめた。
歌に運ばれてきたように、白い花びらが数枚ふわりと、ルークを取り囲む。月の光に照らされたその光景は、夜だというのにまるで……陽だまりの下にいるように輝いていた。アッシュは自分が満足している事を悟った。その気持ちのまま、ルークへ語りかける。
「……行ってこい、ルーク」
「え……?」
ルークが振り返ると、アッシュはまるで微笑んでいるかのような穏やかな表情でこちらを見つめていた。まるで今、別れを告げられたかのようだった。いいやまさに告げられたのだろう。譜歌に惹かれる心を抑えて、ルークはアッシュに向き直った。
「アッシュ……?」
「あれはお前の仲間の譜歌だろ。お前を呼んでいるんだ。早く行ってやれ」
「そうだけど……何で、行って来いなんだよ。アッシュも一緒に……」
「俺は行かねえよ」
「っ!何で!」
ルークが一歩詰め寄れば、アッシュは一歩後ろに下がった。まるで二人の間に超えられない壁があると主張されているようだ。さっきまであんなに近くで語り合っていたのに。ルークは何とかアッシュを共に連れて行きたくて、どう説得するべきか懸命に考える。
「どうしてだよ……もしかして自分は帰るべきじゃないって、そう思っているのか?そんな訳ないだろ!本当なら……ここに帰ってきたのはアッシュだったはずだ!それに元々、俺の場所には、本当ならアッシュが……!」
「ルーク」
「っ!」
静かに呼ばれて、ひゅっとルークは息を飲む。同時にようやく気が付いた。アッシュがルークの事を、「ルーク」と呼んでいる。ごく自然に、初めて会って自己紹介をした時からそうであるかのように、ルークの目を見て「ルーク」と呼んでいた。
「ルークは、お前だ」
「あ……」
「俺がそう認めたんだ。それをお前は、否定する気か?」
問いかけられ、慌てて首を横に振る。どんどんと胸の奥から溢れてくる暖かいもので体の中はいっぱいで、ルークは言葉を詰まらせた。嬉しい。嬉しくて、何も考えられない。
アッシュが自分を認めてくれたのが、こんなにも嬉しい。
「……俺は、ルークだ」
「そうだ。俺はお前じゃねえし、お前は俺じゃねえ。ルークはお前だ。この歌はルークを呼んでいる。だからお前は帰るべきだ、分かるな」
「うん、分かる、分かるよ……でも、アッシュ……」
「……俺はまだ、帰れない。まだ俺自身の気持ちが定まっていない……覚悟が出来ていない。情けねえ事だが……」
一度だけ目を逸らして、すぐにルークを見つめ直すアッシュ。その手がふいにこちらへ伸び、頭の上で軽く何かを摘まんだ。その手に摘ままれていたのは、白いセレニアの可憐な花びらだった。ルークを呼びにきた花びらを、アッシュが風に乗せて空に放つ。
「別に、今生の別れって訳じゃねえ。俺も死ぬつもりはないしな……生きていれば、会う機会もある」
「……そう、だな。俺もアッシュも生きているんだから、永遠の別れって訳じゃない。かならず会える。……でもさ、約束しろよ」
ルークはアッシュの心を変えられない事を悟っていた。これはアッシュ自身が決めた事なのだから、誰も曲げたりは出来ない覚悟なのだ。だからもう引き止める事はせずに、精一杯の笑顔で右手を差し伸べる。
「アッシュの気持ちの整理がついて、心が決まったら……必ず、帰ってこいよ。俺、待ってるから。ずっと」
アッシュはしばらく差し伸べられた手を見つめる。握ってくれないかもな、と思ったすぐ後に暖かな同じ大きさの手が触れて、ルークはくしゃりと笑った。
「絶対だからな、約束だぞ!」
「……ああ、約束しよう。いつか必ず、帰ってきてやる。うるさいのがいるから仕方なくな」
「悪かったな、うるさくて!」
握られた手はすぐに離されたが、手にしたぬくもりはきっとずっと消えないだろう。アッシュはルークと視線を合わせてから、歌の聞こえる方向とは逆へ歩き出した。ルークはその背中をただ見送る。大丈夫だと、心の中で己に言い聞かせながら。
大丈夫。きっといつか共に生きる事が出来る。約束したのだから。
大丈夫……。
………。
「……待てよ、アッシュ!」
「?何だ……っうおっ?!」
振り返りきる前に、アッシュは情けない声を上げてそのまま地面に倒れ込んでいた。突然突撃してきて、背中にぎゅっとしがみついてきたルークのせいだ。アッシュの真っ直ぐな真紅の髪が顔にかかるが、ルークは気にする事無くぎゅうぎゅうとしがみつく。何とか顔だけ起こしたアッシュが、振り返ってぎろりと睨み付けてきた。鼻を押さえている所を見ると、地面にぶつけてしまったらしい。
「……っこの屑レプリカ!いきなり何なんだ!くそ恥ずかしい約束をしてあれだけすっぱり綺麗に別れの挨拶までしたのにこれは……」
「嫌だっ!」
「はあ?!」
怒鳴るアッシュに負けじとルークも大きな声を上げた。しがみついたままキッと顔を上げれば、怒り顔のアッシュと目が合う。
「さっきまでは、アッシュの意志も尊重してそのまま行かせようと、ここで別れようと思ったけど……やっぱりやだ!」
「な、んだと?!てめえ、ワガママ言うな!」
「ワガママでいいだろ、俺七歳児だし!」
「おま、とうとう開き直りやがって……!」
アッシュは何とかうつ伏せの体勢を仰向けに転がした。それでもその体を離そうとしないルークはアッシュの服を掴んで逃がさないようにして、正面から睨み付けるようにじっと見つめる。その強い視線に、さすがのアッシュも気圧されているようだ。多分ルークがこれほどまでにアッシュに強い態度をとったのは、これが初めてだった。
「俺、後悔したんだ。師匠倒して、ローレライ解放して、動かないアッシュを両手に抱えた時……もっと、もっとアッシュと話をしておけばよかったって。俺がもっとアッシュに近づいて、もっとよく話をしていれば、こんな結末は訪れなかったかもしれないって。本当はずっともっとアッシュと一緒にいたかったのに、レプリカだからとか理由付けていつも一歩引いてた。もう俺、あんな思いをしたくない……!沢山間違いを犯してきてしまったけど、あんな後悔はもうしたくないんだ……!」
「……ルーク」
それはルークの心からの叫びだった。後悔した事は沢山ある。その中でもアッシュのあの結末は、自らの身を切られたような喪失感と絶望を味わった。ルークにとって、何よりも耐え難い苦痛だった。俯いてカタカタ震える肩を、アッシュがやや呆然と見つめる。
あの時の絶望を思い出し、荒れ狂う心情を何とか落ち着け、顔を上げたルークの瞳は少しだけ潤んでいた。その翡翠の瞳には、もう二度と失いたくない半身が映る。
「……だから俺は、ワガママになる。良い子でいて、卑屈になって、それで大事なものを失うのなら、俺は誰よりもワガママになってやるんだ。……アッシュ!だから俺のワガママを聞け!」
「な、何だ!」
どんなワガママが飛び出してくるのか、僅かに身構えるアッシュに、ルークが顔を寄せる。それは一瞬だった。しかし確実に、ルークの唇は相手の同じ器官に触れ合い、そして離れた。見開かれた同じ色の瞳に、真っ赤になったルークが言った。
「俺、アッシュが好きだ!誰よりも何よりも、世界一好きなんだ!」
「……っ?!」
「ずっと一緒にいたい、一緒に生きたい!消えたはずの俺がここに生きているのは、きっとアッシュにもう一度会うためだったんだって、胸張って言えるくらい……!それぐらい、好きなんだ!目を覚ましてから、アッシュと一緒に生きている今が、怖いぐらい幸せで、嬉しかったんだ……!」
ぎゅっと目を瞑ったルークの目じりから、一粒の雫がぼろりと零れる。溢れて止まらない想いと共に、ぼろぼろと零れていく。それを黙って見つめていたアッシュは、上半身を起こしてルークへと手を伸ばした。しゃくり上げて俯くその頭を、くしゃりと撫でてくれる。
「どんなワガママが飛び出してくるかと思えば……そうくるとはな」
「おっ俺的には最大限のワガママだっ!だって、どっか行こうとするアッシュを、こうやって引き留めてるしっ……!」
「まあ、そうだな。まさかいきなり好きだのなんだの告白されるとは思っていなかったが」
「それは……い、言っただろ、ワガママだって!全部俺の正直な気持ちなんだから、仕方ないだろ!」
最早ヤケクソ気味にルークがアッシュを涙目で睨み付ける。が、すぐにその瞳は申し訳なさそうに歪んだ。
「……ごめん」
ワガママを言うと豪語したと思ったら突然謝るルーク。アッシュは心から呆れた顔をした。
「本っ当に突拍子もない奴だなてめえは……それは何の謝罪だ」
「ワガママ言うとは決めたけど……それをアッシュが受け入れてくれるかどうかは、アッシュ次第だから。だから、ごめん。いきなりこんな事言って」
「……お前はそこまで言っておいて、俺に言う事を聞かせようとか、そういう行動には出ねえ訳か」
アッシュの言葉に、ルークは躊躇うように俯く。そこまでの自信は無かった。心意気は確かにあったが、自分の言葉や行動でアッシュを動かせるとは思っていなかったのだ。ルークの中でアッシュはそれほどまでに絶対的な存在だった。だからせめて自分の想いだけは全て伝えておこうという、決意だった。
アッシュは自分の頭を押さえて、重い溜息を吐く。ルークの肩がびくりと震える。
「ここまでしておいて後は俺に判断を委ねるとか、とんだ迷惑野郎だな……」
「……ごめん」
「いちいち謝るな、うっとおしい」
うっと怯むルークの頬へ、アッシュが触れる。そのまま軽く持ち上げられたので、素直にルークは顔を上げた。すると、目の前にアッシュの瞳が大きく映った。
「へ……?」
呆けた声を漏らした唇がふさがれる。自分からした時より少し長くキスの時間は続いて、ゆっくりと離された。ぱちぱちと瞬きをするルークに、呆れた顔のままアッシュがふっと笑う。
「……俺にここまでさせたんだから、いい加減少しは自信をつけたらどうだ、卑屈野郎」
「は……。……えっ?!」
ようやく今何が起こったのか理解した七歳児の頭が、ボンと音を立てて沸騰する。一瞬でゆでだこになったルークから視線を逸らして、アッシュは空を見上げた。
「そうだな……それもいいかもしれん」
「な、なな何が?!どういう事?!」
「お前のワガママに付き合ってみるのもいいかもしれないと言ったんだ。……これからの己の身の振りをどうするべきか、未だ分からないままだが……俺も、俺の望みのまま動いてみて、いいのかもしれんな」
目の前に座り込むルークの身体を、アッシュが引き寄せる。そして一度だけぎゅっと、想いのまま抱き締めた。
「俺とて、これを失うのはもう、ごめんだからな……」
「……アッシュ」
これ、が誰を指しているのか、いくら鈍いルークでも分かる。すぐに身体を離したアッシュはその場から立ち上がり、ルークを引っ張り上げた。おっとっととたたらを踏むルークへ、尊大な態度で尋ねてくる。
「それで?ワガママ大王は俺をこれからどうしたいんだ」
「えっ?」
「さっき言っただろうが、お前のワガママに付き合ってみてもいいと。おら、俺の気が変わらない内にさっさと言え。お前は俺と、どうしたいんだ。ルーク」
ぽかんと口を開けたルークは、みるみるうちに瞳を輝かせ、満面の笑みになった。あれだけ願っていた、でも叶う事はないのだろうと半ば諦めていた、希望の未来が今、手の届くところで待っている。ルークのワガママという名の切実な願いを叶えるために、それが出来る唯一の存在が、笑ってこちらを見てくれている。大好きで、大切な、己の半身がここにいる。生きている。共にここで、生きている。
ルークは溢れる愛しさそのままに、アッシュへと手を差し伸べた。
「アッシュ、帰ろう。俺と一緒に、俺たちの場所に帰ろう!」
目の前に広がるルークの掌へ、アッシュの同じ掌が重ねられる。
「……ああ。帰ろう、ルーク。俺たち二人の、陽だまりに」
今度はもう、そこから離される事は無かった。
二人の選択 ベストED!
「どうして、ここに?」
溢れる喜びの涙そのままに問いかけてくる少女へ、赤毛の青年は答えた。
「ここからなら、ホドを見渡せる」
「それに、」
「「約束、したからな」」
声を重ねて答えた後、二人は笑った。
その手は固く、繋がれたままだった。
14/04/01
□